“わかる〜”の先に誰もいない。
「それ、わかる〜!」
「え、めっちゃそれじゃん!」
「つむぎ、マジそれ天才」
今夜の女子会も、盛り上がった。
ワインが進み、恋バナが止まらない。
最近の職場のイラつく出来事、微妙な元カレ、既読無視する男、
“あるある”を並べて笑い合って、気づけば終電近くになってた。
みんな話がうまいし、ツッコミも鋭い。
誰かが話せば、誰かがかぶせて盛り上げてくれる。
だから私は、安心して自分の話もできる。
「いやー、“ひとりが似合うね”って言われた時の殺意、わかる?」
「わかる〜〜〜〜!!」
「むしろそういうやつに限って一人じゃ何もできんからな!」
「それな!!」
みんなの“わかる”が心地よくて、
この場にいる私は、確かに“わかってもらえてる感”に包まれていた。
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でも、帰りの電車に乗って、
家のドアを開けて、
一人分の空気に戻った瞬間、
その“わかる”の余韻は、意外と早く消えた。
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“わかる〜”って、
たしかに心をつなげてくれる言葉だ。
でもそれは、
同じ場所にとどまるための合図でもある。
私たちは、“わかり合う”ことで安心して、
でもその先――“どうする?”とか、“私はこう変えたよ”とか――
そういう会話には、あまりならない。
みんな忙しいし、今がそれなりに楽しいし、
“答えの出ないまま”を、笑い合ってやりすごしてる。
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女子会で「寂しいよね〜」って言ったあと、
「でもなんかんだ今自由だし、よくない?」って誰かが言えば、
それで空気は整って、安心して終わる。
私もそうしてきた。
無意識に、“共感のオチ”で話を締めるクセがついている。
でも、その“よくない?”のあとに続けたい言葉を、
本当は何回も飲み込んできた。
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「…でも、ほんとはちゃんと恋したい」
「…やっぱり寂しいよ」
「…このまま、誰にも選ばれなかったらどうしよう」
そういう本音は、
“わかる〜”のテンションでは出しにくい。
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みんな、優しい。
ほんとに、優しい。
でも、“それ、わかる〜”の先に、
誰かが手を伸ばしてくれるわけじゃない。
“ここにいていいよ”って、
そこに留まる許可はもらえても、
“ここから連れ出してくれる人”はいない。
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わかってくれる人がいる。
でも、それだけじゃ、何も進まない。
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今日の帰り道。
ひとりで歩きながら、
自販機の明かりに照らされた自分の影を見て、
思わず「つむぎ、マジそれ天才」とつぶやいて苦笑いした。
さっきまでの笑い声が、
なんだか遠い国の音みたいだった。
「わかる〜」って言ってもらえるの、すごく嬉しい。
でも、その“共感”で安心しすぎて、
ずっと同じ場所で足踏みしてること、あると思う。
一歩踏み出すって、
共感より、たぶんちょっとだけ孤独なんだよね。
……でも、やってみるべきなのかも。