6.ミドリ先生の特別授業
週明けの月曜日、紗亜良はもやもやした気持ちを抱えたまま登校した。
澪はその顔を見るなり、何かあったの、と聞いてきたが、紗亜良はなんでもないから、と笑って答えた。
土曜の夜のSNSでのやり取りのこともあってか、察しのいい澪はそれだけで何か感じ取ったらしい。いつでも相談して、とだけ言って、後はいつも通りごく普通に振る舞ってくれた。
そばに居てくれるだけで心強い。わたしも柚香に対してそうできるだろうか、と紗亜良は改めて思った。
ミドリ先生には放課後になったら職員室に行って相談に乗ってもらおう。紗亜良はそう思っていた。だがその日の午後、授業後のホームルームが終わるとミドリ先生は、
「そうそう、風見さん」
呼ばれた紗亜良は内心驚きながら、
「はい」
「突然で悪いんだけど、今日の放課後、すこしいいかしら」
「はい、大丈夫です」
「よかった。なら時間を頂戴。掃除が終わったら職員室に来て」
「はい」
渡りに船、と言うのはこう言う時に使うことわざなのかな。それとも棚からボタ餅?
「紗亜良」
つつー、と澪が寄ってきて、
「わたし、待ってなくて平気?」
「大丈夫、たぶん」
「柚香のこと?」
「たぶん」
確信はないけれど、なんとなくそう思う。きっと先生にはお見通しなんだ。なにしろ相手は魔女なのだから。
職員室に行くと、ミドリ先生は「少し歩きましょう」と言って紗亜良を散歩に誘った。行く先はビオトープだった。
洲緒美学園のビオトープは、小、中、高、大学が共同で運営していた。見た目は池を中心にした庭園のように見える。じっさい、散策のための小径が設けられていた。
「風見さん、ここがなんだか知っている?」
「ビオトープ、ですよね」
「そうよ。ならビオトープが何かは?」
「いえ、よくは知らないです」
「そう。ビオトープと言うのはね、生物生存空間のことなの」
「?」
「自然環境を模して作られた、自然の生態系に開かれた生物多様性を実現する空間、とでも言うのかしら。ほら、池に魚がいるのが見えるでしょう?」
「はい」
「その老廃物とか死骸を食べる水生生物とかもいるの。そしてそれらが死ぬと植物の養分になる。食物連鎖の生きた教材というわけ」
「はあ」
「人間も自然の中で生かされているけれど、それを実感することはなかなか難しいわ。だから洲緒美学園ではこうした施設を作って生徒たちの教育に役立てているわけ。まあ、難しいことは抜きにしても、学校の中に小さな森があるなんて素敵じゃない?」
「そうですね」
池のほとりに立ち止まり、水面を飛ぶ小さな虫に目をやる。あたりには人影はなかった。
かすかな風が紗亜良の髪を揺らした。ミドリ先生はすっと手を伸ばしてその髪を撫でた。
「少し長くない? 校則は知っているでしょう」
「肩にはついてません。くせっ毛ですから」
「あなたがそう言うならそういうことにしておきましょう。さて、本題に入るわね」
「はい」
「わたしに聞きたいことがある。そうでしょう」
「はい」
「乃原さん関係のことね」
「はい」
素直に返事をする紗亜良にミドリ先生はクスッ笑みを漏らした。
「聞かないのね。どうしてわかったのか、て」
「魔女だから、でしょう」
ミドリ先生は返事の代わりににっこりとわらった。天使のような笑顔だったけれど、紗亜良はだまされなかった。
ミドリ先生は教師の顔に戻って言った。
「乃原さんの亡くなった弟さんのことね?」
「はい」
「そう。彼女の不登校の原因はそれなの。あの子にとって、弟さんは自分の半身のようなものだった。だから」
ミドリ先生は目を伏せた。
「自分が生きているんだから、半身たる弟も死んでいない、と思っている」
「あの、それはどういう」
「つまりは幽霊ね」
核心をついた言葉にドキリとする。
「そりゃあお墓もあるでしょう。お葬式にも出たでしょう。実際には弟さんは死んでしまった。でも、死んでなんかいない、ここにいるんだ、と思い込もうとしている。いわば幻想の弟ね。
そして、その幻想を守るためにひきこもる必要があったのではないか、とわたしは考えているの。外の世界――学校とか、社会と言ってもいいわ――に出れば、否応なく弟のいない世界に直面しなければならなくなる。あの子のひきこもりは幻の弟を守るためだと思うの」
なら、わたしが会ったあのユウくんも幻想なの? 柚香がそうあれと願ったから実体化したとでも?
訳のわからない不安に、紗亜良の頬はかすかにひきつった。
「しっかりなさい、風見さん。そんな顔しないの。いくら乃原さんと仲良くなっても、幻想まで共有する必要はないわ」
ミドリ先生は紗亜良の目を見ていった。
「ごらんなさい、このビオトープを。この空間のなかで、生命は生き、死んで、また新たな生命が生まれてくる。この自然の冷徹なエコシステムの中では、死者は蘇ったりしないし、幽霊なんてものもいないの。ただ、居て欲しい、という人間の思いが幽霊を、幻を生んでしまう」
でも先生、わたしは見たんです。ユウくんの幽霊を。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「幽霊なんかいない。でも、幽霊に見えるものはあるわ。それだけ憶えておいてくれればいいの」
先生はどこまで知っているんだろう。この自称魔女は?
「先生は」
「うん?」
ミドリ先生は軽く首をかしげている。
「先生は魔女、なんですよね」
「そう呼ばれているわ」
「自称もしていますよね」
「まあね」
「それなのに幽霊を否定するんですか?」
「死者の霊、という意味ならね。でも、さっきも言ったとおり、幽霊に見える別の何か、というのはあるの。もっとも」
教師らしくない意地の悪い笑みを浮かべて、
「いると信じたいなら話は別よ。信じる信じないは事実とはまるで関係がない。人間は状況しだいでどんな馬鹿げたことでも信じてしまうことがあるの」
「・・・」
先生の話には、紗亜良にとって納得できるところと出来ないところがあった。けれど、考える糸口くらいは見つけ出せそうだった。
「考えてみます」
とだけ紗亜良は言った。
「けっこう」
ミドリ先生は満足そうに微笑んだ。
「これは簡単に答えが出る問題ではないわね。だから正解を教えてあげることはできない。わたしだって答えを知らないもの。でも、教師というのはね、答えの探し方は教えてあげられるの」
「ありがとうございます、先生」
礼を言って、頭を下げる。
「はい、先生の特別授業はこれでおしまい。わからないことがあったら聞きにいらっしゃい」
「はい」
立ち去りかけた紗亜良は、しかし思い直して振り返り、こう質問した。
「本当のところ、先生はどうしてわたしが考えていることが判ったんです?」
「ああ、それはね、」
「魔女だから、というのは却下です」
「あら。意地悪ね」
ミドリ先生はくすくすと笑い、
「そうね。ちょっとした魔法を使った、ということにしておきましょうか」
「魔法って。どんな?」
「友達の友達は友達、という魔法」
「?」
「営業上の秘密は詮索しないの」
そう言って笑うミドリ先生を見て、やっぱりこのひとは魔女だ、と紗亜良は思った。
その日、紗亜良は柚香のところへは行かなかった。
先週の土曜日のことをまだ受け止めきれずにいたのだ。ミドリ先生の話もよく考えてみたかった。
夜、お風呂から上がって部屋に戻ると、スマホに着信が一件あった。番号には心当たりがなかった。
(やだなあ、イタ電かなぁ)
そんなことを思っていると、突然着信メロディが鳴り始めた。番号はさっきの不在着信と同じだった。少し迷い、でも結局通話ボタンを押した。そのまま答えずに聞き耳を立てる。
『もしもし? これでいいのお母さん? もしもし?』
聞き覚えのある声だった。
「柚香、柚香なの?」
『あ、通じた。うん、そうだよ。紗亜良? 聞える?』
「聞えるけど。スマホ買ったの?」
『うん。お母さんに買って来てもらったの』
「そうなんだ」
『やっぱりね、紗亜良といつでも連絡をとりたい、て思って』
今日会いに行かなかったからかな。
紗亜良はそう思い、胸がちくりと痛んだ。思えば、紗亜良は自分の都合で好き勝手に遊びに行ったり行かなかったりしていた。待つ身の柚香には残酷なことをしていたのかも知れない、と思い至った。
『でもまだ操作とかよく分からなくて。さっきも掛けたんだけど繋がらなかったみたい』
「ごめん、お風呂に入ってた」
『あ、そうなんだ』
「でもよくわたしの番号・・・ああ、教えてあったんだっけ」
『うん。あとね、メールの打ち方を練習しているんだ。今度メールを送るね。あとSNSの登録も』
「うん。待ってる」
電話の向こうで誰かと話している気配があった。
『え? うん、わかった。じゃ、今日はこれでね。お母さんがもう遅いからって』
「うん、おやすみ」
『おやすみなさい』
紗亜良は通話が切れると、ちょっと呆然として手の中のスマホを見つめていた。
そして、いまのコールが柚香の方からの初めての働きかけだったことに気づいた。
(わたしを求めてくれたの、あの子)
(こんなわがままなわたしを)
紗亜良はぎゅっとスマホを握り締めた。
(よしっ)
(いいじゃない幽霊憑きでひきこもりの女の子だって。そんなの個性のうちだよ)
(あの弟くんの幽霊ごと引き受けてあげる。どんと来いよ)
そして、とりあえず澪にはこの気持ちを伝えておこう、と思い、さっそくSNSでメッセージを飛ばした。もちろん幽霊うんぬんについては触れなかったけれど。
『わたし決めたの。柚香の力になりたい。あの子のそばにいて、支えてあげたいの。わたし変かな。でも決めたの。ねえ、どう思う?』
澪からの返答は簡潔なものだった。
『わかった。わかったから今日はもう寝れ』




