1.紗亜良の午後
ホームルームが終わると紗亜良はカバンを持って勢い良く立ち上がった。
肩まである髪がふわりと揺れる。校則では毛先が肩に掛かる場合は髪を結うかリボンで縛ることになっていたけれど、紗亜良はウェーブが掛かっていることを理由にそのままにしていた。
一学期の期末試験が終わった今日の放課後、紗亜良はクラスメートの澪とショッピング・モールに行く約束をしていたのだ。
二人とも帰宅部で放課後はなにかと一緒に行動することが多かった。澪もすでにカバンを手に席を立っていた。紗亜良と眼が合うと片えくぼを見せてニコッと笑う。生徒会で書記をしている真面目な生徒だった。
「ああ、伊吹さん、ちょっといいかしら」
教卓の向こうから担任のミドリ先生がひとりの生徒に声を掛けた。
「はい」
帰りかけていた少女たちの視線が一点に集まる。紗亜良と澪も思わずその子を見た。声を掛けられたのは長い髪を左右で分けて二房にゆるく結った子だった。
「伊吹さんは乃原さんとは小等部から一緒だったわよね」
「・・・はい」
微妙な間を置いて答える。
紗亜良は教室の前の方にある席を見た。その席には四月から誰も座っていない。都合があって長期欠席をしている生徒だと聞いていた。
ミドリ先生は続けた。
「なら、悪いけど頼まれてくれないかしら」
「何をですか」
「乃原さんにプリントを届けて欲しいの。ほら、彼女もうずいぶんと休んでいるから」
「・・・」
不可解な沈黙に生徒たちの注目が集まった。
「伊吹さん? もし都合が悪いなら」
「すみません、都合が悪いんです。失礼します」
そして乱暴にカバンを持って、つかつかと教室を出ていってしまう。あんまりな反応に皆が呆気に取られているなか、いち早く立ち直ったミドリ先生は教室の中をぐるりと見回した。
担任の北原美登里先生はロンドン留学の経験のある英語の教師だった。美人で優しくて、いつもきっちりとしたスーツを着ている。きれいなキングス・イングリッシュで分かりやすい授業をするので生徒たちに人気があった。
その目が一人の生徒の上で止まる。
「清水さん」
「はい」
澪はちょっと首を傾げて答えた。紗亜良はちらりとミドリ先生を見て、内心舌打ちした。
(澪に押し付けるつもりなの?)
約束したのはこちらが先なんだからね、と紗亜良は思う。もちろんわがままな考えだということは分っていた。けれど、分っているのと納得するのは別のことだ。
「清水さんは乃原さんとは小等部から一緒だったわよね」
「はい、柚香・・・乃原さんとはずっと同じクラスでした」
「親しかったのでしょう?」
「はい。まあ普通に」
「お家にも行ったことあるわよね? 二人とも徒歩通学だし」
「はい。何度かはあります」
ミドリ先生は満足げな笑みを浮かべて、
「なら、悪いけど頼まれてくれないかしら。プリントを持って行ってほしいの」
そんなやり取りを紗亜良はすこしイライラしながら聞いていた。
(そんなのメールすれば済む話じゃないの。澪も断ればいいのに)
けれど、澪は即答した。
「はい、今日の帰りに寄っていくことにします」
「助かるわ、ありがとう。本来ならわたしが家庭訪問を兼ねて行くべきなんだけど」
歯切れ悪く黙る。紗亜良は不審そうに先生と澪を見比べた。澪は何も疑問に思っていないらしい。静かにうなずいた。
「五分くらいしたら職員室に取りに来て。用意しておくから」
「はい」
「引き止めてごめんなさい」
「いいえ」
ミドリ先生が行ってしまうと、クラスメートたちは何事もなかったかのように帰り仕度を再開した。
紗亜良は澪の元に走り寄った。
「ねえ、今のって」
そう聞きかけて言いよどむ。わたしと約束があるのにどうして引き受けたの、とはさすがに聞けない。
「たいしたことじゃないよ。柚香にプリントを届けるだけ」
「そうなんだ。あの、じゃあ今日は」
「今日? 何?」
「ほら、一緒にモールへ行こうって」
「ああ、そのこと。だったら心配ないって」
澪は穏やかにわらって言った。
「柚香の家は通り道だもの。途中でプリントを届ければいいの」
そう聞いて紗亜良はほっとして、
「そうなんだ」
と答えた。
(柚香・・・ってどんな子だっけ)
クラスのほとんどの生徒は小等部からの持ち上がりだったが、紗亜良は外部受験でこの洲緒美学園の女子中等部に入学していた。だから六月になった今でもクラスメートの半数の顔と名前が一致していなかったのだ。
職員室への道すがら隣を歩く澪にそれとなく聞いてみる。
「柚香のこと? ああ、入学式には出席していたけど、四月の半ばにはもう休んでいたっけ。そうか、じゃあ紗亜良はよく知らないワケだ」
「うん。ねえ、どうしてその子、長期欠席なの? 病気?」
「ええとね」
澪はいったん言葉を切って、すこし考えるそぶりをした。
「つまりはアレよ、アレ。不登校」
「ひきこもり?」
「まあそんなカンジ」
紗亜良は声をひそめて、
「いじめ?」
と訊いた。澪はちらっと困ったような笑みを浮かべた。
「そういうのじゃないの。原因は学校ではなくて、」
「学校じゃなくて?」
二人は職員室の前まで来ていた。澪は紗亜良の問いを無視する形で、職員室のドアをノックした。
「失礼しまーす」
声を張り上げてドアを開く。部屋の中ほどにミドリ先生の姿が見えた。
「清水さん、入ってらっしゃい」
生徒は教師の許可がなければ職員室へは入れない。名前を呼ばれなかった紗亜良は大人しく廊下で待つしかなかった。
待っていて、と言い置いて澪は職員室に入った。ドアが閉まる寸前、ミドリ先生は紗亜良に気づいた。あら、という表情をする。
しばらくして職員室から出てきた澪は、「お待たせ」と明るく笑うと紗亜良の腕を取って昇降口へと向かった。プリントは手に持っていない。カバンの中に入れてあるのだろう、と紗亜良は思った。
校門を出ると二人は並んで歩いた。柚香の家までは十五分ほどだと言う。
紗亜良は気になっていたことを聞いてみた。
「澪は乃原さんと親しかったの?」
「うん。低学年の頃からね。ほら、同じ徒歩通学組だし」
洲緒美学園は幼稚舎から大学までの一貫教育が売り物の私立の学校だった。徒歩や自転車よりも、遠距離からバスや電車で通学する生徒の方が多かったのだ。紗亜良も電車で二駅離れた街に住んでいた。
「・・・伊吹さんも親しかったの?」
さきほど先生のお願いを断った生徒のことを聞いてみる。
「うん、そう。家も近かったはず」
「そうなんだ。でも、どうしてあの子は断ったのかな」
伊吹さんは確かに「都合が悪い」と言っていたけれど、紗亜良の直感はそれが嘘だと告げていた。
「都合が悪かったのでしょ」
「ほんとかな、それ」
「さぁ? 単に面倒くさかったからかも、ね」
そういったきり澪はしばらく口を閉じた。心当たりがないのか、あっても言いたくないのか。
そう思って紗亜良はすこしおもしろくなかった。外部受験組の彼女は、なかなかクラスメートの輪に溶け込めずにいたのだ。そんな中で澪は初めて出来た友達だった。彼女にだけは煮え切らない態度はとって欲しくなかった。
「あかりは、たぶん柚香とは一番親しかった、と思う」
澪はぽつりとつぶやいた。
「あかりさん?」
「伊吹あかりよ、あの子の名前」
「ああ。なら、でもどうして」
「うん……」
ふたたび黙ってしまった澪に紗亜良は声を掛けられなかった。自分はまだこの話題に踏み込んではいけない。そう直感したのだ。
しばらくは話が途切れた。最初に折れたのは紗亜良だった。こんなことで意地をはってもつまらないし、ましてや澪とケンカなどしたくなかった。
「ねぇ、乃原さんってどんな子なの」
つとめて無邪気に聞いてみる。澪はふっと息をついてから答えた。
「ちょっと変わった子、かな」
「どんな風に?」
「ええと。前世とか信じちゃうタイプ」
「ああ。占いとかそういうの?」
「そうそう。タロットとか幽霊とかの話を良くしていたし。確かお祖父さんがイギリス人だって言ってたかな。だからそういうことに興味を持ったんだって。イギリスってホラ、そういうの、ええと、超自然現象の研究とかが盛んだそうだから」
「ふーん」
この新たな情報は紗亜良の想像力を刺激した。
「じゃあさ、乃原さんって金髪で青い目なのかな」
そんなことを言ってみる。もしそうなら紗亜良の記憶にも残っているはずだから、そうではないだろう、ということは分かっていた。
「ううん、見た目はぜんぜん普通の日本人。髪も目も黒いし。きれいな子ではあったけど。ちょっと人見知りするタイプ」
「ふうん」
気のない返事をしながら、けれど紗亜良は見知らぬクラスメートに興味を持ち始めていた。
生い立ちもどこか特別な美少女が部屋に閉じこもって、ひとりタロットを手にしている様子を想像してみる。明かりはロウソクだけで、先の尖ったつば広の帽子をかぶっている。ケープと魔法の杖も必要かな。それで怪しげな呪文を唱えたりするんだ。
(なんだか気になるな。どんな子なんだろう)
さっきまで澪との予定に水を差されて不機嫌だったことなど忘れて、紗亜良は胸が高鳴るのを感じていた。
その家は平凡な一戸建てだった。なんとなく怪しげな古い洋館を想像していた紗亜良はいくぶんがっかりして、
「ここなの?」
と澪に聞いた。
「うん」
表札にはたしかに「乃原」とあった。
澪がインターホンのボタンを押す。中からは確かに涼やかなチャイムの音が聞えたが、誰も出て来ない。
「留守なのかも」
紗亜良の言葉に、澪は首を横に振った。
「さっき先生が電話した時には家にいたって。ご両親は仕事でいないから今は一人のはず」
「電話には出れるんだ?」
「うん。ひきこもりというより、不登校なだけみたいだし」
そんなことを話している二人の目の前で、ドアが開いた。半ばまで開いたドアの陰に飾り気のないトレーナーを着た小柄な少女がいた。
黒い髪を背中まで伸ばしている。卵形の顔は整っていたけれど、青白くてどこか不健康そうだった。なによりも目が特徴的だった。大きな目はまるで黒曜石で、さっきまで泣いていたかのように潤んでいた。いや、本当に泣いていたのかもしれない。
「こんにちは柚香」
澪は明るい声で話しかけた。
「澪。久しぶり」
柚香は小さな声で挨拶すると、紗亜良をこわごわ見た。
「だれ?」
「同じクラスの風見紗亜良さん」
紗亜良はじっと柚香を見た。
「はじめまして、だよね?」
紗亜良に話しかけられて、柚香は半分だけドアの影に身を隠した。片目だけで紗亜良を見つめる。
「は、はじめまして」
(まるで人見知りの仔猫みたい)
紗亜良は思わず頭を撫でたくなる衝動にかられた。
「はい、これが先生に頼まれたプリント」
澪はカバンから一束の紙を出して柚香に渡した。
「ありがと」
つぶやくように答える。
「どういたしまして」
澪はさも当たり前のようにわらって見せた。
「じゃあまたね」
と、あっさりと別れの言葉を発した澪に紗亜良は少しおどろいた。
(え、それだけ? もっと近況とか、はげましとかないの?)
けれど柚香も当然のようにそれに応じた。
「うん。また」
そうか、きっとこれが今の彼女の精いっぱいなんだ、と紗亜良は察した。幼馴染の澪はそれがわかっていたから、彼女の負担にならないように最小限の会話にしたんだ、と。
紗亜良も「またね」と声をかける。柚香は恥ずかしそうに目を伏せた。
家に上がるよう誘われるかな、と密かに期待していた紗亜良は物足りない気持ちで目の前でドアが閉じるのを見ていた。
「行こうよ」
澪にうながされて乃原の家を後にする。紗亜良は何度となく振り返った。もしかしたら窓のカーテンの陰からこちらを見てくれるのではないか、と思ったのだ。
「なあに、気になるの?」
澪にからかわれて、紗亜良は口元だけでわらって見せた。
「なんとなく、ね」
「一目惚れ?」
「違う、と思う。ただ」
「ただ?」
「なんだろう、かまいたいの、なんとなく」
「へぇ?」
「ちちちっ、とか舌を鳴らして、出て来たところをつかまえて頭を撫でやりたい、というか、目の前でお菓子をちらつかせて、あげないで自分で食べちゃったりとか」
「猫あつかいなの? しかもいじめる気でいるし」
「ほんとにはしないよ」
紗亜良は否定したが、澪は「紗亜良はドSなんだからやりかねない」などと言う。
「でも」
と澪は奇妙な笑みを浮かべて言った。
「気に入ったみたいだね、柚香のこと」
「そうなのかな。よくわからない」
「ふーん。さすがミドリ先生」
とつぶやく。
「ミドリ先生が何?」
聞きとがめる紗亜良に澪は、
「変化をもたらすものは外から来る、て」
「なに? 何の話?」
「あたらしい風、とも言っていたっけ」
「? わかるように言ってよ」
澪は妙に確信のある口調で、
「あなたたち、きっといい友達になる。そう言っていたの。わたしもそう思うし」
「ねえ、さっきから何の話? 言っていたって誰が」
「魔女先生の……ミドリ先生の予言」
紗亜良はギョッとして立ち止まった。
「魔女、って何それ。それに予言て」
「ミドリ先生の別名。知らなかった?」
「はじめて聞いた……」
「そう? 洲緒美ではちょっとした有名人なんだよ、あの先生。いろんな意味でだけど」
紗亜良の妄想のなかでは、今度はミドリ先生が黒い帽子とケープを身につけ、ほうきにまたがって空を飛んでいた。
「別に魔術を使うわけじゃないの。ただ、なんというか、ミドリ先生の言うことってよくあたるの。嘘とかついてもすぐ見破るし。水晶玉で占っている、という人もいるけど、わたしは単に頭がよくて推理力があるからだと思ってるんだけど」
「そう、なんだ」
「うん。ロンドン帰りなのは知ってるでしょ? かの地で魔法学校に通っていた、というのがもっぱらの噂なの」
紗亜良は呆気にとられて澪の話を聞いていた。いままでごく普通の先生と生徒のいる、平凡なクラスだと思っていたのに。柚香のことと言い、こんなにも自分の知らない面があったのだ、ということがショックでもあり、また不思議な高揚感があった。
そんな紗亜良の内心の盛り上がりに気づかないのか、澪は明るくこう告げた。
「さ、これで先生に頼まれた公務はおしまい。モールを案内してあげる。かわいいショップとかいろいろあるよ」
「うん。ありがと」
けれど紗亜良の心の大部分は、ついさっき会った柚香とミドリ先生のことで占められていた。
柚香はクラスメート二人が帰ってしまうと二階の自分の部屋にもどった。カーテンの陰からそっと玄関の方を覗いて見る。初めて会った紗亜良という子が何度も振り返りながら歩いて行くのが見えた。
(紗亜良だって。日本人向きの名前じゃないのに。へんなの)
(サーラ、SARAかな。それともSARAH? たしか元々はヘブライ語だったはず)
本棚から欧米人名語録を取り出しSの頁を開く。
(あった。サアラ、サラまたはセーラ。意味は……王女、お姫様)
柚香はくすっと笑みを漏らした。
(王女だって! 似合わない、似合わないよ。だってなんだか普通の子だったもの)
堪えきれずくすくすと笑う。
(あ、でもなんとなくわがままそうだったかな。だとしたらお姫様で合ってるかも。おとぎ話で主人公に意地悪するタイプのお姫様)
その想像がおかしくて、柚香はベッドに倒れこんで声を上げて笑った。一度笑いはじめるともう止まらない。わき腹が痛くなって体をくの字に曲げて笑い続ける。ひとしきり笑うと、柚香は涙を拭きながらベッドから起き上がった。こんなに笑ったのは久しぶりだった。
気を取り直して澪が持ってきてくれたプリントに目を通してみる。学校行事の連絡事項とか、そんな内容がほとんどだった。だがよく見ると、その中に手描きの便箋が混じっていることに気づいた。
そこに記されている文字を見て、柚香はすこし驚いた。それはミドリ先生からの私信だった。
(どうしてこんなことを。いいえ、さすがは魔女先生、ということなのかな)
柚香は便箋を他のプリントから分けて、もう一度読み直した。そこにはこう書かれていた。
『乃原柚香さんへ。彼女はあなたの新しいお友達です。』




