第8話 夢と現実
「──姉上」
あたたかい布団に鼻の上までくるまっているラーラマリーに、ルイスが優しく声をかけ、布団の上から肩を揺すった。
「姉上、起きて。もうとっくに日が昇ってるよ」
そう言われても、布団からは出たくない。
微睡みながら唸るだけの返事をすると、くすくすと笑いながらルイスが言う。
「今日は、姉上が好きな紅茶のスコーンがあるよ」
「本当!?」
そう大声で聞き返しながら、ラーラマリーは瞳を輝かせてガバリと布団から跳ね起きた。
鼻歌を歌い階段を駆け下りながら、僅かな違和感を感じる。
(あれ……私、ルイスに起こされた事ってあったかしら?)
だが思い出そうとしても上手くいかないので、その違和感はすぐに忘れて笑顔で食卓につく。
「おはよう、ラーラ」
「もう、今日もルイスに起こして貰って。ずいぶんお寝坊ね」
すでに席についていた父と母に微笑まれ、幸せな気持ちでラーラマリーは目の前に置かれた朝食の皿を眺めた。
皿に乗っているのは、紅茶のスコーンにバターがたっぷり塗られたトースト、カリカリに焼いたベーコンと、半熟の目玉焼き、綺麗な黄色のオムレツ、レタスとトマトのサラダ、ミートパイと山盛りの木苺と葡萄。
それにその皿の隣には、カブのポタージュスープとビーフシチュー、オレンジジュースにずっしりとしたチーズケーキまで並べられていた。
「わあ! 美味しそう! 全部私が大好きなものばっかり!」
ラーラマリーが喜んで食べようとすると、後ろを追いかけて来たルイスが食堂に入ってきた。
「待ってよ、姉上」
「ルイスも座って! ほら、早く食べよう!」
そう言ってラーラマリーが笑顔で振り返ると、同じように微笑んでいたルイスに、ぐるりと蛇が巻き付くように、突然黒いモヤが纏わり付いた。
「え?」
ラーラマリーが驚きで声を上げた瞬間、床から吹き出すように闇が広がり、ルイスだけでなく、時が止まったように動かない笑顔の父と母も飲み込んでいく。
「待って! やめて!!」
闇に包まれていくルイスの手を掴もうと必死で腕を伸ばすが、すぐそこの筈なのにどうしても手が届かない。
恐怖で青ざめなからも、もがくように腕を伸ばすラーラマリーの目の前に、闇からにゅうっと現れた黒いベルホルトの影が、笑いながら呪詛のような言葉を吐いた。
《お前はもう帰れない。お前は一人ぼっちだ。お前には何もない。お前は皆から死を望まれている。──楽しいなあ、楽しいなあ。お前は私が殺してやる!!》
ぶわりと闇が広がり、ラーラマリーに覆い被さる波のように迫って来た。
逃げ出したいのに足は床に張り付いたようにびくともせず、目を見開いて迫る黒い波を眺める事しかできない。
息が苦しく、心臓は大きな音を立て鼓動が全身に響いて煩い。
迫ってきた闇が集まり、獰猛な瞳をぎらつかせ、牙を剥く竜の姿に形を変える。
大きな口を開け、ラーラマリーを飲み込もうと降ってきた。
「──やめて!!!!」
叫び声と同時に、ラーラマリーは目を開けた。
茫然と目を見開き、肩で荒い息を弾ませるラーラマリーの前に、闇はない。
目の前に広がっていたのは、見知らぬ白い天井と、そこに差し込む柔らかな夕方の光だけだった。
暫くの間動くこともできず、バクバクと脈打つ心臓がようやく落ち着いて来た頃。
先程までの光景が夢だったと気付いたラーラマリーは、無意識に流れていた涙を拭うと、起き上がって辺りを見回した。
(──ここは……どこ?)
白と水色を基調にした広い部屋には、可愛らしい猫足の鏡台や小さな書棚が置かれ、僅かに開かれたバルコニーに繋がる大きなガラス扉からは、あたたかな春の風が優しく吹き込みカーテンを揺らしている。
ラーラマリーはその部屋の端、天蓋付きの大きな寝台の上にいた。
(森に入って、黒い影に追いかけられて……そうだわ。赤髪の彼──確かジークヴァルトと言っていたわ。彼に抱えられて、それで──?)
先程まで自分を包んでいたふかふかの布団をすり、と撫でながら記憶を辿っていると、小さなノックの音と共に部屋の扉が開き、ラーラマリーが返事をする間も無く、少女が一人、入ってきた。
「失礼しますねー。フンフンフーン♪ 今日のーご飯はー兎のシチューと新鮮なサラダー♪ それからパンはー何個かなー♪ キースの分はー私のものー♪」
年は、高く見積もっても十二、三歳くらいだろうか。
灰色の髪を二つの三つ編みにしておろし、たくさんの服を抱え歌いながら上機嫌で入って来た少女は、どうやら、ラーラマリーが起きていることに気付いていないらしく、そのまま背を向けクローゼットに服を次々としまっていく。
呆気に取られたラーラマリーは、声を掛けるタイミングを失い、そのままじっと少女の様子を見つめていた。
「さてさてーデザートは何だろなー♪ パイもいいけどムースもいいー♪ キースの分はー私のものー♪ 氷魔法でーキースにアイスを作らせてーそれも全部私のーもー……の……」
服を掛け終わった少女が、歌いながらくるりと振り返り、はたとラーラマリーと目が合った。
くるりと丸い大きな少女の銀色の瞳が、さらに大きく見開かれ、二人の間に沈黙が流れる。
「……あの」
状況が掴めず、ラーラマリーが尋ねようと口を開くと、さらに目を丸くした少女が、突然廊下の方へ向かって大声を出した。
「ジークヴァルト様ー!! ジークヴァルト様ー!! 姫様が、起きましたよー!!」
「──!!」
ラーラマリーは思わず耳を塞いだ。
少女が発した大声は、聞いたことのない不思議な声で、まるで獣の咆哮が何重にも重なったような響きで、部屋の空気をビリビリと震わせた。
バン! と勢い良く扉が開き、中に飛び込んできたのは見知らぬ青髪の男性だった。
「やめろ! メルナリッサ!! 咆哮は禁止だとあれ程言っただろう!!」
青髪の男性に羽交締めにされ口を塞がれた少女──メルナリッサは、もがもがと何やら抗議しているが言葉になっていない。
抵抗し暴れるメルナリッサと、それを拘束している青髪の男性とを、ラーラマリーが驚きの表情で見つめていると、遅れてジークヴァルトが部屋に入って来た。
「起きたか! ラーラマリー!」
パッと表情を明るくし、寝台の側まで駆け寄ると、屈みながらずいと顔を寄せ、大きな手でラーラマリーの額に触れた。
「熱はなさそうだな。顔色も良いし。気分は? 夕食はどうだ? 食べられそうか? 腹は減っているか?」
ニコニコと見つめられ、ラーラマリーは困惑で目を白黒させる。
森に入ってからずっと若干の息苦しさは感じているが、他には何も問題ない。
動揺しているラーラマリーは、素直に質問に答えた。
「気分は……大丈夫です。お腹も……まあまあ空いています。あの……え? ちょっと待って下さい……ここは……どこですか?」
「ここは俺の家だ。着替えたら夕食にしよう。下で待っているぞ」
ジークヴァルトは、きょとんとして答えたラーラマリーを嬉しそうに見つめると、頭をわしゃわしゃと撫でて青髪の男を連れて部屋を出て行ってしまう。
残されたラーラマリーはただただ寝台の上で呆然とそれを見送り、いつの間にか側に寄っていたメルナリッサがにっこりと笑った。
「さあ、姫様。着替えましょう! 今日の夕食は兎のシチューですよ! 美味しいですよ!」
状況が飲み込めないラーラマリーは、メルナリッサにされるがまま服を着替えて髪を整えられ、ジークヴァルトが待つ食道へと向かった。




