第二章(後半):弾丸列車の驚愕と、尽きない街
「……揺れ、ない」
新幹線の座席で、レイチェルは固まっていた。
佐藤が「旅の供だ」と買ってくれた、紙コップのコーヒー。
その黒い水面をじっと見つめている。バギーであれば、一杯のコーヒーなど数秒で零れてしまうだろう。
だが、時速三〇〇キロで疾走しているはずのこの箱の中で、コーヒーの表面は鏡のように静止し、小さな波紋ひとつ立てなかった。
「どうした、お嬢ちゃん。砂糖ならそこにあるぞ」
「いいえ、そうではなくて……。これほど速いのに、どうしてコーヒーが眠っているように静かなのですか? 魔法のようです。馬車より揺れないなんて……」
レイチェルの素直な驚きに、佐藤は思わず吹き出した。
「魔法じゃない、日本の土木と技術の意地だよ。新幹線の揺れを馬車と比較した人は初めてだな」 彼は誇らしげに、そしてにこやかに笑った。
窓の外に目を向ければ、さらなる衝撃が彼女を待っていた。
東京を出てから、どれほど時間が経っただろう。
いつまで経っても、どれだけ経っても、窓の外から「街」が消えないのだ。
「佐藤さん……日本の人は、みんなこの『一つの街』に住んでいるのですか?」
「一つの街? ははあ、なるほど。東京のことか」
「はい。森も、果てしない草原も、砂漠もない。どこまで行っても家があり、電柱があり、光がある。東京という街は、世界を飲み込んでしまうほど巨大なのですね。……やっと、納得しました」
レイチェルは、この「東京」という巨大な怪物の全貌をようやく理解したつもりで、ふぅ、と溜息をついた。だが、その直後、無機質な車内放送が流れる。
『まもなく、名古屋、名古屋です――』
「……ナゴヤ? ここは、まだトウキョウではないのですか?」
「ああ、ここは別の街だ。東京から三五〇キロも離れてる」
レイチェルは椅子から浮き上がりそうなほど驚愕し、窓に顔を押し付けた。
「別の、街……? なのに、さっきの街と繋がっているように見えます。……神様、日本にはどれほどの人間がいるのですか? 街と街の間に、安らげる『沈黙の土地』はないのですか?」
彼女は混乱していた。
ペンシルベニアの広大な大地では、隣家との間には必ず豊かな緑と静寂があった。
しかし、この国は鉄とコンクリートの血管が、途切れることなく脈動している。
彼女はその困惑を、一つ一つ、佐藤に尋ねた。
「なぜ、あんなに高いところに道があるのですか?」「あの青い看板は何を教えているのですか?」
佐藤は、最初は苦笑いしながら答えていたが、次第にその表情は穏やかなものに変わっていった。
効率とスピードだけを求めてこの列車に乗る大人たちの中で、レイチェルだけが、子供のような純粋な瞳で「文明」を観察し、驚き、一喜一憂している。
その姿が、かつて初めて工具を握った頃の、自分自身の初心を思い出させたのだ。
「……面白いお嬢ちゃんだな、あんたは。いいよ、明石まで全部教えてやる。その代わり、そのコーヒーが冷めないうちに飲んじまいな」
佐藤のレイチェルに対する警戒心は、いつのまにか、深い愛着へと変わっていた。
【明石の威容】
新幹線を降り、乗り継いだ電車が明石の地へ近づく。 車窓から見えたのは、それまでの「街」とは明らかに異質な、鉄の軍勢だった。
「……あれが、ヒシザキ」
レイチェルは息を呑んだ。 海岸線に沿って、見渡す限り広がる巨大なクレーンの森。
潜水艦が横たわる漆黒のドック。
そして、陽光を跳ね返して白く輝く、巨大な工場棟。
それは、彼女が愛する「手仕事」の世界とは対極にある、圧倒的な「力」の神殿だった。
「お姉ちゃんの、生まれた場所……」
巨大な菱崎重工のエンブレムが、夕闇の中で青く光り始める。
あの日、空から自分を救ってくれた姉の輝き。
その光の源流は、この冷たくて巨大な鉄の城の中に隠されているのだ。
レイチェルは、コーフ(帽子)を被り直し、その威容を正面から見据えた。
あんなエンブレム日本語でなんていうんだっけ?質実剛健?豪華絢爛?




