第17話 不機嫌な精霊
「あれが……精霊?」
煉瓦造りの竈門が目立つ広い厨房の入り口の、大きく開かれた扉の影。
メルナリッサの隣で、ラーラマリーは中の様子に目を見張りつつ、コソコソと小さな声で尋ねた。
厨房の中、中央にある大きな作業机の側には、腰に片手を当て困り顔をしているジークヴァルトと、険しい顔のキースが立っている。
その二人の視線の先には、拳程の大きさの白い光のモヤが二つ。
ふわりと宙に浮かぶ白いモヤは、まるで追いかけっこをするように物凄い速さで部屋の中を飛び回り、棚の調理器具や食器を倒し、籠に入れてあった果物を転がし、上へ下へと蛇行しながら、最後にはジークヴァルトを挟んで、彼の周りを小さくぐるぐると旋回し始めた。
ジークヴァルトはそれをうんざりした表情で眺め、キースが「ああ!」とか「もう!」とか言いながら魔法を使い、倒れた調理器具や落下しそうな果物をその都度浮遊させて片付けていく。
尋ねられたメルナリッサは、扉からちょこんと顔だけを出して中を覗きながら、ラーラマリーと同じように珍しく声を顰めて答えた。
「はい。あの逃げている方がオルフェで、追いかけている方がナナレです」
「え? もしかして、オルフェも精霊なの?」
「そうですよ。あれ、言ってませんでしたっけ?」
きょとんとした顔で見つめられ、ラーラマリーは目を丸くした。
精霊の加護を持つ人間や、実際に精霊を見たことがある人間がいる事は知っているが、自分が実物を見るのは初めてだ。
目の前の光景に、ラーラマリーの胸はドキドキと高鳴った。
ぐるぐると回り続ける光に、とうとうジークヴァルトがため息を吐いた。
「……オルフェ、そろそろ観念したらどうだ」
その穏やかな呟きを聞くや、追いかけていたナナレはぴたりと止まり、カッ大きく光ると同時に、棚の食器をガチャガチャと激しく揺らして、竜巻のような白く光る突風を起こした。
部屋に広がったその風はナナレの元に収束して行くと、そのまま背の高い人の形を作り出し、ジークヴァルトに詰め寄った。
「おい、てめえがオルフェに指図するんじゃねえ!」
ジークヴァルトの胸ぐらを掴み、噛み付くように吠えたのは、癖のある短い髪に茂る葉で編んだ冠を乗せ、ゆったりとしたマントのような衣を纏った人物、ナナレ。
(女性……? ううん、男性……なのかしら?)
ラーラマリーは困惑した。
ナナレは、その粗暴な口調とは似合わず、中世的で華のある凛とした顔立ちをしており、声も高過ぎず低過ぎず、性別の判断がつかなかった。
スラリと背が高く、睨みつける鋭い眼光の位置はジークヴァルトよりも高い。
だがその姿は、髪も、肌も、瞳に唇、その爪や冠の葉でさえも、全てが陶器のように真っ白で、どう見ても人でないことは明らかだった。
「はあ……いちいち噛み付いてくるな、ナナレ。お前がオルフェをいつまでも捕まえないから、俺が言ってやっているんだろう」
面倒そうなジークヴァルトのその言葉で、ナナレはさらに気分を害し、顔を歪ませた。
「オルフェには、出来るだけ無理強いしたくないだけだ。説得中だったんだ。てめえは口を挟むな」
それだけ吐き捨てると、ナナレはジークヴァルトの胸ぐらを掴んだまま、彼の斜め後ろで様子を伺うように隠れている白い光──オルフェに視線を向けて優しく声を掛けた。
「……オルフェ」
愛しむように名を呼ぶと、ナナレからジークヴァルトの背後へ向かって柔らかな白い風が起こる。
風は再び逃げようとする小さな光を包んで、すっと差し出されたナナレの手の中へそれを運んで来た。
ナナレはジークヴァルトを掴んでいたもう片方の手を離し、大人しくなった白い光を両手でそっと包み顔を近付けると、そのまま唇を寄せキスをした。
すると、ナナレの全身がぼう、と淡く光り、その光がどんどんと手の中の小さなオルフェに流れ込んで行く。
(まあ……何て綺麗なの)
まるで童話の一場面のようなその光景を、目を輝かせたラーラマリーを含め、その場の全員が黙って見つめる。
暫く口付けをしていたナナレがゆっくりと顔を離すとその淡い光は消え、今度は手の中の小さな光が「耐えられない」とばかりにふるりと震え、カッと眩く光りを放った。
「──!」
あまりの眩しさで、様子を眺めていたラーラマリーは思わず目を細める。
キラキラと銀粉が舞ったかと思うと、今度はナナレの目の前、ジークヴァルトとの間に立つように、顔を両手で押さえた小柄な人物が姿を現した。
「もう……本当にやめて。皆の前でなんてことを……」
消え入りそうに言ったその人物が、どうやらオルフェのようだ。
背はラーラマリーより少し低く、肩程の長さの緩く巻いた髪を耳に掛けている。
衣はナナレのそれに良く似ているが、頭に乗せているのは葉の冠ではなく、リュスタールの花輪。
その身体の線は細く、顔は見えないが、やはり全てが真っ白だった。
ナナレはそれまでの不機嫌さを一瞬で消し去り瞳を細めると、オルフェにそっと身を寄せ、顔を覆っていた両手を掴んで退かし視線を合わせさせる。
やはり性別はわからないが、力強いナナレとは対照的に、オルフェは儚げな顔立ちをしていた。
しょんぼりと眉を下げ、表情には戸惑いが浮かんでいる。
ナナレは先程までとは打って変わって、それはそれは甘い声で囁いた。
「オルフェ。お前が逃げるからだろう? そろそろ補充しねえと、限界だった筈だ」
「だ……だからって、皆の前で口付けするなんて……!」
ワナワナと震えるオルフェの顔色は真っ白なままだが、その表情や声音から、もし色があれば全身が真っ赤になっている程、恥ずかしさを感じていることがよく分かった。
入り口の影に隠れているラーラマリーは、メルナリッサに小声で尋ねた。
「あの二人は、女性なの? 男性なの?」
メルナリッサも、彼女にでき得る限りの小さな声で、こしょこしょと耳元で返事をした。
「姫様、精霊に性別はないんです。人間が性格とか見た目で勝手に決めているだけで」
「そうなの? 知らなかったわ。……それじゃあ、さっきのは何? 補充ってどういう事?」
「あー、オルフェは魔力核が凄く脆いんで、自分では魔力を集められないんです。形を保つためには、ナナレに魔力を分けて貰わないといけないんですよ」
「魔力核? 魔力を集めるって?」
精霊の存在だけでも不思議なのに、聞きなれない言葉が続き、質問が止まらない。
好奇心で目をキラキラとさせているラーラマリーに、メルナリッサも楽しそうに答えた。
「魔力核は、精霊にとっての心臓ですね。元々、木とか、大地とか、自然から溢れ出た魔力が、魔力核に集まって形になったものが精霊なので、大気中の魔力を集め続けられないと、精霊は消えちゃうんです。ナナレは世界樹の葉を核に持つ精霊で、強い核なので自分で魔力を大気から集められます。でもオルフェは──」
「リュスタールの花弁が核の精霊なんだ。それも一枚だけ。だから、自力では魔力を集められない」
話し込んでいたラーラマリーとメルナリッサの頭の上から、低く優しい声が降ってきた。
びくりと大きく肩を震わせ見上げると、声の主は、いつの間にか彼女達のすぐ側に寄って来ていたジークヴァルトだった。
「ジーク……あの、勝手に覗いてごめんなさい。どうしても気になっちゃって……」
ラーラマリーが肩を落として謝っていると、ジークヴァルトが返事をするより先に、部屋の中からナナレの唸るような怒号が飛んできた。
「おい! なんでここに人間がいるんだ!!」
はっとして視線を向けると、ナナレはオルフェを守り隠すように抱き寄せ、鬼の形相でラーラマリーを睨んでいる。
「あ……」
謝罪か、それとも挨拶か。
何かを言わなければとラーラマリーが口を開いた瞬間、白い風がごうと吹き、その風はまるで締め殺そうとでもするように、彼女の細い首に巻き付いた。
「──ぐ、ぅ」
ラーラマリーは突然の苦しさに呻きもがいたが、首をぎゅうぎゅうと締める風は掴むことすらできない。
「ナナレ、やめろ!!」
視界が霞んでいたラーラマリーにはよく見えなかったが、怒りを見せたジークヴァルトの金の瞳が一瞬、瞳孔が三日月のように縦に伸び光った気がした。
叫び声と同時に、ジークヴァルトが発した何らかの魔法が円形の陣の形になり、瞬きよりも素早くぶわりと部屋中に広がった。
森で助けられた時に感じたのと同じあたたかさを肌に浴びると、纏わり付いていた風が消え、ゴホゴホと咽せ崩れそうになるラーラマリーの身体を、ジークヴァルトが受け止めた。
「ラーラマリー、大丈夫か!?」
焦りを滲ませ、心配そうに声を掛けてくるジークヴァルトにもたれながら、ラーラマリーの頭には疑問が過っていた。
(さっきのジークの魔法……初めて見る陣のはずなのに……何だろう。あの形、見たことある気がする。どこで見たんだったかしら……)
解放された脱力と疑問とで混乱するラーラマリーは碌に返事もできず、ジークヴァルトがナナレに吠えた。
「何するんだ、ナナレ! このまま消されたいのか!!」
──大気が揺れている。
そう感じる程に、ジークヴァルトの声には怒りが滲んでいた。
呼吸が落ち着いてきたラーラマリーは、ジークヴァルトに「大丈夫だから」と声を掛ける前に、ある異変に気付き再び顔色を悪くして目を見開いた。
(え? これは、どういうこと?)
周囲を見ると、それまで普通にしていたメルナリッサやキース、オルフェやナナレまでもが、立っていられないとばかりにしゃがみ込み、苦悶の表情を浮かべているのだ。
もたれていたジークヴァルトの胸から慌てて飛び起きると、ラーラマリーはメルナリッサの背に手を当て必死で声をかけた。
「どうしたの、メルナリッサ! 大丈夫!?」
「う、ぐぅ……姫さ、ま……」
苦しそうにしているメルナリッサの様子に、一層不安が広がる。
どうすれば。
そう尋ねたくて、ジークヴァルトの方へ視線を向けようとした時、ナナレが叫んだ。
「わかった! 俺が悪かった! 謝るから、やめてくれ!」
ジークヴァルトはその声に返事をせず、心配そうな表情で何故か再び、ラーラマリーに先程と同じ質問を投げ掛けた。
「ラーラマリー、大丈夫か?」
状況が飲み込めず戸惑いながらも、ラーラマリーは返事をした。
「え……ええ。私は大丈夫。でも、メルナリッサや皆が──」
そう答えた瞬間、ジークヴァルトはホッと表情を緩め、瞳から強張りが消えた。
すると、まるで押さえつけていた何かが無くなったかのように、メルナリッサを始め、苦しんでいた四人は脱力し、その場に両手をついて深く息を吐いている。
ナナレがどっと疲れたような表情でジークヴァルトを睨み付け、吐き捨てるように言った。
「くそ……ジークヴァルト……てめえ殺す気で威圧飛ばして来てただろう……はあ……昔から人間に関わると碌なことがねえ」
何が起きたのかわからず、思わずジークヴァルトの胸元の服を握りしめていたラーラマリーを、無言の彼の大きな手が優しく撫でた。




