4.穏やかな日々
一時限目の授業が終わり、次の授業までの短い休み時間に紗亜良は机につっぷしていた。
眠っているのではなかった。ただ目を閉じ、じっとしていたのだ。
「なにをしてるの?」
澪が首筋をちょんちょん、と突付く。
紗亜良は物憂げに顔を上げた。
「あー、禁断症状」
「なにそれ」
「柚香にメールしたい」
「すりゃいいじゃない」
「ダメ。あの子スマートフォン持ってない」
「ああ、そうだった」
紗亜良は体を起こして机の横に立っている澪を見上げた。
「話したいのに、放課後にならなきゃ会えないなんて辛いよ。そう思わない?」
「まだ一時限目が終わったばかりでしょ。どんだけ重症なの? だいたいあれから毎日会ってるんでしょう?」
「毎日じゃないよ。二日に一回くらい」
「そんなに? どうりで最近付き合いが悪いと思った」
「うん。ごめん」
「別に謝らなくてもいいけど。それでどうなの」
「どう、って何が」
「柚香のことよ。だいたい二人でなにしてるワケ?」
「そりゃあ、まずおしゃべり。それからゲームかな」
「ゲーム?」
「そうそう。同じ携帯ゲーム機を持っていたんだ。だから通信プレイが出来るの」
「はあ。それはまた思いっきりインドアね」
「うん。まあ最初だからね」
「最初? 何が最初なの」
「だからね、これからいろいろな遊びに誘って、外に出られるようになったらいいな、て。夏休みも近いしさ」
そう聞くと、澪はへぇっ、という声を出した。
「社会復帰させる気なんだ? なるほど、見直した。ステップを踏んで慣れさせて、最終的に学校にも出てこられるようにすると」
「いえ、全然」
「え? リハビリのつもりじゃないの?」
「違うよ。ただ、わたしが一緒に外で遊びたいだけ。その方が楽しいし。別に学校になんて来なくていいと思っているんだけど?」
「前言撤回。あなたはただの利己主義者だ」
「誉めても何も出ないよ」
「誉めてない! まったく、ミドリ先生も何を考えてこんな人に柚香を任せる気になったんだか」
「別に任されてないけど」
実際、あの日以来、ミドリ先生は何も言ってこなかった。けれど紗亜良はそんなことなどどうでもよかった。ただ柚香と一緒にいられればそれでいいと思っていたのだ。
紗亜良が柚香の家に行く目的はもうひとつあった。それは、弟の柚司くんに会えるかも知れない、という希望だった。
そんな話をすると、澪は妙な顔をした。
「なにそれ」
「べ、別に柚香を口実にしてるわけじゃないよ」
とっさに予防線を張る。
「ただ会えたらいいな、て」
「本気で言ってるの?」
「なに、いけないって言うの」
「そうじゃなくて、」
どう言ったものか、という思案顔で口を閉じた。
二時限目の授業開始のチャイムが鳴った。
「ほら、先生が来たよ。その話はまたあとでね」
そういって澪を急き立てる。澪は何か言いたそうな顔で、それでも自席に戻った。
紗亜良はふと視線を感じて教室を見回した。
あかりだった。きつい表情で紗亜良の方を見ている。授業がはじまっていなければ、また文句を言いに来たに違いない。
(なんなの? あの子)
紗亜良は心のなかで肩をすくめた。
その日はどういう訳か澪と行き違いになって、話す機会がなかった。澪は書記の仕事に時間を取られて昼休みもずっと生徒会室だったからだ。
放課後、生徒会の仕事があるという澪と別れて紗亜良は柚香の家に向かった。
玄関横のブロック塀にスポーツタイプの自転車が立てかけてあるのを見てドキリとする。よく見るとフレームにはマジックで「柚司」と書かれていた。
(自転車が出してあるということは、帰って来たばかりなのかな。それともこれから出かけるところ?)
その予想を裏切らず、玄関のドアが開いていつかの少年が姿を現した。彼は紗亜良に気づくと、にっこりと笑った。
「やあ。また会ったね」
「うん」
とっさに言葉が出ない。
「柚姉から聞いたよ。紗亜良さん、だったっけ」
男の子からいきなり名前で呼ばれて、紗亜良は少なからず動揺した。
(落ち着きなさい、紗亜良。柚香はわたしのこと呼び捨てにしてるんだから、弟に話すときも苗字でなんか呼ばないはず。だから別に特別なことじゃないの)
「う、うん」
「いつもありがとう」
「え」
「柚姉のこと。こんなふうに毎日来てくれる友達って今までいなかったんだ」
「毎日じゃないけど」
「そうなの? 柚姉の話を聞いてると毎日来ているみたいだったよ? 最近は紗亜良さんがどうしたとか、こんなことをしたとか、そんな話しばっかり」
いったい何を話してるの、柚香。わたし、なにか恥ずかしい話をしていなかったかな。そう思って自然と頬が熱くなる。
「あんな柚姉、ひさしぶりに見たよ」
優しそうな、愛しむような微笑み。紗亜良は男の子がそんな表情をするのを初めて見た。
「柚姉はさ、あれでなかなか難しくてさ。友達がいないわけじゃなかったけど。ひきこもるようになってからは、ぼく以外とはあんまり話もしてなかったし」
「・・・」
「でも、紗亜良さんが来るようになって、だいぶ良い方向に向かってるみたい」
「そうなの・・・」
わたしが楽しいから遊びに来てるだけなんです、とは言えない。
「これからも柚姉のことを頼むよ。ほんとはぼくが支えて上げられればいいんだけど。ぼくじゃダメみたいだから」
「わたしはなにも特別なことは」
少年は柚香とそっくりの顔で微笑んだ。
「来てくれるだけでいいんだ。それが今の柚姉には必要なんだと思うよ。ありがとう紗亜良さん」
ふわっとした暖かな笑みだった。姉思いの弟の様子に、きょうだいっていいな、と紗亜良は思った。
「わたしの方こそ仲良くしてもらってうれしいし」
「柚姉の一目惚れみたいだよ? ちょっと妬けるな」
「え」
「ぼくにとって、柚姉は一番大切なひとだから」
そんなことを言って、照れたように微笑む。少年はひらりと自転車に跨ると、
「じゃあ、ぼくはもう行くよ。邪魔しちゃ悪いし。柚姉とごゆっくり」
「邪魔だなんて」
けれど、自転車は走り出し、あっという間に見えなくなった。
(柚姉は一番大切なひと・・・)
(ということは、)
紗亜良は複雑な表情でつぶやいた。
「わたしのライバルってどっちなんだろう」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「夏休み?」
柚香の部屋でゲームをしているとき、何の気なしに紗亜良が口にした単語に柚香は反応した。
期末試験も終わって、あとは夏休みを待つばかりだ、と言ったのだ。
「夏休み。そっか、夏休みか」
まずかったかな、と思いながら紗亜良はその話題を続けた。
「うん。来月でしょ。どこかに遊びに行けたらな、て」
柚香はゲーム機を置いてつぶやいた。
「わたしは特に考えてない。だって今は毎日が夏休みだし」
この話題は失敗だったかも。紗亜良はそう思って、
「いいの、気にしないで。わたしもまだ計画とか立ててないし。行きたいところも特にはないし」
柚香はぽつりと、
「湖とかはどう?」
「えっ」
「湖。お祖父ちゃんが湖畔に別荘を持ってるの」
「へええ」
「前に・・・友達を連れて行ったことがあるの。たぶん、今年も貸してもらえると思うし」
「すごーい。別荘を持ってるんだ。お金持ちなんだ?」
「お祖父ちゃんがね」
「いいの?」
「もちろん。来てくれるとうれしいわ」
でも大丈夫なんだろか、とふと思う。
柚香と知り合ってから、彼女が外出したという話は聞いたことがなかった。
服装もいつもトレーナーで、髪だけはどうにか櫛を通していたけれど、それ以外はありていにいって身だしなみに気を使っているようには見えなかった。
「小さい頃は毎年行っていたの。わたしにとってはもう一つの家みたいなものだから」
心配が顔に出ていたらしい。柚香はそう言ってわらった。
「あ、そうだ、忘れてた」
柚香はポン、と両手を打ち合わせて、
「今度の土曜日の午後、来られない?」
「土曜日?」
「うん。お母さんに紗亜良のことを話したらね、ぜひ一度会いたいって」
「わたしに?」
「うん。そう。なんだかね」
照れたように鼻の頭をかいて、
「お礼したいって」
「あ」
先ほど会った弟くんもそんなことを言ってたな、と紗亜良はくすぐったい気持ちになった。ただ楽しく遊んでいるだけなのに。
「謹んでお招きにあずかりします」
「別に謹まなくってもいいけど」
そう言って柚香は笑った。紗亜良はその笑顔を見て、ああ、やっぱり双子だと同じような顔で笑うんだな、と思った。
翌日の昼休み、お弁当を食べ終えた紗亜良は、澪と学園内のビオトープを散歩していた。
洲緒美学園はエコロジー活動に力を入れていて、かなり大規模なビオトープが敷地内に設けられていた。
もっとも、関心の薄い生徒たちにとっては池のある大きな庭園、という認識でしかなく、昼休みには格好の散歩場所となっていた。
紗亜良と澪が教室を出たのは柚香の話をしているところをあかりに聞かれるのを避けるためでもあった。二人が柚香を話題にしていると気づくと、ものすごい目で二人を睨むからだ。
「でね、こんどの土曜に柚香のお母さんと会うんだ」
澪にそう報告すると、
「まー、そこまで関係が進んでいたの。紗亜良さん、ちゃんとご挨拶するんですよ」
「ちゃんとって」
「柚香さんをわたしに下さい、て」
「なんでそーゆーことを」
呆れている紗亜良に、澪は「当校における同性の恋人」についての独特な理屈を説明した。
いわく、女子同士の恋人関係は、男子とのそれよりも許容されている、ということらしい。教師も保護者も奨励こそしないものの、半ば伝統として黙認されているらしい。
もちろん節度ある付き合いをしている限りにおいて、ということだそうだ。確かに学園内でも手をつないで歩いている女子生徒は珍しくなかった。
「親公認ともなればもっと深い交際ができるんじゃない?」
「深いって?」
「お泊りしたりとか」
「あ、そう言えば、夏休みに別荘に来ないかって誘われた」
「まーっ、もうそこまで進んでるのねっ! 式はいつかしら」
「だからそっちの方に話を持っていかない!」
「冗談だってば」
そして澪は、ふっと真面目な顔になって、
「別荘ってあそこかな。湖のほとりの」
「うん、そんなこと言ってた。お祖父さんの別荘だって。知ってるの?」
「小等部の頃、一度行ったことがあるの。クラスの子も何人か一緒だったかな」
「そうなんだ」
「ところで紗亜良」
「なに?」
「ひとつ忠告しておくけど」
「なに、怖い顔して」
「柚香のお母さんに会っても柚司くんのことは・・・弟さんのことは言っちゃだめだよ」
「え・・・」
「いくら親しくなったからって、家族のことには踏み込まない方がいいと思う」
「それは、どういう」
「いいから! 紗亜良はたまにすごく無神経になるから忠告しているの」
「・・・うん」
それは認める。でも、だからってどうして弟くんのことがタブーなんだろう。
「わたしからのアドバイスはそれくらいかな」
澪は一転してニヤニヤ笑いながら、
「ちゃんと言いなさいね。『お嬢さんを下さい』って」
「言わないったら」




