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竜の追憶

 インドラにはまだ息があり、苦しそうな呼吸音がルークの神経を突いた。

「なんで、あんたがここに……いるんだ、ふざけんなよ……」

 ルークがインドラをゆっくりと抱き起こすと、インドラは潰れていない片目を薄く開き、我が子の目をじっと覗きこんだ。

 と同時に、ルークの頭の中に膨大なイメージが流れ込んだ。それはインドラの記憶、あるいは追憶であった。


 *   *   *


 一匹の竜がいた。生まれた時から孤独の只中にいたこの竜は、ある島に潜伏していた時、とある人間の女性に恋をした。

 しかし彼の姿は恋した者のそれとはかけ離れていた。

 それを竜が悲しみ、嘆き、彼女と同じ姿になりたいと延々望み続けていると、いつの間にか彼の姿は人と違わぬ物と化していた。


 元より高い知能を持ち合わせた竜にとって、人間社会に溶け込むのはそう難しい事ではなかった。

 強いて言えば竜独特の高いプライドが彼を些か阻みはしたが、恋だの愛だのというのは恐ろしいもので、時にそれ以外の万事を全く問題にせぬ力を発揮するのである。


 彼は名をインドラとして、性格や価値観すら人間に好まれるものに変化させていった。

 インドラは準備を整え件の女性に近付き、根気よく交際を図った。

 すると彼女もそのひたむきな姿勢に心打たれたのか、やがて二人は結ばれ、島から本土へと移りそこで生活を始めた。


 その後彼らの間に二人の子が生まれ、兄をルーク、妹をサリーと名付けた。

 竜にとっては初めての孤独を感じ得ぬ日々に、彼は極上の幸福を味わっていた。

 しかし竜には不安に思うところがあった。

 今では竜の姿に戻れるのかも分からないインドラであったが、もし完全な人間になり切れていなかったらと思うと、恐ろしくて試す気にもなれずにいた。

 

 


 そんなある日、妻が倒れたとの知らせが彼の職場に入った。

 実の所は単なる貧血で、大した事もなく済んだのだが、その時インドラは確かに家族の死というものを考えた。

 すると、彼の全身にどこか覚えのある力が湧き上がってきた。

 それは竜としての力に違わず、インドラは自分がまだ竜であることを直感的に悟った。

 

 これにインドラは慌てふためいた。

 二人の子は人間と寸分違わぬ姿をしていたが、彼らは間違いなく竜の血を引いており、そして次に何が起こるか、竜であるインドラにも全く予想がつかなかった。

 

 もはやこれを妻に黙っているわけにはいかないという、いつの間にか彼の中に芽生えていた人間的感情の下、インドラは洗いざらいの全てを妻に明かした。

 しかしこれに妻は非常に狼狽して、一旦インドラと距離を置こうと考えた。

 インドラは二人の子を一篇に世話し切れない、という名目で、サリーを妻に連れて行かせた。

 これは、妻の子供への愛情が、幼い兄弟を引き裂いたままにはできまいと考えた上で、いち早く妻が自分の元へ帰って来るようにとしたインドラの作戦であった。

 

 彼は港から島へ向かう定期船を見ながら、全ての問題を乗り越え、また幸せな生活を送る家族の姿を考えるよう努めた。


 


 しかし事件は起こった。

 妻が家を出て一週間後、話をしようと島にやってきたインドラを待っていたのは、惨憺たる血の海であった。

 何者かが夜中に集落を襲ったとのことであったが、島民が猟銃を用いて射止めようとしていたそれは、インドラの娘、サリーであった。

 サリーの皮膚は随所が鱗と化し、四肢はもはや竜のそれと同じ様に鋭い爪が生えていた。

 それに血を滴らせているものであったから、事情の分からぬ島民からすれば悪魔のように見えたことだろう。

 

 銃弾も碌に当たらず銃手の一人が惨殺され、次にとインドラに向け走ってきたサリーを、インドラは竜の力でもって地面に伏した。

 サリーは完全に理性を失っており、何とかインドラの手から逃れようと唸り声を上げて暴れた。

 その様にインドラは深い悲しみと激しい後悔を抱き、押さえつけた娘に彼の涙が零れた。

 

 やがて島民がその周りに立ち、銃を持った一人が言った。

「よくやってくれたぞ。さあ、そいつを殺してしまおう」

 その言葉にインドラはぎょっとして顔を上げた。

「待ってくれ、サリーは私が何とかするから、だからどうか殺さないでくれ!」

「ふざけるな!みんなそいつに殺されたんだぞ!」

 周囲の人間たちもそうだそうだと怒りの声を上げた。

 そしてその怒りの矛先はインドラにも向いた。

「お前の娘が化け物だったんだ、ひょっとしてお前も化け物なんじゃないのか?」

「そうだ、こんな化け物を抑え込める人間がいるものか!」

「そうだ、そいつも殺せ!」

「殺せ!」

「殺せ!」

 沢山の殺意が竜の親子に向けられた。

 そして誰かの銃口がサリーに向けられた時、インドラは身の内に湧き上がった懐かしい感覚に身を委ねた。


 竜は港の船をことごとく沈め、伝書鳥を呑みこみ、島を密室の狩場にした。

 燃え盛る激しい怒りと島民たちの阿鼻叫喚の中にあっても、竜は冷静に現状で考えられる最善の策を実行していた。

 

 サリーはどんな手を使ってもしばらく動くことはできず、無理に彼女を連れて逃げようともすれば、恐らく体が持たずに死んでしまう。

 幼くして竜になることは、相当に生命力を削ることのようだった。

 とすれば、この島でサリーの回復を待ち、その折にルークも連れてどこかへ逃げるのが理想である。

 そのためには、サリーを傷付ける一切の人間をここへ寄せ付けないこと、そして自分が島でサリーの世話をする間、ルークの安全を確保することが条件であった。

 最終的に、島で起こった事を島外に漏らさず、本土の人間を騙し続ける事が最善策だとインドラは結論付けていた。


 気付くと、彼の目の前に抱き合って震える親子がいた。

 子どもはサリーくらいの年齢であろうか、がちがちと歯を鳴らして母親にすがり付き、母親はその瞳に恐怖を宿しながらも、娘を力強く抱きしめていた。

「お、お願いです……助けてください。せめて娘だけでもどうか……!」

 母親の振り絞ったような声に、インドラの怒りの炎はふと収まった。

 しかし竜の声は全く無感情に答えた。

「貴様らは何も悪くない。必死に生きようとしているだけだ」

 竜は大きな足をすっと持ち上げた。

「故に、私の勝手により死ぬのだ。……許しは請わぬぞ」


 インドラが人間の姿に戻り、サリーをおぶって妻の実家に向かうと、やはり妻もそこで死んでいた。

 惨い死体であった。

 しかしインドラの心は完全に麻痺し、悲しみを感じることもなかった。

 寝室にサリーを寝かせ、彼が竜の本能の命ずるままに魔法をかけると、サリーの苦しそうな呼吸は収まり、規則的な寝息を上げ始めた。

 どこからか鳥のさえずりが部屋に流れ込んだ。

 もはや、この島に生きている人間はいなかった。


 インドラはサリーの様子が落ち着くと、すぐに竜となって本土に向けて飛んだ。

 こうして被害者を装ったインドラは偽の情報を本土の人間に伝えると、ルークを地元の友人らに託した。

 不安そうに自分を見上げるルークの顔を、インドラは見ることができなかった。


 その後は竜を殺せる道具を探しに行くという名目の下、すぐ島に戻り、噂を聞きつけてやってくる腕利きの飛行機乗り達を蹴散らしていった。




 それから何年かの時が経った。

 二、三年ほどではあろうが、インドラにとってはもっと長いものに感じられた。

 娘に延命の為の魔法をかけ、食事をとらせ、身の回りの世話をする。

 竜に挑戦する飛行機乗りがいなくなってからというもの、彼の生活はその繰り返しであった。

 

 唯一の楽しみと言えば、サリーの名を使って書いた偽の安否報告に返される、ルークからの花だった。

 本土の人間を騙す為に設けた制度だったが、このような形で返事が来るとは嬉しい誤算だった。

 その花は確かに、自分の息子の存在を感じさせるものであった。

 我が息子ながらキザッたらしい真似をするとは感じていたが。      

 インドラはその花を生けた後、以前送られた花と同様に娘の枕元に置き、いくつか並んだ花を見て微笑んだ。

「どうだ、サリー。こんなにお前は兄ちゃんから愛されてるぞ。きっと、いつか会えるようになるさ」

 花に囲まれたサリーは眠ったままで、それはそれは可愛らしいものだった。




 そんなある日、久方ぶりの挑戦者が現れた。

 ある種の行事のようにそれを楽しげに迎えたインドラであったが、挑戦者の正体がルークであると分かると、その気持ちはもはや天にも昇らんばかりであった。

 久しぶりに会う息子は少し怯えてはいたが、それでも勇ましく飛行艇を駆って巨大な竜に立ち向かう姿に、インドラは猛烈に感動した。

 それを億尾にも出さずに飛行艇を軽々と損傷させると、インドラはわざわざ執拗に挑発的な言動をとり、最後にまた来るように言い残して島へ飛び去った。

 

 この屈辱を怒りに変えたルークが、再び臆すことなく挑んでくるのをインドラは期待し、そしてその期待通りにルークはまた何度も挑戦しに訪れた。

 インドラにとっては薄暗い生活を一瞬でも忘れさせてくれる、最高の時間であった。


 こうして心に余裕のできたインドラは、島民たちのために墓を作った。

 遺体は既に焼き払ってしまっていたが、せめて墓標だけでも建てようと、家の裏手の森に作った妻の墓と同じ場所に、島民と同じ数くらいの墓標を新たに作った。

 

 そのうちに彼の中に宿った人間性故なのか、インドラは涙を流して島民たちに謝り、そして妻の死を改めて悼み、彼女の墓にすがり付いた。

 最愛の人を失った悲しみが今になって、彼に圧し掛かっていた。

 やがて彼は知らずの内に竜の姿になって、その慟哭を茜空に響かせていた。

 体の構造なのか、竜になった彼の目から、涙は流れなかった。




「なあ、僕は本当に……お前を殺せるのか?」

 島を閉ざしてから五年が経った時、ルークの放った言葉はインドラを心底慌てさせた。

 しまった、やりすぎたと彼は内省し、不器用ながらも必死に励ましたが、別れ際になってもルークは意気消沈したままであった。

 

 島に戻ったインドラは娘を見やる。

 未だに意識は戻らず、体の成長は五年前から止まったままであった。

 寝具の横の椅子に座り、手を取りながら話しかけた。

「なあ、兄ちゃん、もう来てくれないかもしれないんだ。あいつのこと、サリーの名前で励ましてやってもいいかな?」

 無論それにサリーからの返事が返ってくることはなかったが、インドラは机に向かい、愛しい息子に送る手紙の文をゆっくりと考え始めた。なにせ時間はいくらでもあった。

『青の花ありがとう』




 それから二カ月程の時が経った時、サリーの様子に変化があった。

 今まで落ち着いていた様態が目に見えて悪化し、インドラはいよいよその時が近付いていると、直感的に悟ってしまった。

 すると、彼の中に抑えようのない何かが湧き上がった。

 その時点では何とか抑え込める程度ではあったが、なるほど、恐らくこれが娘を凶行に駆り立てたものの正体なのだとインドラは理解した。

 とすると、もはや聡明な竜としての、人間としてのインドラに残された時間は少なかった。

 脳裏に“自殺”という言葉がふとよぎったが、何の呪いか、竜という種族に自殺は許されず、自ら死のうとする行為を体は許さなかった。

 

 そこでインドラは急いで集落中の機器を組み合わせ、特殊な魔力を送り込み、銃と組み合わせることで竜をも殺せる特殊兵器を作り上げた。

 これをルークに使わせ、自分は海の藻屑となる決意を固めた。

 理性を失った自分が、恐らくルークを求めて彼の元へ行くだろうという算段の下、愛しい我が子を殺してしまわぬようにする、最後の手段であった。




 しかしこれは失敗した。

 インドラは、ルークが竜に抱いている感情を読み間違えていた。

 まさか憎むべき敵に親愛の情を抱いているとは、竜として生まれた彼には予想もつかぬことであったのだ。

 しかしそういった意味で、ルークは間違いなく人間であったと、インドラはどこか安心していた。

 そのまま人間として、優しい人たちに囲まれて、幸せに育ってほしいと切に願った。

 そして同時に、彼はやはり孤独の只中にいる竜としての自分を、認識せざるを得なかった。




 次の日、サリーは苦しんだ末に死んだ。

 彼女の墓を作ってからのインドラの記憶はなかった。




 聞き覚えのある声がしてインドラが片目を薄く開くと、ルークが狼狽した様子で、しかし悲しげに自分の顔を覗き込んでいた。

 インドラには、まだ伝えたいことがあった。


 *   *   *


 意識を現実に引き戻されたルークは、インドラの口元に耳を近づけた。するとインドラはか細い声で語り始めた。

「俺の死体をどこか、人目の着かないところに捨てろ。お前は何も知らない振りをして、生活に戻れ。疑われたら、逃げろ。どこか、誰もこの島を知らない所まで……」

「やめろよ、父さんはここに眠るんだ、母さんやサリーと一緒に……」

 

 ルークが涙をこらえて言うと、インドラは思い出したようにサリーと、その隣の妻の墓標を見やって、中空に向かって言った。

「私が、間違ってたんだ……彼女と一緒にいたいなんて、思い上がらなければ……結局、俺は……すまない、すまない……」

 ルークはとうとう涙をこらえきれず、大声で言った。

「何謝ってんだ! 父さんが竜だろうと何だろうと、愛することは、誰にも責められるもんじゃないだろ! 母さんや、サリーが、あんたを愛したみたいに……」

「それは、人としての俺さ……竜の私は、結局、いつまで経っても一人じゃないか……」

 

 ルークは一瞬返答に迷ったが、それに対する答えを既に彼は見つけていた。彼は少し微笑んだ。

「僕の言ったこと、忘れちゃった? 僕、お前の事が好きなんだ。もう友達なんだ……」

 その言葉に、インドラは目を瞑って涙を流した。

「ああ、思い出したよ……私は嬉しいぞ、ルークよ」

「きっと母さんも、サリーもそう言うさ。向こうで会って、ちゃんと確かめなよ」

「そうしよう……ルーク。きっと、幸せに生きてくれ……」

 

 その言葉と同時に、インドラの体からすっと力が抜けた。

 ルークはゆっくりとインドラだったもの(・ ・ ・ ・ ・)を寝かせると、鼻をすすって立ち上がり、場違いなほど明るい声を出した。

「さあ、やることが沢山あるぞ! 人が来る前に父さんを埋葬して、それで多分ばれちゃうから逃げて……一人で、どこかで生きて……」

 ルークの語気は段々と弱くなり、やがてぴたと涙は止まった。

 今、ルークの目の前にある三つの愛しい物質が、単なる無機質となって彼の心の立つ瀬を抉っていた。

 ここにいるのは世界でただ一匹の、孤独な竜だけだった。

 

 ルークはふつふつと身の内に沸く何かを感じていた。

 それは何故だか懐かしく温かい、家族のようなものに感じられた。

 それが心に空いた隙間に流れ込んで、再び元の形に戻ると、彼はぽつりと言った。


「一人にしないでよ」




 その日、島が消えた。

 島から突如現れた一匹の新しい竜は、島の全てを焼き尽くすと、遥か天高く昇って消えた。


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