8.
裏口から外へ出ると、教会の兵士はあちこちを警戒してヴィンセントを捜索しているようだった。この時間帯に静かな繁華街でサイレンが光っていることも、あの特有の騒々しい音がすることもないので異変はすぐに分かる。
この通りの奥には教会の車両が停まっていた。車内に人影はない。今は徒歩で見回っていてここの近くには居ないかもしれないが、それでも見つからないように注意が必要だ。
ここ数日こんな事はなかったから、きっと誰かが教会へ報告したのだろう。『少女が廃ビルへ大荷物で入っていった』とか、もしかしたら介抱してヴィンセントを運んだときに見かけた者が通報したのかもしれない。
どっちにしろ、自分が関わったことによって此処を離れざるを得ない状況になったことは確かだ。
「ごめん」
気が付いたときには思っていたことが声に出ていた。
隣を歩く、斜め上の青年は一瞬こちらに目配せをしたものの無表情だ。そして何も言わずに淡々とその長い脚を足早に動かしている。
返事が貰えないということはやはり怒っているのかもしれない。
アガサは余計に気まずい気分になった。
さっきは優しかったのに。
ブルネットの少女と長身の青年は、教会兵に見つからないようにひと気のない裏通りを進んでゆく。
どれくらい歩いただろうか。一時間は経っていないが、いつの間にか辺りはごちゃごちゃしていた繁華街からひと気のない工場地帯へと変わっていた。
アガサはそこではたと気がついた。
目の前のことに必死で考えていなかったが、このまま首都の外れまで進んで行くと唯一スラムへ出られる門があるのだ。
しかし主にその出入りは限られている。
スラムにある廃棄物処理場へ向かう業者や、首都を追い出されるような———重度まではいかないがそれなりの犯罪を犯した者をスラムへ移送する教会車両などであって、一般市民がこの門を利用することはまずない。既に『少女と青年の二人組』は教会関係者には不審人物として周知されているだろうし、ここを正面突破するのは難しいはずだ。
それとも、彼に秘策があるのか———
アガサは隣のヴィンセントを見上げた。
彼はアガサの視線を感じているだろうに、何も言おうとしない。まるで彼女が存在しないかのような振る舞いだ。
「ヴィンセント。何か言ってよ」
これからどうするのかさえ明かしてくれないから不安になる。
もう自分には後がないのだ。ここで戻ることは出来ない。
「何を」
ヴィンセントはこちらを見向きもせずにつぶやく。白い息が漏れた。日差しはあたたかいといっても普段よりはましなだけで、この世界はいつでも凍えるほど寒い。
もうすぐ日が暮れるし、暖が取れる場所を確保する必要がある。夜はこれ以上の冷え込みが襲うので、外に一晩居れば凍死することもざらにあるのだった。
「例えば、これから何処へ行くか、とか」
ヴィンセントの横顔、深い青色の瞳は工場地帯の煙突より高くそびえる城壁の向こう側———スラムの空を見つめている。
「ええっと、門へ行くってことで良いの、」
「ああ」
そう言うが、その門へはあとどれ位なのだろう。行ったこともないのでアガサは検討がつかない。首をかしげていると、上から「もうすぐ着くから」と声が降ってきた。
あれ、さっきまで怒っていたのではなかったか———思わず彼女は顔を上げた。相変わらず青年の整った横顔は、何の表情を称えることもなく真っ直ぐ前を見据えている。
アガサはよくヴィンセントが分からない。
何を考えているのかもそうだが、感情の起伏さえも上手く掴めない。彼は職業柄か常時ポーカーフェイスだ。確か笑顔は一度だったか、とにかくほぼ見たことはない。
それでもこの人についてきてしまった理由はアガサも自分で薄々気が付いてはいる、が、自覚したくない。
「アガサ」
自分の頭上からハスキーな声がかけられた。
再びヴィンセントに視線を合わせると、彼は少しだけ表情を和らげて「不安だろうけどそんな顔してないで信用しろ」とアガサの髪をわしゃわしゃと撫でた。
「うん、」
そんなことを言っているうちに大きい佇まいの何かが見えてきた。ちょうど日暮れ時で、夕日に照らされる其れは日中見かけるよりも重苦しく見受けられる。
そして幸いにして教会の車両は居ないようだった。
「門番が居るけど、何か秘策でもあるの、」
「まあな」
「それよりも」とヴィンセントは歩みを止めてアガサに向き直る。
その表情は至って冷静且つ真剣だった。
「この門をくぐったらスラムで、もう此処へ戻ることは出来ない」
「うん」
「それで、本当にいいのか」
そんなことを言われたって、もう遅すぎる。
アガサは思わず嘲笑した。
自分はこの時点ですべてを失ったも同然なのだ。
学生生活も、未来のキャリアも———勿論家族も。
彼女に残されている選択肢は、最早捕まるか逃げるかしかない。それも選択肢とは言えないくらいに、今どうすべきか実質限られているようなものだ。
そんなことを今更尋ねるのか。彼は。
「早く連れて行って」
「———わかった」
そう言った後もヴィンセントはアガサの顔を見つめていた。それから視線を逸らして一瞬逡巡したものの、彼女のその決意の硬さを察したようだった。
ヴィンセントは小さく溜め息をつき、バックパックを背負い直すとアガサに手を差し伸べた。
「ほら、行くぞ」
「え、」
アガサが戸惑って差し伸べられた手を掴めずにいると、彼は彼女の手を無理矢理に取ってさっさと歩き出した。アガサは半ば引っ張られる形でヴィンセントについて行く。
それはとても乱暴である筈なのに、彼女にとって不思議と心地良いものに思えた。
不器用な手はしっかりとあたたかい。
アガサはこの手を離さずにいたいと思った。