第50話 願いは同時には叶わない
輝く刃をそっと当てれば、漆黒の茨は驚く程簡単にさくりと切れた。
切れた茨は、砂が大気に舞うように細かく散って消えていく。
檻から外へ踏み出したラーラマリーは、背筋を伸ばして大きく息を吸い、空を見た。
「──ジーク」
凛とした声は真っ直ぐに空へと届き、ぎりりとアドロの重い剣を受け止めたばかりのジークヴァルトは、はっとしてラーラマリーに視線を向けた。
「ラーラマリー!!」
叫んだジークヴァルトは、瞬時に目一杯腹に力を込め、切り結んでいたアドロを振り抜く剣の勢いで吹き飛ばす。
そのままぐんと体を捻り塔へ向きを変えると、翼を大きく羽ばたかせラーラマリーへ向かって勢い良く急降下を始めた。
「ラーラマリー!!」
何度も名を呼びながら、頬が凍る程の冷たい風が身を切るのも構わず、愛しい彼女へ向かって駆ける。
「邪魔するな!! ただの『空の器』ごときが!!!!」
ジークヴァルトの後方、アドロが怒声を響かせ、ラーラマリーを再び捕らえようと、屋上の石畳からぶわりと数多の黒い帯を吹き出させた。
上空からも、ジークヴァルトごと全てを覆い尽くさんとするようにアドロから闇が広がり、まるでガラスを伝う黒い雨水のようなそれは、鮮やかに靡く赤い髪を追いかけ、ドロリと降り注いでくる。
自身へ伸びてくる無数の影を前に、ラーラマリーは輝く短剣を構え、水色の瞳に決意を灯した。
(大丈夫……よく見て、流れを掴んで、避けて、受ける。ジークと散々やっていた事と一緒よ。大丈夫。いつも通りに──できる事を、頑張るだけ!)
ラーラマリーは、白いワンピースの裾を翻し走り出した。
(右……右、次は左から来るあれを跳んで、次は切る。それから回りながら避けて、また右──)
月は地平線の下へ沈み、空は微かに淡い菫色が差し始めている。
迫り来る黒い帯を幾重にも避け、薙ぎ払い、切り進みながらラーラマリーが見ている景色は、視界に映る恐ろしい漆黒の魔力の群れではなく、光さす石畳、笑うジークヴァルトとじゃれあった、あの温かな時間だった。
(……ジーク)
踊るように影を切り、次に迫ってくる帯の横をすり抜け跳ぶ。
ラーラマリーが必死に走る先には、空から駆けてくる、ジークヴァルトの姿。
顔を歪め、狂おしい程の愛を宿した金の瞳が、ラーラマリーを見据えたまま、必死に手を伸ばし降ってくる。
(ジーク……私……あなたのことが……)
「やめろーーーーー!!!!」
猛進してくるアドロの絶叫をまるで遠い世界の音のように感じながら、ラーラマリーはグシャリと下手くそな笑顔を浮かべ、両手を広げた。
「ラーラマリー!!」
慟哭のように名を呼ばれながら、飛び込んで来たジークヴァルトにきつく掻き抱かれ、ラーラマリーはそのまま空へと攫われた。
「ジーク……ジーク!!」
宙へ上がる浮遊感も感じない程、ラーラマリーはギュッとジークヴァルトにしがみ付き、同じように抱きしめ返す彼の温もりに、安堵の涙が溢れる。
靡く赤い髪を頬に感じながら、ラーラマリーは後方から追いかけてくるアドロを見た。
手を伸ばし、憎悪を膨らませた顔ですぐそこに迫っているアドロの胸が、淡く光る。
(──ネロ様)
無意識に、だが自然とそう思った。
ジークヴァルトに抱き締められたまま、ラーラマリーはまるで吸い寄せられるように、その光に向かって輝く短剣を投げた。
軽く。
やさしく、投げた。
「──……は?」
音もなく胸に刺さった剣を見て、アドロは思わず声を溢した。
驚愕に目を見開き、時が止まったように凍り付いている。
それは、ほんの瞬きの間ほどの一瞬。
ラーラマリーを抱きしめたまま、守るように振り返ったジークヴァルトは、悲しみを飲み込むように目を細め、輝く剣を大きく振るい、ざんとアドロを斬り伏せた。
ボロボロと崩れながら塔の屋上へ墜落したアドロを追いかけ、ジークヴァルトは少し距離をとった場所にふわりと降り立った。
空は朝日が差し始め、街や塔は金の光に縁取られ起きようとしている。
ラーラマリーからそっと体を離し、ジークヴァルトは曇る表情のまま、倒れるアドロに無言で近寄った。
纏う魔力が消えた美しいアドロの大剣が、ラーラマリーの折れた短剣と重なるように床に転がっている。
朝日に溶けるように形を失っていくアドロは、虚な瞳を重たげにジークヴァルトへ向けた。
ジークヴァルトは、立ったまま彼を見つめ、静かに言った。
「……俺は今でも……お前を友だと思っている」
「……友か……」
アドロは小さく、諦めたように呟いた。
「友になるには……私はあまりにも弱く……お前は眩しすぎた。兄上もそうだ。兄上も……私の欲しい全てを持っていた」
遠い昔を懐かしむようにアドロは沈黙し、長いため息を溢す。
「私は……同じになりたかった。兄上と……ジークヴァルト……お前と同じに。……なあ、ジークヴァルト……お前が私を友だと言うなら、私の願いを聞いてくれよ。私はお前と並ぶために、力を手に入れるため頑張ったんだ……。それも駄目だと言うのなら──」
悲しみと虚しさだけが宿る瞳に、ラーラマリーは嫌な予感がして思うより先に走り出していた。
倒れたまま崩れ行くアドロは、縋るように、じっと己を見つめる金の瞳へ向かって手を伸ばす。
掠れた声で、呟いた。
「今度はお前が……私と同じに……私の所へ落ちてきてくれよ」
その瞬間、伸ばされた手は黒い矢になり、風を切る音もなくジークヴァルトへ向かって飛ぶ。
「──ジーク!!」
叫んだラーラマリーは、ジークヴァルトの前に飛び出した。
ザア……と音をたて、ゆっくり目を閉じたアドロは、砂が舞うように霧散し消える。
まるで何事もなかったかのように朝日を弾いて光る静かな石畳と、突然目の前に躍り出た琥珀色の髪を見つめ、ジークヴァルトは震える声で、愛しい彼女の名を呼んだ。
「……ラーラマリー……?」
振り返らない彼女に、ジークヴァルトの心臓は早鐘のように鳴り始める。
縫い付けられたように動かない足を何とか前に進め、恐る恐る、ラーラマリーの肩に触れた。
薄い肩は、恐ろしい程に冷たい。
ゆっくりと振り返ったラーラマリーは、真っ白な顔で困ったように眉を下げ、柔らかく笑った。
「……ジーク」
絞り出すように名を呼ばれ、ジークヴァルトは全身からざっと血の気が引いた。
「ラーラマリー!!」
咆哮をあげ、目の前で崩れるように倒れ込むラーラマリーを必死で抱き止め、二人でその場に座り込む。
ジークヴァルトの腕の中、眉を寄せ、無理やり微笑みを作るラーラマリーが纏う、白いワンピース。
その胸には穴が空き、絶望が広がるかのように、どんどんと流れ出る赤い血が、彼女の服を大きく染めあげていた。




