無性別の吸血鬼が人間の女に惚れたので、夜な夜な逢瀬を交わしていた話
「どうぞ」
差しだされた肩は純白の真珠の粒のようだった。月光が溶けて羽にさえ見えた。
私はその肌理のある玉肌を撫ぜる。わずかにかかった肩紐を指先でよけてから、そっと顔を寄せる。
口の中に謝罪と祈りの言葉を含んでから、私はその芸術品に歯を立てる。
「……もう終わったの?」
「ああ。ありがとう」
「もっと飲んでいいのよ」
「……あなたが、そう言うのなら。遠慮なく」
私はこうして彼女の言葉に従い、彼女の血を吸う。しかしこの行為にはほとんど意味がない。
そして彼女は、それを知らない。
私は吸血鬼だ。恐らく人の想像するものとはおよそ異なる存在で、どちらかというと純粋な怪異に近かった。昔人々が抱いた恐怖の体現者、名も無き畏怖の対象、それが私だ。
今ではその言葉から想起されるイメージが膨らみ過ぎていて、吸血鬼自身も、己のことがよく分かっていない。
しかし何にせよ、元が怪異という現象であることから、餓死というものと私は縁がない。
つまり、伝承のものとは異なり、生きるために毎日血を吸う必要はない――そのことを、彼女には伝えていない。
生きるためには血がいると嘘を吐いて、私は夜な夜な、独りでいる彼女のもとを訪れる。
私は彼女の傍にいたかった。
元来、私に性別はない。顔こそ若い女性の容貌をして見せているが、実際のところ無性別だ。そも幻想の中の生物であるため無生殖でもある。
吸血という嘘以外、私はできるだけ素直に、彼女へ物事を伝えていた。それが私の誠意で、私はそれ以外の方法を知らなかった。
彼女は私の体を、「不思議、」と称した。
「あなたはこんなにも綺麗なのに、服の下は――胸は平たくって、体はまるで人形みたい」
「そう? しょせんこの見てくれは作りモノだからね。女顔の男と思ってくれても構わない」
「……そう見えなくもないけれど。やっぱり異なるのね」
上背のある女人、いややはり女のような男では? と、町中で囁かれたのを思い出す。
人間はきっと、自分達が思っているよりも勘がいい。
私がそのようなことを伝えると、彼女は微笑む。眉尻を下げて、どこか困ったような顔になる。
「それはあなたが美しく、人々が注意を払うからよ」
なるほど、と私は納得する。
『異性の目を惹く』外見を重視するのは、子孫を残すために相手が必要である人間にとって、正しいに違いないからだ。
美貌は生きていく上で大いに人目を惹き、役立つだろう。
そして目立つということは、面倒事も否応無しに引き寄せる。
例えば、私の目の前にいる、彼女のように。
「……ね、そういえば、そもそもなぜ女性の顔貌をしているの? ええと、あなたは、女性である必要性も無いはずよね」
「何故って。あなたが世界で一番好ましい人間だからだよ」
私がそう伝えると、彼女は「まあ」と呟く。頬を染めて目を輝かせて、されど遠慮がちにはにかむ。
「ありがとう。嬉しいわ」
彼女はその、月の女神のごとき美貌を見初められ、この東方の国の大王のもとへ嫁いできた女だ。いくらでもいる側室の一人として、彼女はこの上品かつ狭苦しい部屋に収められたのだった。二国間の友好の証として贈られた、いわば貢物に近い。
彼女のいた西の国では後宮なんてものはなく――公然の秘密として愛人というものはあるらしいが――それは野蛮人の価値観で行われる、恥ずべき行為だと考えられている。
そしてそんな世界に送られた彼女に、もはや実家からの援助などあるはずがないのだった。
彼女は美しいけれど、あまり寵愛を受けられなかった。この国の音楽を知らず、流行りを知らず、そもそも最初は、この国の言葉すらろくに話せなかった。
この巨大な後宮には、彼女と同程度、あるいはそれ以上に見目麗しい女性もいた。多くの国々から寄越された選りすぐりの美女なのだから当然である。
彼女はたくさんの女の中に埋もれていって、衣食住にこそ不自由はないが、まるで天上人とは思えないような静かな暮らしをしている。
つまり彼女にとってその美しさは、厄介な、面倒事ばかりをもたらすものに違いなかった。
「そう思ったこともあったわ」
そうぽつりともらす彼女の瞳は、憂えるように窓の遠く、紺碧の夜空へと向けられている。柔らかな月光が、夜衣を着た彼女を静謐に縁取る。額縁の中の秩序立った絵画のように、その立姿は端正だった。
――やはり、嫌なものなのだろうか。
呟く私に、しかし彼女は目をそっと閉じて否定した。
「いいえ、それでいいの。私は、あなたを見つけた」
断言し、彼女は湖面のように静かな双眸で私を見つめる。
私はまるで惹き込まれるような、いや、それに飲まれるような心地で彼女の前に在った。刹那の出来事だったが、永遠にさえ感じた。
しかしそんなことあるはずもなく、彼女はやがていつものように相好を崩し、悪戯っぽく微笑んだ。
「――それに今の状況なら、あなたと会ったところで周りには全然怪しまれないものね」
「確かに。いくらでも女がいるお陰で、私は堂々と歩くことができる」
そうして、二人顔を合わせて笑い合う。こうした瞬間を、人は幸せと呼ぶのだろう。
「オイリオス」
同種の吸血鬼が私を呼ぶ。
オイリオス、とは私のことだ。私を呼ぶためのものだが、人の想像する氏名とはまた異なるだろう。これは個体名というより、私という『自我』を指している。
「久しぶりだな。私に何か用か?」
「いや、ずいぶんと『魂』が薄れていると思ってな」
私達は人のイメージからこの存在を得ている。
幻想を根源にし、夜を媒体に存在を得ている。
「お前、分かっているのだろう。人を脅かさない吸血鬼は吸血鬼ではない。我らを造り上げる存在意義を破れば、いずれそのまま『魂』が崩れ落ちるぞ。我々は『自我』だけでは生きていけないのだから」
「分かっている」
人間に手をかけ、悍ましくも生き血を啜る。爆発的に広まる病を運ぶ。闇夜に紛れ、人を攫う。結果、人を帰属するコミュニティから逸脱させる――。
我々はあらゆる異常の象徴だ。外から厄介事をもたらす。
「今日は――」
彼はぐるりと首を巡らせる。一軒の、平たい家屋に目を留める。
「――あそこの家だな。あの家の戸を叩こう」
私達吸血鬼は、誘われた者だけが、その家の敷居を跨ぐごとができる。
「そうか。では」
私は適当に相槌を打ち、その場を離れた。それ以上その光景を見たくなかった。
親切な者ほど、明らかにおかしな夜の訪問者――私達を気遣い、戸を開く。
そして下心のある悪人より、親切心だけの善人の方がこの世の中には圧倒的に多い。
それを理解してから、私はどうしても私達の行いを好きになれなかった。
こういう気の滅入る夜、私は美しい彼女を想う。
私は彼女に誘われた。だからああして好きに出入りができる。
それは私にとって、とても幸福なことだった。優しく可憐な彼女は私の救いだからだ。しかしそれは同時に、私という化け物が、彼女という人間の優しさにつけ込んでいるということでもある。それを考えると、私はいつも少し悲しくなる。
そして私がわずかにでも落ち込むと、彼女はすぐにそれに気づく。
「ね。こちらに座って。お話ししましょう?」
柔らかな声でそう囁いて、私の手を取り、導いてくれる。
初めて会ったときもこうだった。夜になり、後宮の戸口が閉められ、その中庭に閉じ込められてしまった間抜けな私の手を、優しく引いてくれたときと同じ。
彼女は気遣いの人だった。私の想像する姫君の性質とは大きく異なっているが、そんな彼女だからこそ、私は好ましく思うのだろう。
「何かあったように見えるわ。よければ話をきかせて?」
「いや、大丈夫。自分について考え事をしていただけだよ」
「……ごめんなさい。私てっきり、あなたがなにか落ち込んでいるのかと思って……」
「大丈夫。私はただ私と、あなたについて考えていただけだ。あなたの人徳がどれほど優れているか、あなたと知り合えたことがどれほど幸運なことか……」
「買いかぶりすぎよ」
そう言って、彼女は憂いを帯びた溜息をついた。いつもみたいに微笑まれるかと思っていた私は、驚いて彼女の顔をまじまじと見た。伏せられた美しい大きな目が、不安がちに揺れていた。
「そう言うあなたこそ、どうかしたのか?」
「……ごめんなさい。私、あなたに、もう会えなくなるの」
「え?」
絶望が鎌の形をしていたら、その瞬間私の首は切り落とされていただろう。
私はぽかんとして、何も信じられなくなって、もう一度口を開いた。
「え?」
「落ち込んでいたのは、私の方ね。ごめんなさい」
「な、なぜ? どうして?」
私が理由を尋ねても、彼女はなかなか理由を話そうとしなかった。
優しい彼女が、口にできないようなこと。
つまり、
「……私が何か、あなたに、過ちを犯しましたか?」
彼女は優しいから、本人にそれを伝えられないのだろうと思った。私にはもうそれしか考えられなかったのだが、彼女はすぐさま、
「そんなわけない!」
と否定してくれた。
「あなたはいつでも、私にとって、人生で唯一の輝きよ。私にとって、あなたと出会えたことは、今まで生きてきた中で最も喜ばしいことよ。本当よ。本当なのよ」
お願い、信じて、と彼女は珍しく焦ったように私に訴えかけてくる。私が彼女を信じないはずがないので、彼女の抱いているだろう不安は杞憂なわけだが。
「では、どうして?」
そして疑問はまたここに戻る。
彼女はしばらく躊躇っていたが、やがて諦めたように口を開いた。
「私の祖国が、この国と、ええと、喧嘩をするの」
「喧嘩とは、怒鳴り合ったり、殴り合ったりすることだったか」
「そう。国と国同士のものは、個人の喧嘩とは比べ物にならないの。たくさんの人と人とを戦わせて、優劣を決める――人はそれを、戦争と呼ぶけど」
「せんそう……」
聞いたことのあるような、ないような単語だった。身近な言葉ではないのは確かだった。
「つまり、私は、敵の国から来た女になってしまった。……それだけ」
「でも、国同士の戦争なんて、あなた個人には関係のない話のはずだ」
「そうはいかないのが政治ってやつみたい。……ふふ。捨てられたみたいに嫁いできたのに、私を捨てた国のせいで不利益を被るなんて、馬鹿みたいでしょう。でもね、私、この国にだって味方なんていないのよ? そんなくだらない奴らの戦争に巻き込まれて使い捨てられるなんて、ほんと、馬鹿みたい……」
彼女は皮肉っぽく笑おうとしたみたいだが、うまくいかず、泣き笑いのような顔になって、俯いてしまった。
「……そのうち、私、ここからいなくなると思う。だから、あなたに会えなくなってしまうという、それだけの話よ」
「私はあなたを好ましく思っているから、会えなくなるのは嫌だ。それは寂しくて、悲しくて、辛いことだよ」
「あなたを巻き込みたくないの」
今まで、私が彼女のことを「好ましい」と伝えれば、彼女は「ありがとう」、「嬉しい」、とはにかんでいた。今、彼女は、冷ややかなほど真っ直ぐな目で私を見つめている。
私は今までの喜びさえ維持できていれば、それでよかった。それだけでよかった。このままでよかった。それ以上は望まなかった。なのに、それすらも奪われなくてはならないのか?
私が呆然としていると、彼女は「帰って」と言った。
「今日はもう帰って。私も、考えたいことがあるから」
そう言って、背を向ける。そんなことされたのは初めてで、私はなんと言ったらいいか分からなくなってしまった。
しばらくの間のあと、口からこぼれ落ちたのは、いつもの言葉だった。
「あなたが、そう言うのなら。それがきっと、一番いいことなのだろうね」
帰ると言ったって、幻想の存在である私には帰る場所なんてない。唯一、彼女のそばだけが私の居場所だ。それ以外の時間は、私にとってなんの価値もない、その他でしかない。だから、その唯一がなくなるということは、私という『自我』が消え失せるに等しいことだ。
そうなれば私はきっと、同種の吸血鬼と同じように、人々の恐怖の根源として振る舞うだろう。そうするとやがて、崩れかけている私の『魂』は復活するだろう。私はきっと、より強力に、より長く生き延びることができる。
でも、それでは駄目なのだ。私は彼女という輝きを得てしまった。だから彼女が、彼女という存在がいてくれなければ、私は、生きながら死んでいるのも同然だ。
ただ惰性で生き延びるだけのくだらない『自我』に、なんの価値がある?
「どうすればいい……」
私はどうしたらいいんだ。私はどうしたらいい? こういう時にすべきことが、人間でない私には分からない。
私は人間ではない。願うことを知らず祈ることもない。私を救ってくれるものも、この世には存在しない。
私は――
「私は、吸血鬼だ」
ある朝のことだった。石畳で隙間なく整備された、美しい正円の広場に、処刑台が設置されていた。
ぐるりと観客が取り囲むそこに、女が一人立たされている。質素なドレスに身を包み、人々の野次に押しつぶされるように俯いている。
彼女はかつて、西の国から後宮に嫁がされてきた。殺される理由はただ、敵国から来たため。それだけである。
毒殺でも暗殺でもなく処刑が選択されたのは、せっかくなので戦時中の民衆の鬱憤晴らしに、という、なんともくだらない話だった。
『人質にもならない小娘なんて、いらないよね』
使用人たちの噂話のなか、彼女に聞き取れたのは、それだけだった。捨てられ、向かった先でも受け入れられなかった人間の末路だった。
つまり彼女は今から、なんの罪科もなく処刑される――野蛮そのものの所業であるが、娯楽を楽しみにしているだけの民衆はそんなことは欠片も気にしていない。与えられた餌に喜ぶ家畜のように、処刑台に目を輝かせている。
偽りの罪状を読み上げる男の横で、斧を構えた男が、仮初の罪人に囁く。彼女の故郷の言葉だった。
「でっちあげの罪状しかない者を殺すのは私も忍びないのですが、私の言葉なぞ聞き入れてもらえませんでした。申し訳ない」
彼女は何も言わず、ただ頭を振った。それから命じられるまま膝をつき、顎を台に乗せる。
祈りの言葉の朗読のなか、処刑人は斧に聖水をかけ、そして、祈りの言葉がやんだ。聖職者がその場を離れたあと、処刑人が斧を振りかぶろうとする――
「待った!!!」
やっと聖職者が下がったので、私はその場に飛び込むことができた。
こんなギリギリまで居座るとは思ってもみなかった。迷惑極まりない。
「何者だ!?」
「私は吸血鬼だ!! そこにいる、世界一麗しく聡明な美女を攫いに来た!」
「吸血鬼!?」
「こんにちは!」
私は少しでも印象をよくするために大きな声で挨拶をした。印象をよくすれば、快く誘拐させてもらえるのではないかと思ったためだった。
後宮ではこんな挨拶でよかったのだが、この場ではそれは相応しくないらしい。私は身をもってそれを理解した。武器を持った処刑人に、いきなり攻撃されたためだ。
私は渋々反撃した。砕かぬ程度に顎を打ち、相手を気絶させた。
周りではひたすらに悲鳴と罵声が飛び交っている。下品な空間だった。彼女にはとてもじゃないが相応しくなかった。
「おい、早く応援を呼べ!」
これ以上面倒が増えないうちに、私は敵を捌きながら、彼女に近寄ろうとした。しかし、なかなか近寄れない――と思っていたところ、一人の男が、私に向かって彼女を突き飛ばした。
驚きながら、私は慌てて彼女を抱きとめる。
「何をしている!?」
「どうせ処刑するんだ、まとめて殺してしまえばいい」
彼女の肌を赤く締め付ける縄をほどき、私は語りかけた。
「あなたを、攫いにきた」
吸血鬼とは、あらゆる異常の象徴だ。外から厄介事をもたらす。人間に手をかけ、悍ましくも生き血を啜る。爆発的に広まる病を運ぶ。異性を誘惑する。闇夜に紛れる人攫いでもある。つまり、人を帰属するコミュニティから逸脱させる者――。
私が攫ってしまえば、彼女はきっと、二度と今のような地位には戻れないだろう。そして、いつ消えるかも分からない私と共に生きることになる。
「その、あなたが嫌でなければ、今から私に攫われてくれるとありがたいのだが、」
「攫って」
そう言いながら、彼女は私の首に腕を回し、その身を寄せてきた。
彼女の間髪入れない回答に、申し出ておきながら私は少々戸惑ってしまった。
「いいの? 私なんかに捕まってしまって」
「あなたは何を言うの?」
彼女はうっそりと微笑んだ。昏い瞳の奥底で、炭のような鈍い光が私を捉える。
「捕まえたのは私よ」
「え?」
「奴らを殺せ!!」
無粋な怒鳴り声が響いて、私はそれ以上聞いている余裕はなかった。ただ彼女を抱き上げ、その場から跳び上がって逃げるので精一杯だった。
遠く離れた路地裏で、私は一度彼女を下ろした。あまり一度に移動するのは、人間には負担だろうと思ったためだ。
「ここまでくれば大丈夫だと思うけど。大丈夫?」
「え、ええ。その、少し、気が抜けてしまったみたい」
足元をふらつかせる彼女を抱きとめた。彼女は優しくそう言ってくれるが、跳んで走っての長距離移動が辛かったのだろう。私は反省した。
「私の配慮が足りなかったね」
「ううん、いいの。それよりも、助けてくれてありがとう。本当に、とても、嬉しかった」
美しい、私の大好きな微笑が浮かぶ。
「この国に来てはじめて、独りじゃなかったって理解できた」
私は咄嗟に、私はその言葉のために生きてきたのかもしれないと思った。今ここでその言葉をかけてもらうために、私は今まで生きてきたのかもしれない。
もちろん、ただの幻想だが。しかし、私なんかとは違う、美しい幻想だ。
「本当に、私なんかに捕まってよかったのか?」
恐る恐る尋ねると、なぜか彼女が首を傾げた。
「あなたは後悔しているの?」
「まさか。あなたは私の生きる意味、生きる歓びだから。だが、私はその、あなたに何も与えられない吸血鬼で――」
「何度でも言うわ。あなたが私を捕まえたのではない。私が、あなたを捕まえたのよ」
そう言って、彼女は微笑む。
いつぞやのことを思い出す。
――『いいえ、それでいいの。私はあなたを見つけた』
そうか。
「つまり、あなたは私のことを慕っているということか」
「まあ」
彼女の頬、額、耳の先が赤く染まった。薄く色づいて、まるで花びらのようだった。
「間違っている?」
「いいえ、いいえ。あっているわ。私はあなたを慕っています。いつかこうなるといいと、ずっと思っていたから」
「それはよかった」
私は安心した。彼女に不快な思いをさせているわけではないと分かったためだ。
「よかった? どうして?」
「あなたの望みが叶ったのなら、それ以上のことはない」
「……あなたって人は」
「私は人じゃない。吸血鬼だ」
「分かってます!」
それから私は彼女に、私が長生きしないだろうことを伝えた。あまりにも吸血鬼らしくないために、『魂』が崩れかけているということを。
彼女は首をかしげた。
「吸血鬼らしくない? 毎晩、私の血を舐めていたのに?」
「脅かさないものは、本質ではないから。あなたはそれを受け入れてくれていたし……」
私は彼女の顔を見ていられず、視線を落とした。
「私が生きていくうえで、それは必須ではなかった。ということになる。その……」
「そんなこと、知っていました」
「えっ」
思わず顔を上げる。彼女は動揺なく、平然としている。私は思わず、なぜ、と呟いた。
彼女は泰然として微笑む。
「だってそれを受け入れれば、あなたが私に会いに来る理由になるでしょう?」
彼女は本当に、私の全てを受け入れてくれていたのだ。
私の嘘も。臆病な性根も。卑怯な振る舞いも。
「……私は、」
「ええ」
「あなたに全てを打ち明けて、理由なんて付けず、会いに行くべきだったんだね」
「これからそうしてくれるのだから、いいのよ」
彼女は私を受け入れて、私との未来も見据えてくれている。なぜなら、彼女は私を愛しているからだ。
そのとき私は本当の意味で、私が彼女を愛していることを理解した。それは体が震えるような歓びで、そして、悲しみでもあった。
そして彼女はいつでも私のそのような心の動きに気づいてくれる。
「どうしたの?」
「その、先程も説明したとおり、吸血鬼から逸脱したせいで、もう私の『魂』が崩れかけているから……」
だから長くは一緒にいられないかもしれないことを伝えると、彼女は笑った。
「それならきっと大丈夫よ」
「どうして?」
「処刑されかけていた女を攫った吸血鬼なんて、きっと伝説になるわ。あなたが吸血鬼のイメージそのものになるの。そんな日は、きっと遠くないはずよ」
私が彼女の聡明さに感動していると、彼女は輝くような笑顔を見せた。
まるで、空気の澄んだ夜空に大きく輝く、眩い満月のようだった。
「きっと大丈夫よ。私達ならきっと、なんとかなるわ」
「……あなたが、そう言うのなら、それはきっと、事実なんだろうね」
私もつられて笑みを零す。すると彼女の頬がさっと赤くなったので、彼女は月から太陽へと近づいたのだった。
読了ありがとうございました。
「私」:吸血鬼。無性別。
行動原理は単純で、彼女が喜んでくれたら嬉しい、悲しんでたらなんとかしてあげたいし、ただ彼女の傍にいたいと思っている。
彼女の名前は発音できないため、失礼に当たらないよう呼ばないようにしている。
「彼女」:西の国からきた、お肌きれいきれい美女。
人でなく価値観も異なる相手に恋をし、その相手を恋に落とした剛の者。
月と強い因果を持ち、夜の眷属との相性が良い。
オイリオスという『自我』の名は知っているが、人の持つ名前とは異なると説明されたため、失礼に当たらないよう呼ばないようにしている。