第36話 あるべき場所
「そんな……ジーク……私、そんなの知らなくて……」
静かに涙を流すラーラマリーの髪を、彼女を抱き寄せたままのジークヴァルトが優しく撫でる。
──恩知らず。
ナナレの言った言葉が、何も知らずに、知ろうともせずに生きてきた彼女の心に、重くのしかかった。
「……相手の魔力が竜人ほど多くなければ、人間同士で魔力を感じとることはできない。それに竜人は、自分より弱いものの魔力は殆ど感じ取れない。……だから、俺も含めて……誰もアドロが魔物に変わってしまっていることに気付けなかった。もっと早くに気づく事ができれば……アドロもネロも……苦しむことはなかった」
耳に響く穏やかな彼の声には、深い悲しみが滲んでいた。
ジークヴァルトはさらに言った。
「……ラーラマリー。お前のこともそうだ。ネロの血を受け継いでいる事は最初からわかっていたが……俺はお前が『空の器』だと気付かなかった。命を保つのにギリギリ問題ないぐらいに……俺の魔力を感じ取れないくらいに、魔力が少ないのだろうとしか……」
「普通はなあ、男だけなんだよ、『空の器』は」
ソファに座ったままのナナレが、顔を顰めて頬杖をつく。
「だが、てめぇは女のくせに魔力を何も持ってねぇ。ネロとこいつが無理やり血で契約を結んだせいで、『空の器』の体質まで受け継がれちまってるんだ。俺の魔力が中を通った時わかったが、てめぇは子を成す為の腹の袋に魔力を溜めてる。だから男の『空の器』みてぇにすぐには魔力不足で弱らねぇ。大気に魔力が充分ある場所で、普通に食って普通に生きてりゃ、わざわざ魔力の量を調べでもしねぇ限り、誰も気付かねえ」
「気付かなかっただけで、ネロの二人の娘も……血を引く者は全員が『空の器』だったはずだ」
ジークヴァルトにそう言われ、ラーラマリーは困惑した。
突然、自分の血にそんな秘密があったと言われても、全てをすんなりとは受け入れられない。
ルイスは確かに病気だ。
王家の血を引く祖父も病弱で、母がまだ幼い頃に亡くなっている。
だが母も自分もいつも元気で、たまに風邪をひく以外に病を患った事はなかった。
それに──。
「でも、お母様は、魔力を持ってるわ。一番簡単な、指先に光を灯す魔法だけなら使えるもの。『練習したらできるようになった』って。器用な人じゃないし、ネロ様のように集めた魔力を自力で変換させているわけじゃない……と思う」
「いつからだ」
「え?」
口を挟んだナナレにラーラマリーが思わず聞き返すと、苛立ちを隠しもせずガシガシと頭を掻く。
「だから、いつから魔法が使えるようになったかって聞いてんだよ」
「え、と……確か……私が生まれてからって」
ナナレは盛大にため息を吐く。
「推測に過ぎねぇが、女は契約に引っ張られて無理矢理に体質を継いでいるだけだ。子を産むとそれが変わって『空の器』じゃなくなるんだろう。それで余計に見つからなかったんだろうよ」
疑問にはどんどんと答えが見つかり、逃げ道を塞がれていく。
ラーラマリーは顔を青ざめさせ、不安に眉を寄せて縋るようにジークヴァルトを見つめた。
「じゃあ、ルイスは……? ルイスは……弟は病気なの。……大きくなるにつれてどんどん体調が悪くなって……今じゃ回復魔法を掛けてすぐ以外は、殆ど起き上がることもできないの」
「弟は……恐らく『空の器』で間違いないだろう。リュスタールの花は食べていないのか? 以前、ラーラマリーはあの花を毒草と勘違いしていただろう」
ジークヴァルトに優しく尋ねられ、水色の瞳が焦りで揺れてしまう。
「食べていないわ。リュスタールは、二百年前に、魔力を消失させる危険な毒草だって研究が発表されたの。……もう誰も食べてない。もしかして、ルイスはもう回復魔法でも助からないの? ネロ様みたいに常に魔法を掛け続けていないと、死ぬしかないってこと?」
顔色を悪くするラーラマリーを、ジークヴァルトが宥めるようにそっと撫でる。
「いや、魔力が足りないだけだから、今からでも、リュスタールの花を食べさえすれば生きられる。咀嚼する力がないなら、煎じて薬湯にしてもいい。それで普通に暮らせるようになる」
「でも」
ラーラマリーは一瞬、言葉を詰まらせた。
グシャリと顔を歪め、涙が溢れる瞳でジークヴァルトを見る。
「でも、それを伝えに行く方法がないわ。私は花喰い竜に──ジークに呼ばれて、生贄としてここに来たのよ。森から出てもいいの? ルイスを……助けに戻ってもいいの?」
ぼろ、と涙をこぼすラーラマリーの言葉に、ジークヴァルトは眉間の皺を深くし固まった。
「俺に……? 昨日も思ったが、生贄とはどういうことだ? そもそも、ラーラマリーは何故ここへ来たんだ」
心から困惑を浮かべている彼を見て、ラーラマリーも同じく戸惑う。
「突然、お城に呼び出されて……言われたの。『お告げがあった。花喰い竜がお前を生贄に差し出せと言っているから、森へ行け』って。……私はどうしても家に帰りたかったし、生贄になんてなりたくなかった。竜を殺して……永遠の命が手に入る心臓があれば、ルイスの病気を治せるし、結界からも出られると思ったの。まさか……ジークの事だったなんて、夢にも思ってなかった」
ラーラマリーの説明を聞いて、ジークヴァルトは眉を下げ、悲しげな瞳で薄らと笑った。
「そうか……。ラーラマリーは……弟のために俺の心臓が欲しかったんだな」
苦しげな微笑みは、彼が再びラーラマリーを強く抱きしめ、彼女の首筋に鼻を埋めたせいですぐに見えなくなった。
「ジーク……?」
掻き抱くように力を込められ、ラーラマリーは思わず名前を呼ぶ。
ジークヴァルトはその抱擁の意味は答えず、彼女を抱きしめたまま、はっきりと言った。
「ラーラマリー、森から出て──家に帰れ」
「……え?」
突然の言葉にジークヴァルトの方を向うとしたが、「見るな」とでも言うようにきつく抱かれているせいで、身動きが取れず彼の顔が見えない。
そのままの状態で、ジークヴァルトの僅かにくぐもった声が耳に届いた。
「俺はお前を呼んでいない。お告げなんてものも出していない。だから……ラーラマリーがここに留まる必要はない。結界は、俺が許可すればすぐにでも出られる。お前は弟を救いに……すぐに帰れ」
ラーラマリーは驚きに目を丸くした。
「いいの……? ここを出ても……」
「──ああ」
「本当に……ジークが呼んだ訳じゃないの?」
「そうだ」
「森を出ても……悪いことは起こらない……?」
「ああ……何も」
思わぬ希望が見え、ラーラマリーの声が自然と明るくなる。
(ジークの心臓を奪わなくても……ルイスを助けられるんだ……!! それに、森を出たら、ジークの事をみんなに教えなくちゃ。森にいるのは、恐ろしい竜でも、魔物を従える存在でもないって……!! 生贄なんて必要ないって!! そうしたら、また森に戻ろう。それで、ジークと──)
一気に全てが解決したような気持ちになり、ラーラマリーの胸の中に喜びが広がった。
そのせいで、反対にジークヴァルトの声が、僅かに苦しげに強張っていることに、気付く事ができなかった。
無言のまま彼女を抱きしめるジークヴァルトを、苦虫を噛み潰したような顔で一瞥し、ナナレが言った。
「……『お告げ』なんてのはな、最初に言い出した奴に一番都合よく出来てるんだよ。一体誰の言うことを聞かされてんだか。まあ、この森は魔力が薄いし、どうやって生き残っていたのか、まだアドロが森にいる。だからてめぇは一刻も早く森を出ろ。俺達はあいつの魔力核を探さなきゃなんねぇし、てめぇは邪魔だ。あいつは、『空の器』──てめぇを狙ってるらしいからな。おおかた、ネロの代わりに殺してやりてぇってところだろうな」
その言葉で、ラーラマリーの浮上した心は恐怖に引き戻された。
自分の中に入ってきた、あの暗く冷たい闇を思い出し、鳥肌が立つ。
「私を……」
思わずか細い声が漏れると、体を離したジークヴァルトがラーラマリーを見つめてにこりと笑った。
「心配しなくていい。森を出るまでは俺が守るし、結界の外までは追って来られない。大丈夫だ。──ちゃんと家に帰れる」
いつも通りの優しい笑顔。
だがラーラマリーは何故か、その細められた金の瞳を見て、胸が張り裂けそうな程の苦しさを感じた。
「……もっと早くに、事情を聞いてやるべきだったな。俺をただの人間だと思っているラーラマリーと過ごすのが楽しくて……本当の事を話すのがどんどん先延ばしになってしまった。一人で辛い思いをさせて……すまなかった」
帰れる事も、ルイスの病気の治し方も分かり嬉しいはずなのに、その優しい瞳と、頭を撫でる温もりに言葉が詰まって、上手く返事ができない。
森を出るのは、三日後に決まった。




