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Hamon 〜感情が視える世界〜  作者: Ray
波紋の追跡者
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2-3

「これが『濁りの市場』...」


澪の言葉は半ば息をのむような声だった。広い地下空間に、数十の屋台や小さな店が立ち並び、薄暗い照明の下で様々な品物が売買されていた。しかし何より驚くべきは、この場所にいる人々の波紋だった。


中には通常では見られないような複雑な波紋パターンを持つ人もいれば、波紋を意図的に抑えているように見える人、さらには澪のように波紋のない人まで—多様性に満ちた空間だった。


アリエルの表情は硬く、波紋は警戒心を示す濃い紫色に変わっていた。


「こんな場所が...」彼女は小声で言った。


「おもしろいでしょ?」ニコが嬉しそうに言った。「ここでは誰も波紋で判断されないんだ。『調和』の強制もない」


三人は市場の中を進んだ。様々な屋台が目に入った—感情を瓶に詰めた「感情瓶」を売る店、波紋を一時的に変える「波紋マスク」の店、そして古い書物や地図を扱う店まであった。


「あの人だ!」ニコが小声で言った。「さっきの黒コートの人」


澪とアリエルが見ると、確かに黒いコートの男が市場の奥にある店に入るところだった。


「追いましょう」澪が言った。


三人は慎重に近づいた。店の看板には「ロウの感情商会」と書かれていた。中に入ると、壁一面に様々な色の小さな瓶が並んでいて、それぞれが微かに光を放っていた。


店の奥には35歳ほどの男性がいた。常に薄暗い色調の服を着用し、片目を長い前髪で隠している。彼の周りの波紋は極めて薄く、ほとんど見えなかった。


「いらっしゃい」男性—おそらくロウ—が平坦な声で言った。「珍しい顔ぶれだね、特に...」彼は澪を見て、一瞬驚いたように見えた。「波紋なしの女性とは」


黒コートの男はすでに立ち去ったようだった。


「ちょっと見学に」澪は穏やかに言った。「これらは全て感情瓶?」


「そうだよ」ロウは少し警戒しながらも、商売気質が勝ったようだった。「純度の高い感情を閉じ込めた特製品さ。この瓶の中の『歓喜』は純度が高く、開けると12時間は波紋が持続する。特に強い感情は他の波紋に干渉することもある」


アリエル自身が抑え気味だったが、彼女の波紋には明らかな不快感が表れていた。


「違法品を扱っているわね」


ロウは彼女を鋭く見た。「ここには調和省の法律は通用しない。ここは自由な感情の場所だ」


「僕、この前『興奮』の小瓶を買ったんだ!」ニコが興奮して言った。「コレクションしてるんだよ!」


「ああ、リップルキッズの少年」ロウは少し表情を緩めた。「良い趣味だ」


澪は店内を観察していた。感情瓶だけでなく、古い書物や図面のようなものも置かれていた。


「あの地図は?」彼女は壁に掛けられた古い羊皮紙の地図を指さした。


ロウの表情がわずかに変わった。「目が良いね。あれは古い時代の地図だ。『大感情災害』前のハモニアを示している」


「見てもいい?」


ロウは一瞬躊躇したが、頷いた。「見るだけなら」


澪は地図に近づいた。現在のハモニアとはかなり異なる地形が描かれていた。特に西側には、現在は存在しない「霧の壁」と書かれた領域があった。


「霧の壁?」


「昔話だよ」ロウが答えた。「『大感情災害』のときに消えたとされる場所。いくつかの伝説では、『暗闇の民』の最後の生き残りたちがそこへ逃げたとも言われている」


アリエルが急に割り込んできた。「さっきの黒コートの男について質問がある。彼は何を買いに来たの?」


ロウの表情が閉ざされた。「お客の情報は守秘事項だ」


「調和省の捜査よ」アリエルの声は冷たかった。


「ここでそれを言うのは賢明じゃないね」ロウの声には警告が含まれていた。周囲の客たちが彼らの方を見始めていた。


澪はすぐに介入した。「私たちはただ情報を求めているだけです。対立するつもりはありません」


彼女の穏やかな声と波紋のない存在が、場の緊張を少し和らげたようだった。


ロウは澪をじっと見た後、少し態度を軟化させた。「彼はただの客だ。『怒り』と『憎しみ』の瓶を買っていった。最近、そういった強い負の感情への需要が高まっている」


「なぜ?」澪が尋ねた。


ロウは肩をすくめた。「さあ。でも都市の西側では、最近異常な波紋が増えている。何か...変化が起きているんだろう」


アリエルは澪に「もう行きましょう」と目で合図した。


「ありがとうございます」澪はロウに言った。


彼らが店を出ようとしたとき、ロウが澪を呼び止めた。


「ちょっと」


澪が振り返ると、ロウは小さな白い瓶を彼女に差し出していた。


「これは『平静』の瓶。サービスだ」


澪は驚いて瓶を受け取った。「なぜ?」


ロウの表情は読み取りにくかったが、彼の言葉は意味深だった。「君のような人は...この街で生きるのに苦労するだろうからね。必要なときに使うといい」


三人が市場を出ると、アリエルは明らかに不快そうだった。


「不法な場所よ。調和省に報告すべきだわ」


「でも役に立つ情報が得られました」澪が言った。「『霧の壁』や負の感情瓶の需要増加など」


「僕、すごい発見をしたよ!」ニコが興奮して言った。「黒コートの男、波紋が変だったんだ。まるで...借り物みたいだった」


「どういう意味?」アリエルが鋭く尋ねた。


「自分の波紋じゃないみたいだったんだ。波紋が男の周りにあるんじゃなくて、男が波紋の中にいるみたいな」


澪とアリエルは驚いた顔で視線を交わした。


「感情瓶を使って偽の波紋を作り出している...?」澪が推測した。


「可能性はあるわ」アリエルは考え込むように言った。「これは重大な違反行為よ」


「どうするの?」ニコが尋ねた。


「調査を継続するわ」アリエルは決然と言った。「でも今日はここまで。報告書を作成する必要があるわ」


彼らは下町を出て、中央区への路面電車に乗った。車内では、アリエルが小声で澪に話しかけた。


「あなた、あの市場に興味を持ったわね」


「はい」澪は正直に答えた。「多様性のある場所でした。中央区とは違う雰囲気が」


アリエルの波紋がわずかに揺れた。「危険な場所よ。調和省の法律に従わない人々の集まり」


「でも、彼らは単に自分らしく生きたいだけなのではないでしょうか」


アリエルは澪を長い間見つめた。「あなたは...不思議な人ね。波紋がないのに、感情の機微をよく理解している」


電車が中央区に到着すると、ニコは別れ際に澪に小さな紙切れを渡した。


「また会いたいなら、ここに来て! 僕たちリップルキッズの秘密基地の場所だよ」


アリエルが制止しようとする前に、ニコは電車を飛び降り、雑踏の中に消えていった。


調査局に戻る途中、澪は今日見てきたものについて考えていた。「濁りの市場」、感情瓶、古い地図...そして何より、この世界には表向きの「調和」の下に、もっと複雑な現実が隠されているという事実。


「明日も調査を続けるわ」アリエルが言った。「今日の発見は調和省にとって重要な情報よ」


澪は無言で頷いた。彼女は左手首の腕輪に目を落とした。この腕輪と「霧の壁」、そして自分自身の存在の間に何か関係があるのだろうか。


「今夜報告書を書いて、明朝提出してちょうだい」アリエルは調査局の入口で言った。「詳細に記録すること。特に感情瓶の分析について」


「わかりました」


アリエルは一瞬躊躇ったように見えた。彼女の波紋に何か言いたげな色が混じっていた。


「あの...」アリエルが珍しく言葉に詰まったように見えた。「今日はよくやったわ。あなたの...直観力は評価できるわ」


それだけ言うと、彼女は素早く立ち去った。


澪は調査局の窓から夕暮れの街を見つめた。様々な色の波紋が漂う美しい風景。しかし、その美しさの下には、彼女がまだ知らない多くの秘密が隠されているようだった。


彼女はロウからもらった「平静」の小瓶を取り出し、淡い水色の内容物を観察した。


この世界で生きるために、自分は何を選択すべきなのだろうか。

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