第34話 昔々あるところに 3
ジークヴァルトが人間の兄弟と友になってから、早いもので五年が経った。
兄弟はそれぞれが妻を娶り、アドロは二人の子宝にも恵まれていたが、ネロとアドロは相変わらず頻繁に竜の森にやって来ていた。
「ジークヴァルト。なあ──花喰い竜。また花を食べているのかい?」
いつもの如く、草むらに寝転がって寛ぐネロが、おかしそうに笑いながら言った。
ジークヴァルトが無意識にリュスタールを食んでいるのを指摘されたのは、これで何度目だろう。
「花喰い竜」
出会ってすぐに、人ではなく花を食べるジークヴァルトを見たネロが、親しみを込めて彼をそう呼び始めた。
ネロとアドロ以外の人間達は、相変わらず森には近寄って来なかったが、ネロが「竜は人なんて食べない。花が大好物なんだ」「森にいるのは優しい花喰い竜だよ」と面白おかしく人々に話して回るせいで、森の外、人間達の集落でも、ジークヴァルトを『花喰い竜』と呼ぶのが定着していた。
笑って指摘されたジークヴァルトは片眉を大きく上げ、座る膝の近くに咲くリュスタールを鷲掴みにすると、楽しそうに微笑むネロの口にそれを無理矢理突っ込んだ。
「ぐっ…、ごほ……ちょ、なにするんだよ!」
「俺を揶揄う暇があるなら、お前が食え。死にたくないならな」
そう言われ、咽せて文句を言いながらも、起き上がりジト目でムシャムシャとリュスタールを咀嚼するネロに、ジークヴァルトは笑った。
ネロが魔力不足で苦しんでいること、人々が魔物や魔獣の成り立ちを知らず、その脅威に怯えていることを知り、ジークヴァルトはリュスタールを食べればいいと教えた。
リュスタールは薬草だ。
花より魔力が少ない者には魔力を与え、花より多い者からは奪い取る。
リュスタールの花を食べ始めてから、ネロは回復魔法が必要ない状態まで魔力を補うことができるようになっており、さらに集落では、人々の魔力が減った事により魔物や魔獣が激減していた。
「村はどうだ? 皆、ちゃんと花を食べているか?」
「ああ。食べてるよ。最初は皆嫌がっていたけど、花喰い竜サマの命令なら聞くしかないからね。魔獣の成り立ちを理解してからは、漏れ出る魔力を減らすために皆進んで食べている。教えてくれて感謝してるよ」
リュスタールの花を食べた者の魔力は、『空の器』を除いて全員が減ってしまう。
魔力が減れば魔法の威力が落ち、集落全体の戦闘力が下がる。
人々は最初こそそれを嫌がったが、魔力が減ることで魔獣や魔物も減るならばと、次第にリュスタールを食べる事を受け入れていた。
魔力と引き換えに、人々は平和を手に入れる事ができた。
しかし集落には、別の問題が発生していた。
「……アドロはどうしている?」
ジークヴァルトは笑顔を消し、神妙な声で短く問う。
三年程前からだろうか。
皆がリュスタールの花を食べるのが習慣化してからというもの、アドロは明らかに元気がなくなっていった。
交わす剣には迷いと焦りが見え、常に何かを思い悩んでいるようだった。
そして一月前、集落で正式にある事が決まってからは、ジークヴァルトの前に姿も現さなくなっていた。
「まあ……元気はないかな。でもそれを見せないように……かなり無理をしていると思う」
「どうしても覆せないのか?」
「んー……無理だろうね」
ネロは頭の後ろで腕を組み直し、ゴロリと仰向けで空を見上げると、眉を下げ、諦めたように笑う。
「まさか……私が次の長に任命されるなんてね。ずっとアドロが継ぐはずだったのに……今更だよ」
魔力が多い程魔物を生み出す事がわかり、ネロの体調が回復したこともあって、父を始めとした人々は、次の長はアドロではなくネロが相応しいと言い始めたのだ。
ネロは何年も頑なに拒み続けたが受け入れられず、結局、引き継ぎの祭はとうとう明日に迫っていた。
「集落の中心にある高い塔は知っているだろう? あの塔の屋上は、私とアドロが幼い頃によく忍び込んで遊んだ場所なんだ。今夜……そこでアドロと会う。あいつの剣は、本来は長だけが持つ事を許される剣なんだ。アドロがあまりに上手く扱うから、父が早くに渡してしまっていたけど……今日それを、私が弟から譲り受けなきゃいけない。本当……気が重いよ」
ネロは寝そべったまま片手で顔を覆い、深いため息を吐く。
ジークヴァルトも同じように息を吐き、遠い空を眺めた。
「……アドロは強い男だ。仲のよいお前達なら、どんな形でも支え合って行けるさ」
結果から言えば、ジークヴァルトのその考えは間違いだった。
だがそれに気付くには、もうあまりに遅かった。
月が登り始め、空が濃紺に染まる頃。
ジークヴァルトは魔力で翼を作り、森の一番端、集落の塔の屋上が見渡せる上空にいた。
口ではああ言ったが、やはり自分の前に姿を見せないアドロの事が気掛かりだったのだ。
(……あの影は恐らくネロとアドロだな)
遥か遠く、塔の屋上を照らす松明の灯りの中に、小さな二つの人影が見える。
その間にキラリと光を反射するものが移動し、争う様子もなくアドロがネロに剣を渡した事がわかり、ジークヴァルトは安堵した。
(ほらな、やはりアドロは強い男だ。心配する事など何もなかったんだ)
そう思ったのも束の間、ジークヴァルトは目の前の光景に凍りついた。
ネロが剣を受け取った瞬間、アドロはみるみるうちに黒いモヤに包まれ、ぶわりと膨れ上がった大きな黒い闇が、そのまま二人を飲み込んだ。
「──あれ、は」
息を呑んだジークヴァルトは、思うより先に塔の屋上目掛けて物凄い速さで飛び出していた。
人々を怯えさせたくない彼が森から出るのは、これが初めてだった。
(ネロ……アドロ……!!)
鋭い風が頬を切り付けるのも無視し、ジークヴァルトは必死で飛んだ。
塔の屋上は一面が黒い魔力の湖に変わり、松明に照らされている。
息を乱し降り立ったジークヴァルトの瞳に映ったのは、愛する二人の友の変わり果てた姿だった。
「ネロ!!」
ジークヴァルトは顔を歪ませ、黒い湖に倒れるネロに駆け寄った。
ぐったりしたその身を抱き起こす。
ネロの水色の瞳は光を失いかけており、顔は青白く、口からは血を吐いている。
辛うじて息はあるものの、体はゾッとする程冷たくなり、その胸には、大きく穴が空いていた。
「……じー……く……」
ジークヴァルトの腕の中で、ネロはごぽりと血を吐きながら、掠れた声を絞り出す。
「あ……どろ……が……」
ネロは震える手を何とか持ち上げ、アドロを指差した。
だがジークヴァルトは眼前に迫る初めて得た友の死に酷く狼狽し、その指先に視線を向ける余裕などない。
こぼれ落ちようとしている命を掻き集めんと、ネロを強く抱きしめ必死に呼び掛け続けた。
「ネロ!! 死ぬな!! 死なないでくれ!! 俺を置いて行かないでくれ!!」
千切れそうな心を叱咤し、溢れる涙をそのままに、焼け付く喉で縋り吼えながら、ジークヴァルトはネロに回復魔法を掛けていく。
(死ぬな、死ぬな、死ぬな、死ぬな──!!)
周囲に流れた血を掻き集め、傷を塞ぐ。
何とか生気の戻ってきたネロの呼吸に、ジークヴァルトがグシャリと顔を歪めて嗚咽を漏らした時、堪えきれないとばかりに、アドロの笑い声がした。
「く……くくく、ふふ……あはははははは!!!!」
ジークヴァルトは、そこでやっとアドロを見た。
そこに、かつての幼なげな笑顔はどこにもなく、その全身は、腕も、顔も、髪も瞳も──全てが深淵のような漆黒に変わってしまっていた。
「ジークヴァルト……いや、花喰い竜。お前でも泣く事があるんだなぁ。私がお前を泣かせているなんて。ふ……ふふ。楽しいなあ、楽しいなぁ」
恍惚と瞳を細めるアドロの右手だけが、真っ赤に染まっている。
ネロを腕に支え跪くジークヴァルトは、絶望に涙を流したまま唸るように言った。
「アドロ……一体いつから……なぜ……何故お前は魔物に変わってしまったんだ!!」
アドロは嘲笑うように眉を上げる。
「なぜ……何故だと? そんな事もわからないのか? お前のせいだよ。お前のせいで、私は全てを失った。長の座も、人々の信頼も、剣も誇りも!! 花を食って、魔力を減らす!? 俺には力しかない。魔力を手放すなんてできるわけがない!! 漏れ出た魔力が魔物を生むなら、全てこの身に留めておけばいい。そう思って私は耐えた。人々を傷つけないように。いつか、お前の強さに辿り着けるように!!」
怒りで膨れ上がった黒い魔力が、アドロの周囲を渦のように取り囲んでいく。
「ジークヴァルト……お前が現れたせいで、俺は絶望を知ったんだ。どれだけ掛かっても、辿り着けない強さ……。その美しい金の瞳に並び立てない虚しさ。私が魔物に変わった事がわかった今でさえ!! お前は私に見向きもしなかった。お前の友になれたのは、兄上だけだ。全てを手に入れたのは兄上だけ……。ただ『空の器』だったというだけで、私の欲しい物を全て奪った!! ジークヴァルト、お前のせいだ!! お前さえ現れなければ、全てが上手くいっていた!! 私が魔物になることもなかった!! お前のせいだ!!」
大きく広がっていた黒い魔力は急速にアドロに集まり、彼の叫びと共に、鋭い槍のようになった夥しい数の黒い帯が、ジークヴァルトとネロを目掛けて物凄い速さで襲い掛かった。
ネロを守らなければ。
そう思うのに、心は氷のように冷え、体が全く動かない。
「お前のせいだ」
放たれたアドロの言葉がジークヴァルトを射抜き、呪いのように染みていく。
目の前に迫る刃をただ茫然と見つめ続ける金の瞳の横を、淡い琥珀色の髪が通り抜けた。
「違う」
悲しみが籠った穏やかな声がジークヴァルトの耳に響くと同時に、彼の目の前で、立ち上がり駆けたネロが、アドロの心臓を剣で貫いていた。
「違うよ、アドロ……。ジークヴァルトのせいじゃない。違うよ……」
まだ辛うじて回復魔法で命を繋ぎ止めただけだ。
アドロを抱きしめるように深く剣を刺すネロの口から、再びごぽ、と血が溢れ出る。
魔力核に変わってしまっていた心臓を貫かれ、アドロは灰が散るようにザアと形を失っていく。
「ああ……もう終わりか……。もっと……二人と遊びたかったなぁ……。寂しいなあ……寂しいなあ……。ジークヴァルト……私が力を手に入れたら……また私と遊んでくれるか……?」
風に溶けるようにそう言い残すと、アドロは服と剣だけを残し、霧散し跡形もなく消えてしまった。
「……すまない……アドロ」
泣きながらそう呟いたネロは、弟を貫いた剣を握りしめたまま、どさりとその場に崩れ落ちた。




