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次の朝、澪は報告書を持ってアリエルのオフィスへと向かった。
ノックすると、中から「どうぞ」という声が聞こえた。
アリエルはいつもより疲れた様子で、波紋も少し暗い色をしていた。彼女の机の上には、昨日見たものとは別の古い地図が広げられていた。
「報告書です」澪は書類を差し出した。
「ありがとう」アリエルは地図から目を離さずに言った。「見て」
澪は彼女の横に立ち、地図を覗き込んだ。それは昨日ロウの店で見たものよりもさらに古い地図のようだった。「大感情災害」以前のハモニアが描かれ、西側には大きな「霧の壁」が明確に示されていた。
「これは...」
「メリウス教授から借りたの」アリエルが説明した。「彼は古代波紋研究所の歴史学者よ。今日彼に会う予定なの」
「なぜですか?」
アリエルは少し躊躇った後、澪をじっと見た。
「あなたを信用していいのかどうか、まだ決めきれていないわ」彼女の波紋が複雑なパターンを描いた。「でも...直感的に、あなたは単なる『濁り人』ではないと感じている」
彼女は立ち上がり、窓の方へ歩いた。
「私は『暗闇の民』とその歴史について調査しているの。公式記録には載っていない真実があると思っているわ」
澪は驚いた。アリエルがこのような秘密を共有するとは予想していなかった。
「なぜそう思うのですか?」
「祖父の日記」アリエルの声は静かになった。「彼は波紋研究の先駆者だったけど、晩年に何か大きな発見をして...その直後に不審な死を遂げたの」
彼女は澪の方を向いた。「日記の最後のページには『霧の壁の向こうに真実がある』と書かれていた」
澪は少し考えてから言った。「それで今日、メリウス教授に会うのですね」
「そう。彼は『大感情災害』の公式説明に疑問を持っている数少ない学者の一人よ」アリエルは澪を見つめた。「あなたも一緒に来るわ」
「私も?」
「あなたの...特殊性が、彼の研究に関連するかもしれないから」アリエルは澪の腕輪を見た。「それに、あなたの観察力は役に立つわ」
澪は頷いた。彼女自身も、自分の状態について知りたいと思っていた。そして、「霧の壁」と「大感情災害」の真実が、それに関連しているかもしれないという直感があった。
二人は調査局を出て、都市の北東にある古代波紋研究所へと向かった。
「メリウス教授についてもう少し教えてもらえますか?」澪は移動中に尋ねた。
「彼は70代の波紋歴史学の権威よ」アリエルが答えた。「調和省から疎まれているけれど、その学術的業績から解任できないでいる。彼は『大感情災害』の公式説明には大きな矛盾があると主張しているの」
「どんな矛盾ですか?」
「例えば、なぜ『暗闇の民』が突然混乱を起こしたのか、その動機が不明確。そして『霧の壁』の出現と消失についての記録が不完全よ」
研究所は古風な建築様式の建物で、中央区の近代的な結晶建築とは対照的だった。入り口には「古代波紋研究所」と刻まれた石板があり、その周囲には古い時代の象徴的な波紋パターンが彫られていた。
中に入ると、静かな廊下が続いていた。壁には古代の波紋パターンを示す図やタペストリーが飾られていた。
「メリウス教授の部屋はこちら」アリエルが廊下の奥を指した。
彼らが部屋に近づくと、中から穏やかな男性の声が聞こえてきた。
「どうぞ、お入りください」
ドアを開けると、書物や古い巻物で埋め尽くされた部屋が現れた。その中央に座っていたのは白髪の老学者だった。彼の周りの波紋は澄んだ青色で、穏やかながらも鋭い洞察力を感じさせた。
「アリエル・フェンウェイブ」老学者—メリウス教授—が微笑んだ。「そして...興味深い客人」
彼の目は澪に向けられた。特に彼女の腕輪に注目しているようだった。
「風間澪です」澪は自己紹介した。「調和省の...」
「波紋がない女性」メリウスが言葉を遮った。「素晴らしい。まさに私が研究していたテーマの生きた証人ですね」
「教授」アリエルが話を進めた。「昨日お話しした件について」
「ああ、『霧の壁』ですね」メリウスは一冊の古い本を取り出した。「あなたが言った通り、公式記録には多くの欠落があります。しかし、私はいくつかの古文書を収集してきました」
彼は本を開き、古い記述を指さした。
「『大感情災害』の前、『霧の壁』は単なる地理的特徴ではなく、ある種の境界でした。波紋の源泉とも呼ばれていました」
「波紋の源泉?」澪が興味を示した。
「そう」メリウスは頷いた。「伝説によれば、『波紋の源泉』は単なる歴史的遺跡ではなく、『感情の始まりと終わりの場所』とされています。何らかの力の中心点のようです」
彼は別のページをめくった。
「さらに興味深いのは、『暗闇の民』についての記述です。彼らは公式記録のように『感情を隠す邪悪な集団』ではなく、実は『感情を制御できる特殊能力者』だったとする記述があります」
澪は思わず腕輪に触れた。もし自分が「暗闇の民」の末裔だとしたら...
「教授」アリエルが声をかけた。「あなたは『大感情災害』の真の原因は何だと考えていますか?」
メリウスは慎重に言葉を選んだ。「私の仮説では...災害は『暗闇の民』の仕業ではなく、権力者たちによる『感情統合』という実験の失敗だった可能性があります」
「感情統合?」
「はい、すべての人の感情波紋を一つに統合する試み。完全なる感情の調和を強制的に実現しようとしたのです」
アリエルの波紋が急に乱れた。「それは...現在の調和社会の原則と矛盾していません」
「だからこそ、真実は隠されたのでしょう」メリウスの表情は厳しくなった。「私はただの学術的関心からこの研究をしているわけではありません。真実を知ることが、失われた者たちへの唯一の償いなのです」
「失われた者たち?」澪が尋ねた。
メリウスは一瞬沈黙した。「私の娘は『感情病』で亡くなったことになっています。しかし実際は...彼女はヴォルテックス卿の初期実験の被害者だったのです」
「ヴォルテックス卿?」アリエルが驚いた様子で言った。「調和省の最高顧問ですか?」
「そう、彼は300年近く前から実質的に調和省を支配している人物です」メリウスは低い声で言った。「彼の年齢や生い立ちについては謎に包まれていますが...」
突然、廊下から足音が聞こえた。メリウスはすぐに本を閉じ、別の無害な古文書を取り出した。
ドアが開き、青い制服を着た男性が現れた。その波紋は冷たい青色で、警戒心を示していた。
「メリウス教授」男性は硬い声で言った。「予定外の来客がいるようですね」
「ソレン監視官」メリウスは穏やかに答えた。「フェンウェイブ分析官と彼女の助手が古代波紋パターンについて質問に来ただけです。調査の一環として」
ソレンは澪を鋭く見た。「風間澪。特別調査プログラムは波紋異常の調査が目的だったはずだが」
「はい」アリエルが素早く答えた。「我々は昨日の調査で古代波紋パターンに類似した異常を発見したため、専門家の意見を求めていました」
ソレンは満足していないようだったが、それ以上追及はしなかった。
「メリウス教授、調和省評議会があなたの最近の講義内容について懸念を表明しています。もう少し...調和的な視点を取り入れるよう、検討してください」
「学問の自由は尊重されるべきでしょう、監視官」メリウスは静かに言った。
ソレンは冷たく微笑んだ。「もちろんです。でも、明らかな歴史的事実を歪めるのは学問ではありません」
彼はアリエルと澪に視線を向けた。「そろそろ戻った方がいいでしょう。調査局では緊急の案件が待っています」
そう言うと、ソレンは部屋を出た。その足音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。
「危険な会話でした」メリウスがようやく言った。「ソレン監視官は調和省の忠実な番犬です」
「すみません」アリエルが謝った。「あなたを危険にさらしてしまいました」
「いいえ」メリウスは首を振った。「むしろ、あなたたちが来てくれて嬉しい。真実を求める人がまだいることを知り、希望が持てました」
彼は机の引き出しから小さな地図を取り出した。
「これを持っていきなさい。『波紋の源泉』への地図です。もし本当に真実を知りたいのなら、そこに答えがあるはずです」
アリエルは地図を受け取り、注意深く袋に入れた。
「ありがとうございます」彼女は真摯に言った。
メリウスは最後に澪を見つめた。「風間さん、あなたの腕輪...それは特別なものです。どこでそれを手に入れたのですか?」
「わかりません」澪は答えた。「気づいたときには既に付いていました」
メリウスは興味深そうに頷いた。「直感ですが、あなたの存在と腕輪は『波紋の源泉』と何らかの関係があるかもしれません。気をつけて」
二人は研究所を後にした。外に出ると、アリエルはすぐに路面電車に乗り込むように促した。
「ソレンが監視しているかもしれない」彼女は小声で言った。「調査局には戻らず、別の場所で話しましょう」
彼らは都市の静かな公園へと向かった。夕方の光の中、二人は誰もいないベンチに座った。
「あなたに全て話すべきか、まだ迷っていたけど...」アリエルが言い始めた。「もう隠す意味がないわ」
彼女の波紋は決意を示す濃い青色に変わった。
「私の祖父は波紋研究の権威でした。彼の日記によれば、祖父はヴォルテックス卿と対立し、最後は...不審な状況で亡くなりました。祖父は『感情統合』という計画に反対していたのです」
「そして、あなたは祖父の研究を引き継いでいる」澪が言った。
「そう。表向きは調和省の分析官として働きながら、真実を探っていたの」アリエルは澪をまっすぐ見た。「あなたの出現は...予想外だったわ」
「私の存在が何を意味するのかは、私自身にもわかりません」澪は正直に答えた。
「でも、あなたが重要な存在であることは確かよ」アリエルは澪の腕輪を見た。「その腕輪...壁画に描かれたものに似ている」
「壁画?」
「古代波紋研究所の地下書庫にある壁画。『二つの世界を行き来する者』を表すシンボルとしてその模様が描かれているわ」
澪は腕輪を見つめた。「二つの世界...」
「澪」アリエルが真剣な表情で言った。「私はメリウス教授の言う『波紋の源泉』を見つけたい。そこに真実があるはず」
「でも、その場所は霧の壁の向こう...調和省の管轄外ですよね」
「そう」アリエルは頷いた。「危険な旅になるわ。でも、私は行く決心をした」
彼女は澪を見つめた。「あなたも来る?」
澪は選択の瀬戸際に立たされていることを感じた。この世界に来てからの疑問—自分の存在の意味、腕輪の秘密、そしてこの世界の真実—すべての答えが「波紋の源泉」にあるかもしれない。
「行きます」澪は決意を示した。「真実を知りたい」
アリエルの波紋に一瞬、安堵の色が広がった。
「準備が必要よ」彼女は実務的な口調に戻った。「三日後に出発しましょう。その間に必要なものを集める必要があるわ」
「どうやって都市を出るんですか?監視されていますよね」
「協力者がいるわ」アリエルは小声で言った。「その前に...ニコに会った方がいいかもしれない」
「ニコ?」
「ああ、あの少年。彼は『リップルキッズ』のリーダー格よ。下町の抜け道を知っているはず」
夕日が沈み始め、公園の影が長くなっていた。二人は立ち上がり、別々の方向に歩き始めた。
「明日、いつもの場所で」アリエルが去り際に言った。「誰にも話さないで」
澪は頷き、住居への帰路についた。頭の中は情報で一杯だった。「波紋の源泉」、「感情統合」、「二つの世界を行き来する者」...すべてが彼女自身と何らかの関係があるようだった。
彼女は星空を見上げた。美しい波紋が星々の間に漂っているように見えた。
「真実は霧の壁の向こうに...」
澪はつぶやき、左手首の腕輪を見つめた。それはかすかに光を放っているように見えた。