永遠の朝
今朝はやけにコーヒーが苦かった。
奈津子は台所で自分用の紅茶が蒸れるのを待っている。寝ている赤子を見守るような、柔らかな表情だ。暁生にとっては「待たされている時間」でも、奈津子の手にかかれば「期待を膨らませるための時間」なのだ。感性に乏しい暁生には理解できないが。しかし、理解はできなくとも、奈津子に心添わすことで、彼女が見ている世界の一端を垣間見ることはできる。奈津子ならこう思うのだろうな、と考えるとふと視界が開けるのだ。
だから、気負わない奈津子を見ていると、億劫になった。
ふと、奈津子が顔を上げ、目があった。
「ミルク?」
「いや」
そう、というと奈津子はポットに目を落とした。
「明日から無理にコーヒー淹れてくれなくていいぞ」
待ちに待った紅茶を手に、嬉々として戻ってきた奈津子が固まった。
暁生は居酒屋の次期店長候補として、宵っ張りの生活をしている。だから、暁生よりも早く起きることは難しい事ではない。だが、いくら規則正しい生活をしているからといって、暁生が居間に降りて来るなり、コーヒーが出てくるのは異常だ。何しろ、一日も欠かしたことが無いのだ。高校を卒業し、同棲を始めて早半年――初々しいと流すのも限界だった。
「……え? 美味しくなかった?」
「インスタントだろう。誰が淹れても、同じ味だ」
奈津子が呆れ顔になった。昔なら非難する色が少しは出たものだが、今では慣れっことなっており、単に脱力した様子だ。
「そんな言い方はないと思う。暁生はホント、デリカシーがないよね。いけなかったこと教えてくれれば直すよ」
「不満はないさ。ただ、面倒だろう。毎朝」
「そんなことないよ。夢だったんだもん。こうやって、コーヒー淹れてあげるの。新婚さんみたいでしょ。へへ」
「新婚気分を半年も体験したんだ。もう、十分だとは思わないか」
「思わないもん。どうしてそんなヒドイこというのかあたし分かんない」
「…………」
むっと口をへの字にした奈津子に、暁生は言葉を失った。コーヒーを口にすると、苦かった。先ほどよりも苦味が増しているような気がした。
意図が伝わっていない。いつものことなのだが。
暁生は一言も止めろとはいっていないのに、奈津子の中ではもうコーヒーを淹れることを禁じられていることになっている。必ずしも淹れる必要はないと言っただけなのだ。暁生の言葉が足りないのか、奈津子が早とちりなのか。まあ、その両方だろう。
奈津子はまだ若い。
こういう言い方をすると、あたかも暁生が年経ているように思えるが、同年齢である。奈津子と一緒にいると、保護者のような気分になってしまう。
話は逸れたが――つまり、遊びたい盛りの少女が、家に束縛されるのは、健康的なことではないと暁生は思うのだ。たかだかコーヒーを淹れるためだけに、奈津子が遊びの約束を断ったことがあるのを知っている。では、暁生はどうなのかというと、一家の長たれとせっせと労働に汗しているのだから、矛盾した話ではあるのだが。
「……暁生は嫌だった? こういうの」
自分の少女趣味がしばしば暁生を振り回しているのを自覚しているのだろう。奈津子がしおらしくなった。
「いや」
普段ならそこで言葉を切っていただろう。だが、今日はもう一言添えなければいけないような気がした。
「有難い……とは思ってる」
「それなら明日からも淹れていいよね」
奈津子の顔がパッと輝いた。しかし、暁生の顔は晴れないままだ。いつもなら、太陽の如き奈津子の笑顔に、暁生の曇り空も晴らされてしまうというのに。
「……いつか面倒臭いと思う日が来るぞ」
「来ないよ」
「……安請け合いするもんじゃないぜ。人の気持ちがどう変わるかなんて、誰にも分からないんだ」
重々しい台詞だったのにも関わらず、奈津子は朗らかに笑った。てけてけ、と暁生のところへやってくると、背後から抱き締めた。互いを思いやっているのに、こうして言い争いをしてしまう。ならば、不確かなコトバよりも、確かなものがあるだろうと――そう、奈津子の体温が伝えてきた。
「暁生が弱音なんて珍しいね。なんか、嬉しいな。あたしだって、暁生の役に立ちたいんだよ。でも、いっつも一人で抱えてばっかりでさ。頼りないのは分かってるけど」
「……助けにはなってるさ」
「いいんだよ、自分でも分かってるから。暁生は怖いんだ」
「……怖い?」
「うん。永遠が。永遠に続くものなんてないって知ってるから」
「……おいおい、いつから心理学者になった」
茶化して言うが、内心では舌を巻いていた。確かにそうだったのかも知れないと、頷くところがあったのである。
奈津子の淹れてくれたコーヒーは美味い。味は――先ほど自分で言った通り、誰が淹れようと大差ない。だが、美味い。美味く、感じる。言わば、気持ちが満たされる。それは奈津子が淹れてくれたからで、自分ではこうはいかない。いつの間にか、朝のコーヒーを楽しみにしている自分がいた。だから、奈津子を束縛するのが嫌だからと自分に言い訳をし、自ら壊そうとしたのだ。深みにはまるのを恐れて。永遠など無い。だから、永遠を期待しないよう、自ら可能性を断っておく――とんだ、臆病ものがいたものだ。
「でも、暁生はズルい」
ハッと暁生が顔を上げた。
「……話が飛んだぞ」
「飛んでないよ。暁生はあたしのこと好き?」
「ああ」
軽く答える。コツは内容を頭が理解する前に、返事をすることだった。一端理解してしまうと、口が物凄く重くなるからだ。
しかし、当たり前だが、心のこもってない言葉は届かない。
「ああ、じゃダメです。やり直し」
「……分かりきったことを言う必要があるのか」
「言ってもらいたい時があるんだよ」
「……好きだ。これでいいか」
笑ったのだろう。震えるのが伝わってきた。
まったく、奈津子が後ろにいて良かった。顔を見ながらだったら、とてもではないが言えなかっただろう。それは奈津子にも言えることかもしれないが。
「じゃあ、十年後も、まだあたしのこと好き?」
「たぶんな」
「二十年後も? 五十年後は?」
「やすやすとこの気持ちが変わるとは思わないさ」
「そう言うと思った。ほら、暁生はズルい。自分だけ、永遠を信じてる」
随分と適当な永遠だと思った。十年や二十年程度で、永遠と言われては。だが、人間の人生長くて百年。ならば、それは永遠と呼んでもいいのか。いや、どうだろう。大雑把過ぎないか。
連綿と続く毎朝の日課も途切れる日が来るのかもしれない。だが、失った日課の代わりに、新しい日課がそこにはあるかもしれない。例えば、紅茶党に転身した暁生がそこにはいるのかも。大切なのはコーヒーではない。
「永遠を信じてるのは一人だけじゃないよ」
「…………」
あたかも暁生が永遠を信じているような口ぶりはやめて欲しいのだが。人は誰しもみな、奈津子のように夢見がちではないのだから。だが、それを言うのはさすがに野暮だろう。それぐらいの分別は暁生にもある。
暁生は目を閉じて、奈津子に心を添わせる。
すると確かに見えたような気がした。奈津子言う永遠の姿が。しかし、目を開けた途端に泡沫の夢と消える。どうやらこの両眼は現実を見るためにあるらしい。
暁生は苦笑した。すると、舌に苦味が蘇った。
いや、蘇ったと言うと、語弊があるだろう。
それは未来に味わうであろう、永遠の朝の味だった。
コミティアで書いたものになります。
異世界のデウス・エクス・マキナの連載再開までの繋ぎ……のつもりではいますが、たぶん、誰も気付くことはないんでしょう。