表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ヒカリの煙草

作者: ジョー
掲載日:2025/11/18

 たった今、郊外に向かう終電が目の前を走り去っていった。あと十数秒もあれば滑り込みで乗車できたかもしれない。月曜日からこの調子では、今週もロクな週にならないだろう。仕事も、私生活でも。

 仕方なく改札を出て、タクシー乗り場に向かった。先客はいない。「俺だけ電車に乗れなかったのか」という妬みではなく、純粋に「待たずに乗れてラッキー」と喜びたい。だが、横浜駅からの乗り換えにあたるこの駅から自宅までのタクシー代は五千円を超える。それが、土日を挟んで今日で五日連続だから、計算すると・・・。結局ネガティブな考えに戻ってしまい、僕はため息をつくのだった。

 数台並んだ中の先頭のタクシーに近付き、助手席側から中を覗き込むと、運転手はスマートフォンで動画を見ていた。窓をコンコンと叩くと、運転手はこちらを振り向き、スマートフォンを背広の胸ポケットにしまいこんだ。その仕草に慌てた様子はなく、むしろ「めんどくせぇなー」という呟きが聞こえてきそうな雰囲気だった。

 後部座席に乗り込んだ僕に、運転手は「どこまで?」と居丈高に訊いてきた。言葉遣いも客に対するものとは思えないし、口調には愛想のカケラもない。腹立たしさを抑えるために深呼吸をしようと息を大きく吸い込むと、煙草の匂いが鼻をついた。それも、長い年月を積み重ねて染み付いた匂い。そしてそれは、将司にとって懐かしい匂いだった。

 中学一年生の秋から十年間付き合ってきた女性がいる。「ヒカリ」という名前だった。漢字では「光」と書くのを、「男みたいで嫌だ」と本人は文句を言っていたが、僕には夜空に輝く星や月を連想させて、「綺麗だな」と思っていた。

 高校も大学も、ヒカリと同じ進路を選んだ。どちらも僕には手の届かないような偏差値の学校だったが、「ヒカリと一緒」のために、必死で勉強した。ヒカリもそんな僕を応援してくれたし、大学の合格発表では僕よりも喜んで、涙を流してくれた。

 就職先は別々になったが、週末には僕のアパートにヒカリが通うという半同棲生活を、大学卒業後も続けた。

ヒカリは家庭的な女性だった。料理の味付けはもちろん、作業中の手際も良い。盛り付けも食欲をそそる見栄えで、僕は毎回料理の写真を撮影する程だった。掃除も完璧にこなしてくれた。「とりあえず目に見える場所だけ」の僕とは違い、テレビの裏やソファの下まで、隅々まで綺麗にしてくれていた。

 そんなヒカリに、僕は次第に甘えるようになった。何をするにしても、ヒカリ、ヒカリ、ヒカリ。依存とまでは言わなくても、頼りすぎていたんだなと、今では思う。僕は「信頼」を寄せているつもりだったが、ヒカリにはそれが「重荷」になっていたんだと、これも今になって思う。別れ話の最後に、ヒカリにこんな事を言われた。

「私はあなたの家政婦じゃないの」

それが、ちょうど一週間前の夜だった。大事なことは全てが終わってから、そして、全てを失ってから初めて気付くものなのだ。

 そんなヒカリが、大学二年生の夏の終わり、二十歳の誕生日を迎えた頃を境に煙草を吸うようになった。煙草を吸いたいという話を聞いた事もないし、憧れているような素振りも見せていなかった。他の男性に唆されたのか、それとも、将司との関係に疲れてストレスを発散したかったのか。当たってほしくない答えばかりが頭をよぎっていた。

 ピアニッシモ・ペティル・メンソール。ヒカリが吸っていた煙草の銘柄だ。「パッケージのデザインが可愛い」とヒカリが言っていた通り、ピンク色の箱は鮮やかで、吐き出される煙に僅かに溶けるピーチの香りのおかげで、煙草を吸わない僕も意外と不快な気分にはならなかった。

その匂いが、今、蘇った。匂いと一緒に、ヒカリとの思い出も。もう一度車内の空気を吸い込もうと目を閉じると、瞼の裏がじんわりと熱くなった。

 「お客さん、どこまで行くの?」

素っ気ない運転手の声で我に返り、僕は目尻を軽く拭いながら、

「日吉までお願いします」

と応えた。「へいへい」と答えた運転手は、乱暴な手つきでサイドブレーキを解除した。

 でも、実際に走り出すとその運転はとても滑らかで、乗り心地も良かった。こういうパターンの「ハンドルを握るとヒトが変わる」こともあるんだな。

ヒカリが隣で眠ってくれているような感覚に包まれた。シートに染み込んだ煙草の匂いに、ピーチの香りが溶け込んでいる・・・ような気もした。再び目を閉じる。瞼がつくった暗がりに、大きな星が燦然と輝き、やがてそれは滲んで、ヒカリの筋となって流れていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ