第45話 濁った憧れの成れの果て
大神殿の扉を潜り、神官や礼拝者が行き交う礼拝堂の中を、姿を消したままのラーラマリーは、人とぶつからないよう息を殺して慎重に歩いた。
(あの扉だわ)
高い天井の下、ずらりと長椅子が並ぶ礼拝堂の奥には、花喰い竜にリュスタールを捧げるための大きな献花台があり、その両側の壁には、神官達の仕事部屋や食堂、救護室などに繋がる扉が複数並んでいる。
その最奥、王家の紋章である竜のレリーフが嵌め込まれた扉は、普段は一般には公開されていない、大神殿の基礎である四百年前から残る古い塔への入り口だった。
扉の中は螺旋階段で塔の各階が結ばれ、地下が王族の霊廟になっている。
(アドロ様の魔力核は、地下で剣と一緒に納められているネロ様の髪で間違いない。結界の中にも、ジークが埋めたネロ様の髪がある。だからアドロ様は、結界を無視して森と王国を行き来できていたんだわ。でも、宿主にしている陛下の姿で影が現れたり、わざわざ人の中に入って行動しているって事は、まだきっと魔力核と融合しきっていないはず……お願い、間に合って……!)
祈るように剣を握り、広い礼拝堂の丁度真ん中に差し掛かった時、ラーラマリーに動揺が走った。
「──あ!」
握っていたクレトから貰った結晶が、魔力を使い果たし消えてしまったのだ。
突然姿が現れたラーラマリーに驚き、周囲の人々が「うわ!」「何!?」と声を上げ、視線が集まる。
抜き身の剣を持つ彼女を不審に思い、霊廟へ続く扉を守る騎士がラーラマリーに怪訝な表情で向かい始めた。
(どうしよう、このまま走り抜ける? ううん、でも人が多すぎる。捕まったら、それこそ間に合わない。どうしよう……どうしよう!!)
一瞬で思考が駆け巡るが、動揺で考えがまとまらず、足がすくむ。
だが不安にどっと心臓が鳴ったのは一瞬で、ラーラマリーは次の瞬間、さらに大きく混乱した。
「え……?」
それまで普通にしていた周囲の人々が、自分へ向かって来ていた騎士も含め、一人残らずバタバタとその場で倒れ出したのだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
驚いたラーラマリーは、一番近くで倒れた神官に駆け寄り、様子を確認する。
だが神官は答える事なく、まるで眠るように気絶していた。
女性も男性も、神官も騎士も、見てまわる人々誰もが同じ状態で倒れている。
ベルホルトの手紙の中で、国民全員の中にアドロの影が潜んでいると書かれていた事を思い出し、ラーラマリーは青ざめた。
(まさか……これもアドロ様の仕業……?)
不安に襲われ剣を再び強く握ると、ラーラマリーは見張りがいなくなった最奥の扉へと駆ける。
焦る気持ちのまま、ばん! と大きな音をたて乱暴に扉を開けると、目の前の螺旋階段には、地下から上へ向かって、何か重い物が引きずられた跡のような、夥しい量の赤黒い血の道ができていた。
「──っ!!」
息を呑んだラーラマリーは、一度ギュッと固く目を閉じ、大きく深呼吸をして、血を踏まないように端に避けながら階段を上って行った。
小さな窓から僅かな夕日が差し込むだけの薄暗い階段をどれだけ進んだだろう。
そろそろ屋上へ抜け出てしまうという所で、ラーラマリーは階段の途中、折り重なるように倒れている人影を見つけた。
「──カイザック様!!」
急いで近くへ寄りしゃがんで声を掛けると、血がべっとりと滲みた腹を抑え、血を吐くカイザックが掠れる声で呻いた。
「ぐ……ぅ……コルタヴィ、ア嬢……なぜ……来たのです……」
途切れ途切れに問う彼の横には、血の気の引いたベルホルトが倒れている。
だが彼には外傷は見当たらず、階段に流れていた血は、全てカイザックのもののようだった。
ラーラマリーは内臓を鷲掴みにされたような悪寒に襲われ、恐怖で吐きそうになるのをグッと堪える。
止血に使えそうな物が何も見当たらず、外套を脱ぎカイザックの腹に押し当てた。
「尋ねたいのは私です。カイザック様、どうしてこんな事に……。アドロ様は……陛下に取り憑いていたものは、どうなったんですか!?」
「陛下は……ぅ、ぐ……剣を向けた私を刺した後に、正気を取り戻されて……ですがお体の自由は効かず、私を掴んだまま引き摺ってここまで……。ずっと泣きながら謝罪の言葉を繰り返されて……急に、黒いモヤが陛下から抜け出て『もう充分だ。最高の絶望だった』と言って……それで──」
苦悶の表情に顔を歪めたカイザックが、上へと続く階段の先に視線を向ける。
「……上に、いるんですね」
真剣な瞳でじっとカイザックを見つめれば、彼の眉間の皺が一層深くなった。
「駄目だ……行ってはいけない……ぐ、ぅ……殺されてしまう」
引き止めようと伸ばされた震える手をやんわりと押し返し、緩く横に首を振った。
「私は行かなければいけません。カイザック様……どうか陛下のためにも、死んではいけません。持ち堪えて下さい。時間がありません……助けを呼べなくて、ごめんなさい」
それだけ言い残すと、ラーラマリーは大きく息を吸い、残りの階段を一気に駆け上がった。
真っ赤な空だけが目の前に広がる、大神殿と繋がった高い塔の屋上。
勢いのままくぐり抜けた扉を背にして短剣を握りしめ、肩で息をするラーラマリーに、開けた石造りの屋上の中心にいた黒い影が、ゆっくりと振り返った。
「……遅かったな、『空の器』よ」
真っ黒なその影は、ベルホルトの面影を残しつつも、ゆらゆらと揺らめき、造形が定まっていない。
だが口角だけはゾッとする程に高く上がり、酷薄な笑みを浮かべていることだけははっきりとわかった。
ラーラマリーはゴクリと唾を飲み込んで、鉛のような足を叱咤し、影に向かって距離を詰めようと、ジリジリと数歩進み出る。
両手で剣を持ち、夕焼けを映す鋭い切先を、まっすぐにその影──アドロに向けた。
アドロは可笑しそうに片眉を大きく上げ顔を歪めると、言った。
「何の真似だ? それは」
嘲るようにニヤニヤと問われ、ラーラマリーは震えを隠すように語気を強めた。
「あなたは、私が倒します。私なら……『空の器』なら、それができます」
返事をすることなく揺らめいたアドロから、物凄い速さで影が伸び、ラーラマリーの足元へ迫る。
反射的に身体を強張らせたが、波のように高く伸び上がって彼女を飲み込もうとした闇は、その身に触れるとボロボロと崩れ、そのまま霧になって消えた。
(やっぱり、王国の中では私に手出しできないんだ!! これなら──)
希望が見え、ラーラマリーの輝く瞳に僅かな安堵が滲む。
だがアドロは余裕の表情を崩さす、まるで舞台に立つかのように、わざとらしく嫌味ったらしい口調で言った。
「ああ!! なんて可哀想なんだ。そうだよなぁ? 希望を抱いてしまうよなぁ? 私を倒せると思うよなぁ? だがなぁ……あと一歩、遅かった」
不気味に笑うアドロはゆっくりと、ラーラマリーに一歩、また一歩と近づいて来る。
「ベルホルトの魔力のおかげで、私は完全に兄上の魂の欠片と……魔力核と融合できた。王国中の人間に潜ませていた魔力も、ついさっき全て回収した。楽しいなぁ、楽しいなぁ。ジークヴァルトも、やっと気付いたぞ。自分が大切に大切に、あの木の下に何を守っていたのか。あーはっはっは!!!! 傑作だ!!!!」
大声で笑うアドロに、ラーラマリーは顔を歪ませた。
「ジークが……」
リュスタールの花畑で、楽しそうにネロの事を話していたジークヴァルトの笑顔が脳裏に浮かび、心臓を潰されたかのように息が詰まる。
(間に合わなかったんだ……。彼が気付く前に、終わらせたかったのに……)
ラーラマリーの悔しさと悲しみが滲む表情に気を良くし、アドロは続けた。
「聞いてくれるか? 私はなぁ……ジークヴァルトと遊ぶために、本当に長い間、頑張ったんだ。始まりは……もう四百年も前の事だ。私を殺し、ジークヴァルトが去った後……まだ傷も癒えていないくせに、お優しい兄上はすぐに私の葬儀を行った。霧散し服と剣しか残らなかった私のために泣き、棺を用意し、ご丁寧に私を見送るための髪を一房、剣と一緒に入れてくれた。……私はなぁ……虫唾が走ったよ!! 人を憐れむ事ができるのは、そいつが優位に立っているからだ!! 私を見下し!! 遠く及ばない存在だと思っているからだ!!」
惜しみなく憎悪を見せるアドロが背負う空は、夜が近づき、いよいよ血のように濃く染まっている。
「私は兄上の髪を魔力核にすると決め、必死でしがみついた。兄上が死んだ後……ジークヴァルトが同じ魂の欠片を大事に森に埋めたのを感じて、歓喜に震えたさ!! 森は人間どもの垂れ流した魔力に満ちている。私は地の底でそれを集め、ジークヴァルトが気付かないよう薄く、細かくそれを分けて貯め続けた。相性が最悪の兄上の欠片のせいで、私は二百年もの間、何もできずにただじっと耐えた。だがなぁ……転機が訪れたんだ」
「……転機……?」
近付いて来るアドロへの恐怖心を隠したくて、ラーラマリーは聞き返した。
だがさらに一歩距離を詰められ、思わず足は後ろへ下がる。
「戦だよ!!」
絶叫するように、高らかにそう言ったアドロの瞳には、ただただ、悍ましい狂気が渦巻いていた。




