3.紗亜良と柚香の午後
紗亜良はふたたび乃原家の玄関の前に立っていた。昨日とほとんど同じ時間に、今度は一人で。
インターホンのボタンを押す。ほどなくスピーカー越しに応えがあった。柚香の声らしい。それとも母親だろうか。
「どちらさまですか」
「洲緒美学園女子中等部一年A組の風見紗亜良です。柚香さんにプリントを届けにうかがいました」
えっ、と息を呑む気配があった。紗亜良は続けて言った。
「柚香さん? 昨日来た風見だよ。憶えてる?」
「え、うん。待ってて今開けるから」
ややしてドアが開く。そこに柚香がいた。昨日と同じトレーナーを着ている。その頬はかすかに上気してさくら色に染まっていた。自室から走って来たのだろう、わずかに息が荒い。
「こんにちは」
紗亜良はなんとなく叫び出したいような気持ちを抑えてそう言った。
「こんにちは」
柚香の声も弾んでいた。
「これ、プリント」
紗亜良は預かってきた一枚の紙を差し出した。《不審者に注意》という内容の学校通信だった。
「ありがと」
柚香はプリントを受け取ると、紗亜良の後ろに視線を泳がせた。それに気づいて柚香は、
「今日は一人できたの」
と、つけ足す。
「そうなんだ」
柚香はそういうと、一瞬のためらいの後に、
「あの、よかったら上がって行かない?」
「いいの?」
「うん」
どことなく小動物めいたしぐさではにかむ柚香に、紗亜良は、
(かまいたい、かまいたいなあ。つっついたりしたいぞ)
と思った。
柚香に案内されて二階の彼女の部屋に通された。
「適当に座っていて。今飲みものを持ってくるから」
「あ、ありがと」
柚香ははしゃいでいるようだった。ひとり部屋に残された紗亜良はクッションの上に座って、室内を見渡した。
広い部屋で、二つのベッドが真ん中に置かれていた。片方はきちんとベッドメイクされており、もう一方には人が寝ていた痕跡があった。タオルケットが足元で丸まっていて、持ち主の寝相の悪さを物語っていた。
部屋はそのベッドを挟んで左右対称のつくりになっている。寝乱れたベッドがある方の棚にはたくさんの本が雑然と並べてあり、空いたスペースにはぬいぐるみが置いてあった。反対側の棚にはサッカーボールと、飛行機や戦車のプラモデルが整然と飾ってあった。そして小学校時に使っていたと思われる黒いランドセルが、記念品といった趣でやはり棚に置いてあった。
(双子の弟がいるって聞いたけど。同じ部屋なんだ)
兄弟のいない紗亜良にはよく分からなかったけれど、弟と同じ部屋でいやじゃないのかな、と思う。それとも双子は特別なのかな。それにしても両者の性格の違いが出ていておもしろい、と思う。几帳面な弟にずぼらな姉、ということだろうか。
弟の姿が見えないということは、きちんと学校に通っているのだろう。そりゃあそうだ。双子だからって仲良く不登校なんて気が合いすぎる。放課後にクラブ活動をしているならこの時間はまだ学校にいるはずだ。
そんなことを取りとめもなく考えていると、柚香が炭酸飲料のペットボトルとスナック菓子を載せたトレイを持って戻ってきた。
絨毯の上に置いたトレイを挟んで向かい合って座る。柚香はコップに炭酸飲料を注ぐと、クッションを胸に抱いて、顔の下半分を隠すようにしていた。頬が赤いのは急いで階段を昇ってきたせいかもしれない。黒曜石の濡れた瞳が紗亜良をじっと見つめていた。
「わたしのこと、聞いてる?」
柚香が小さな声でそう訊ねてきた。
「多少のことは澪に聞いたけど。わたしは中学からの外部入学だから」
「そうだよね。お話しするのも始めてだよね」
「うん」
「どうして洲緒美に来ようって思ったの?」
「推薦制度があるから。高校と大学の受験がすごく楽なんでしょ? エスカレータ式だって」
「うん」
「できれば幼稚舎から通いたかったな。そうすれば中学受験も楽だったろうに」
柚香はくすくすと笑った。そして思い出したように、
「そうだ、これ」
「なに?」
柚香は立ち上がり、机の上からミドリ先生の便箋を取ると、紗亜良に手渡した。そしてまたクッションを抱いて座る。反応をうかがうようにじっと紗亜良の目を見ている。一読した紗亜良は絶句した。
「これって・・・」
「昨日のプリントに混じっていたの」
『乃原柚香さんへ。彼女はあなたの新しいお友達です。』
ここで言う《彼女》は自分のこととしか紗亜良には思えなかった。澪は前からの友達なのだから、『新しい』とは言わないはずだ。でもなぜこんな手紙を先生は書いたのだろう。
「わたしにはちょっと違う言い方だったよ」
今日の職員室での話を伝えると、柚香は目をパチクリさせて、
「それってやっぱり先生の陰謀じゃないの?」
「うーん、わからない。でもおかしいよ。だって、昨日わたしがここに来たのって偶然なんだし」
わたしが澪といっしょに柚香の家に行くことをミドリ先生が知ったのは職員室にプリントを取りに行った時だろう、と紗亜良は思った。手紙を書いたのもその時しかありえなかった。でも、どうして?
「偶然だったの?」
「うん。もともと先生は伊吹さんに届けさせようとしたの。でも」
一瞬口ごもり、
「・・・都合が悪くて来られないから代わりに澪に、て。それでわたしはたまたま澪と約束があったからくっついて来ただけだったの」
「そう」
柚香はクッションをぎゅっと抱きしめた。顔が半分隠れているので表情はわからなかった。
「たぶん、ミドリ先生のもともとの思惑はあかりとわたしを会わせることだったんじゃないかな」
紗亜良は何も言えず黙っていた。
「あかりの都合が悪かった、というのはたぶん嘘でしょ。ここに来るのがいやだったんでしょう」
自分の想像と同じことを言う柚香に、紗亜良はなんとなく共感を覚えた。でも、ということは。
「伊吹さんとケンカでもしたの?」
「ケンカ? わたしとあかりが?」
きょとんとして聞き返す。そして、ああ、という表情で、
「あかりとは別になんでもないの。あかりが気にしてるのはユウの方」
「ユウ?」
「そう。ユウ・・・弟の柚司のことは知ってる?」
「双子の弟さんがいることは聞いたけど。詳しいことは知らない」
「澪から聞かなかった?」
「プライバシーだから、って教えてくれなかったの」
「そうなんだ? 別に話してくれてもよかったのに。ヘンなところで律儀なんだから、あの子」
そして、
「プライバシーというなら、これはユウのプライバシーに関ることなんだけど。まあいいか、姉の権限で教えてあげる。あのね、あかりはユウのこと好きだったみたいなの」
「あ、そういうこと?」
「そう。でもユウってオクテでね。ほんと、いざとなったら男の子なんてだらしなんだから。『柚姉、どうしよう』なんておろおろしてた」
そしてくすくす笑いながら、
「結局、態度をはっきりさせないままになっているの。まったく、あの子ったらほんとにしょうがないんだから。あかりはきっとスネているんだと思う」
「ふーん」
どうやら伊吹さんが拒否したのは弟くん絡みらしい。ということは柚香の不登校の理由ではない。ミドリ先生はそのあたりの事情を知らずに、家が近くて親しいという理由で伊吹さんに頼もうとしたのだろうか。
「魔女先生のさしがね、か」
柚香は黒曜石の瞳を輝かせて言った。
「なにか考えがあったのかな。あのひと、白魔術を操るって噂だから」
「まさか。魔法だなんて」
「風見さんはそういう神秘的な話は信じないの?」
「紗亜良って呼んで。信じないよ、そんなこと。わたし、現実主義者だもの」
柚香はくすっと笑いながら、
「紗亜良さん。わたしのことも柚香でいいよ」
「さーらさん、て言いにくいでしょ。ただの『さーら』でいいよ。柚香さん・・・柚香」
「うん」
顔を見合わせてふふふと笑い合う。紗亜良は、しかしこんなことを言った。
「でもちょっと悔しいかな」
「なにが?」
「魔女の手の上で踊らされてるみたいでさ」
「ふふ。いいんじゃない。むしろわたしはうれしいな」
「どうして?」
柚香は酔ったような目でこう言った。
「魔法にかかるって素敵なことじゃない? たとえそれが夢でも」
紗亜良は即座に首を振った。
「わたしがここに来たのは私の意志だよ。ミドリ先生の怪しげな魔法なんて関係ない。この気持ちはわたしのものだし、それは夢なんかじゃない。絶対に」
そしてこう続けた。
「ミドリ先生はただ、偶然を必然のように語っているだけだと思う。そういう意味では紛れもなく《魔女》なんだろうけど」
柚香は目元を歪ませた。苦笑したらしい。
「そう思うんだ。そうか、それが紗亜良なんだ」
「そうだよ。そして魔法を信じるのが柚香なんだね」
「うん!」
柚香は誇らしげに、
「見えない世界は確かにあるし、不思議なこともこの世にはあるの。双子の神秘って知ってる? わたしとユウはいつだってお互いに何を考えているのかわかったの。離れていてもそれは同じだった。魂の不滅、霊の存在。わたしはそういう世界を信じているし、そういう世界が好きなの」
紗亜良の中で、なにかがぼんやりとした形をとりつつあった。
柚香の不登校の原因の一つはこれではないか、と思ったのだ。現実からの逃避。そしてミドリ先生が自分と柚香が『いい友達』になると思った理由も。現実主義者のわたしが、幻想の世界に逃避しているこの子を連れ戻して来ることを期待しているのかも。
だとすると、伊吹さんを柚香に差し向けようとした訳もなんとなく理解できる。なにもかも知った上で、双子の弟に精神的に依存(中学生になっても同じ部屋で寝ているくらいに)している柚香に、弟離れをうながすためだったのかも。
魔女先生だって? とんでもない、あの先生こそ現実主義者だ。
紗亜良はそう思い到り、そして、
「ねえ柚香」
「なに」
「魔法の話は置いておいて、さ」
「うん?」
「これからも会いに来ていいかな」
「もちろん。とても楽しいもの。こんな話、他の誰とも出来ないの。みんな気味悪がっちゃって。わたしにきちんと反論してくれたのって紗亜良が初めてだよ」
「弟くんとはこういう話はしないの?」
「しないしない。する必要ないもの。わたしが考えていることはユウと同じだし、ユウが考えていることもわたしと同じなんだから」
いくら双子だって、そんなことあるのかな、と思ったけれど、紗亜良は黙っていた。その話題は柚香のアイディンティティに関る地雷のように感じたからだ。
ひとしきりおしゃべりをして、日が落ちかけて来た頃、紗亜良は柚香の家から辞することにした。柚香は上機嫌で、ぜひまた遊びに来て欲しい、という。
「そうだ、SNSの登録、いいかな」
帰り際にそういう紗亜良に、柚香は首を振った。
「持ってないの」
「え、」
「スマホもパソコンも持ってないから」
「そうなの?」
「うん。それに学校はケイタイ禁止のはずだよ?」
そう言って、紗亜良がカバンから取り出したスマートフォンに目をやる。合格祝いに買ってもらった最新機種だった。
「でもさ、不便じゃない?」
「わたしは外とか出ないから・・・」
「・・・」
それでも紗亜良は自分のTELナンバーとメールアドレスを教えた。柚香はなんのつもりか、ミドリ先生からの手紙の余白にその番号を書きとめていた。
紗亜良は再訪を約束して、玄関まで見送りに来てくれた柚香に別れを告げて家を出た。
ミドリ先生はきっと柚香が学校に出てくるようになることを期待して、自分にあんなことを言ったのだろう。
けれど、紗亜良は柚香に学校に来るよう言うつもりはなかった。
もちろん、同じ教室で授業を受けたり、休み時間に騒いだりするのは楽しいだろうし、そうあるべきなのだろう。
しかし紗亜良はこうして柚香と話せるなら、このままでもいいのではないか、と思っていた。本人が一番いいと思うようにすればいい。
そんなことを考えながら、柚香の家を背に歩き出した時だった。前から来たスポーツタイプの自転車が紗亜良の脇をすうーと通り過ぎた。
「えっ」
思わず振り返る。その自転車は柚香の家の前でキッ、とブレーキを鳴らして止まった。
乗っていたのは見たことのある制服を着た小柄な少年だった。洲緒美学園男子中等部の制服。だが紗亜良が驚いたのはその顔だった。
柚香と瓜二つだったのだ。一瞬、柚香が男装して現われたのかと思ったくらいだった。
もちろんそんなはずはない。第一、髪の長さが違う。男の子にしては長めだったけれど、背中まである柚香よりも短い。ということはつまり、
「ユウくん?」
思わず声に出してしまう。
少年は自転車から降りると、いぶかしげに紗亜良を見た。
「誰?」
声も良く似ていた。ただ、柚香よりもやや低い。
「ごめんなさい、違うの。そのう、」
だが少年は、ああ、という表情で、
「柚姉の友達なんだ? そうでしょ」
「う、うん」
「あんまり似ているからびっくりしたと」
「そう、そうなの」
少年はにっこり笑って、
「気にしないで。よくあることなんだ」
そうでしょうとも。こんなにそっくりなんだから。
「柚姉に会いに来てくれたんだ」
「うん」
少年は自転車を玄関の横に置くと、紗亜良の近くまでやってきた。
「ありがとう。これからも柚姉と仲良くしてくれないかな。ほら、今はあんなでしょ。だから」
「うん、クラスが一緒だし」
「ありがとう。じゃ、またね」
そういうと、少年は玄関まで走って戻った。インターホンのボタンを押すのが見える。
「柚姉? ぼくだよ、開けて」
紗亜良はその声を背に歩き出した。さっき別れの挨拶をしたばかりなのだ。まだ玄関前をうろうろしていたら体裁が悪い。
(あの子が弟のユウくんか。ほんと、そっくりだった)
(女の子みたいにきれいな顔だったな)
そして、こうも思うのだった。
(今度来た時にも・・・会えるかな。あの弟くんに)




