人生最大の厄日
今日は厄日なのだろうか。
朝からお茶は零れ、買ったばかりのコップは割れ、お気に入りの服の裾は破れた。さらには新作のゲームソフトを買いに出かけたものの、電車が人身事故で運行停止しているし、ようやく着いたお店ではゲームソフトが売り切れていた。諦めきれずに十三軒の店を渡り歩いたけれど、全部売り切れ! 予約しなかった自分が悪いと言われればそれまでなのだろうけど、どうにも納得がいかない。
その上、だ。
「おい! 聞いてんのかよぉ、ニイチャン?」
「この女がどうなってもいいのかぁ?」
ええい、シャキシャキと喋らんか! やけにねっとりとした喋り方をしよってからに。ぎゃ、その毛深い腕を首に近付けるんじゃない! ガムテープ貼り付けて一気に剥がしてやろうか、このゴリラ男め。
ギリ、と自分の首が締まる。視界の端にちらつくのは、鋭利かつ非常に物騒なもの。それは夕陽を受けて鈍い光を反射させた。銃刀法違反になるだろう、その大きさは。
あぁ、なんでこんなことになったんだろう。あたしはただ新作ゲームソフトをゲット出来なかった自分を慰めようと、コンビニでデザートを買って帰宅しようとしただけじゃないか。あれか、神様は一時の癒しすらも許してくれないのか? それはさすがにひどすぎる。あたしが何をしたっていうのだ。
「おいおい、ダンマリかよ。舐めてんのか!? コラァッ!!」
二人組の内、一人の男に拘束されているあたし。と、その正面には標的となっているニイチャン。先ほどからずっと黙ったままのこやつ、髪は銀色、瞳は菫色というド派手な外見をしている。ヴィジュアル系かとも思ったけれど、その高く筋の通った鼻や二重をより際立たせるような堀の深さは、明らかに日本人ではないと分かるものだった。
さらに言えばその格好、コスプレですか? と問いたくなる。どこぞの王子様なんぞが着るような金の装飾のついた白い上下の服は、どこか軍服をイメージさせた。しかもあなた、その腰にぶら下がっているものはなんですか。本物なら十分法律に引っかかる代物ですよ、その剣っぽいの。
人の趣味にどうこういうつもりはないが、こんな住宅街でその格好は目立つぜ、兄さん。さらに美形とあっちゃ、変なのに絡まれる確率は相当高かろうて。
とりあえずゴリラ男とその相方さんよ、ニイチャンに言葉通じてないんじゃないの? と思ったりするんだけども。この外人さんと何があったか知らないが、無関係の人を巻き込むのは止めて欲しい。迷惑なこと極まりない。
完全に巻き込まれたあたしを無視して、両者の睨み合いはまだまだ続く。ここは人通りの少ない裏道だ。別段治安が悪い地域ではないはずなんだけれど、これはあたしへの試練なのかしら。
「オラァ、このアマ助けねぇのかよニイチャンよぉ」
「マジで刺しちまうぞぉ!?」
じり、とあたしの頬を汗が伝う。多少の恐怖もあるけれど、単純に暑い。暑すぎる。なんでこの残暑厳しい八月下旬に、こんな毛深い男と密着せにゃならんのだ。せっかく買ってきたアイスが溶けてしまうではないか! あと、あとたった百メートル先に我が家という名のオアシスがあるのに……!
本日一日で溜まりに溜まったイライラがピークに達しようとした頃、コスプレ兄さんがようやく口を開いた。
が、発せられたその言葉にあたしは驚愕した。
「なぜだ? なぜ俺がその女を助けなければならない?」
は? 今何と? あたしは一瞬何を言われたのか分からなかった。言葉が通じていたとかいう問題ではなく。あたしだけではなく、毛むくじゃらゴリラ男も、その隣のもやしロンゲも、一同口を半開きにしている。
「その貧相な女がどうなろうと、俺の知ったことじゃない。勝手にやっていろ」
そう言って目の前の男は長い上着の裾をひらりと揺らし、踵を返して歩き出した。
――――何かが切れる、音がした。
「ペぎゃっ!!」
「な、なん……へぶしッ!!」
蛙が潰れたような、醜い男の悲鳴が響いた。それを聞き、銀髪男は何事かと背後を振り返る。そして――――。
「がふっ」
完全に予想外の衝撃をもろに顎へと受け、それは綺麗に放物線を描いて宙を舞う。形の良い鼻から飛び散った血が、オレンジ色の光を浴びて輝いた。
ドシャッ、と盛大な音を立てて地面へと落下する。すると自分に起きた事態が理解出来ていないのか、彼は鼻を押さえて慌てて跳ね起き、原因を見つけるとその菫色が零れ落ちそうなほどに目を見開いた。
さながらゴジラの足音でも聞こえそうな勢いで両足を地に着き、情けなくも鼻血を垂らし続けるそいつの前に仁王立ちで立ちはだかる。
「かよわい乙女がむっさいうえにひょろっこいチンピラに捕まってるっつーのに、助けずに逃げるとは一体どうゆうことよ!? 俺の知ったこっちゃない? 誰のせいで捕まったと思ってんのよ! あんたのせいでしょ!?」
「ど、どこがかよわ……」
「あァ!?」
「いえ……」
あまりの怒気にコスプレ男は言葉を呑み込んだ。しかしそんなもんじゃあこの燃え滾る怒りは収まらない。
「その上貧相な女だって? 悪かったわね、BになりそうでなれないAで!!! 貧乳はステータスなのよっ、この変態セクハラコスプレ男!!」
これは半分八つ当たり。コンプレックスを刺激する方が悪いのだ。
そして続け様にあたしは叫ぶ。
その場の勢い百パーセントで、夕陽とは正反対の方向に。
「その日本男児の風上にも置けない捩じ曲がった根性、あたしが叩き直してやる!!」
かくして、あたしのワガママ王子矯正計画は始まったのである。
……日本男児じゃないよ、っていうツッコミは禁句。