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新しい住居は小さいながらも快適だった。シンプルな家具と、必要な生活用品がすべて揃っていた。特に印象的だったのは、壁一面を覆う水晶のパネルで、タッチすると様々な情報にアクセスできるようになっていた。
夕食後、澪はパネルを使ってハモニアについて学んだ。この世界の歴史、社会構造、日常的な慣習など、基本的な情報を吸収した。
特に興味深かったのは、「大感情災害」についての記述だった。約300年前、「暗闇の民」と呼ばれる感情波紋を隠す能力を持つ集団が、社会に混乱を引き起こしたとされていた。彼らは他者の感情を操作し、偽りの波紋を生み出すことで、人々の間に不信と争いをもたらした。その結果、都市全体が混乱に陥り、多くの犠牲者が出たという。
「災害」の終結後、現在の「調和社会」が確立され、すべての感情は透明であるべきという原則が根付いた。「暗闇の民」は排除され、波紋の調和が何よりも重視されるようになった。
澪はパネルをオフにし、窓の外を見た。夜の都市は様々な色の波紋で彩られ、まるで星空のように輝いていた。美しい光景だが、同時に不安も感じた。
「私は『暗闇の民』なのだろうか」
自分の能力—感情を隠す能力—は、この世界では危険視されるものだ。アリエルの警戒的な態度も理解できる。しかし、どうして自分にこのような能力があるのか。そして、なぜこの世界に来ることになったのか。
様々な疑問を抱えたまま、澪は眠りについた。
翌朝、約束通り澪は早起きして西側の公園を目指した。まだ夜明け前で、街は静かだった。公園に着くと、イリアがすでに待っていた。彼女の周りの波紋は、普段より少し濃い緑色をしていた。
「来てくれてありがとう」イリアが小声で言った。「人に見られないように気をつけたわ?」
「ええ」澪は頷いた。「何を見せてくれるの?」
「まず、これを」
イリアは小さな水晶のペンダントを取り出した。
「これは感情調整用の水晶。波紋が強すぎたり弱すぎたりする人のために使われるの。でも...これにはもう一つの用途があるの」
彼女はペンダントを軽く押し、何かを調整した。すると、彼女の周りの波紋が突然変化した。通常の緑色から、赤と紫が混ざった複雑な模様に変わった。
「これが...私の本当の感情よ」イリアが言った。「調整なしの状態」
「どういうこと?」澪は驚いて尋ねた。
「ハモニアでは、多くの人が感情を『調整』しているの。この装置を使って」イリアは説明した。「表面的な調和を維持するためよ」
「じゃあ、あの朝の儀式も...」
「そう、あれも一種の集団的な感情調整。都市の調和を保つための儀式なの」
イリアは澪をもっと奥へと導いた。公園の隅には小さな東屋があり、そこに数人の人が集まっていた。彼らの波紋は様々で、中には澪が今まで見たことのないような複雑なパターンを持つ者もいた。
「ここは『自由波紋サークル』。非公式の集まりよ」イリアが説明した。「感情の自由な表現を信じる人たちのグループ」
一人の年配の女性が二人に気づき、近づいてきた。彼女の周りの波紋は、赤と金が美しく混ざり合っていた。
「新しい友人?」女性がイリアに尋ねた。
「はい、ミラさん。彼女は風間澪。特別なケースよ」
「波紋がない...」ミラは澪を興味深そうに見た。「濁りではなく、透明ね」
澪は驚いた。この女性は彼女の状態を批判するのではなく、別の見方をしていた。
「透明?」
「そう」ミラは微笑んだ。「すべてを見せるのではなく、何も見せないことで、逆に純粋さを表す。それは濁りではなく、透明なの」
イリアが説明を続けた。「ミラさんは『感情詩人』よ。波紋を芸術として表現する人。公式には認められていないけど、多くの人が彼女の詩を愛しているわ」
「政府は感情を制御したがる」ミラは静かに言った。「でも感情は自由であるべき。隠すのも、見せるのも、すべては個人の選択であるべきよ」
澪はこの考え方に共感を覚えた。心理カウンセラーとして、彼女は感情の表現と抑制の両方の重要性を理解していた。
「なぜこれを私に見せてくれたの?」澪はイリアに尋ねた。
「あなたが選択できるように」イリアは真剣な表情で答えた。「調和省では、あなたの状態を『治療』しようとするかもしれない。でも、それが必ずしも正しいとは限らないわ」
「感情の濁りは欠陥ではない」ミラが付け加えた。「それは単に違う形の表現。あなたのような存在は、私たちに新たな視点をもたらしてくれるわ」
会話の途中、遠くから鐘の音が聞こえてきた。
「『朝の調和』の合図ね」イリアが言った。「そろそろ行かなきゃ」
二人は公園を後にし、澪の職場である調査局へと向かった。道中、イリアは最後のアドバイスをした。
「アリエルの下で働くことになるけど、彼女は厳格よ。そして、あなたのような例外に対しては、特に注意深いでしょう」
「わかっています」澪は頷いた。「でも、これがこの世界を理解する最良の方法だと思う」
「そうね」イリアは微笑んだ。「そして、もし何か問題があれば、いつでも私に連絡して。私たちのサークルも頼りになるはずよ」
調査局の前で二人は別れた。イリアの波紋は心配と励ましが混ざった色を示していた。
「頑張って、澪。あなたの道を見つけられますように」
澪は深呼吸して、調査局の入口へと歩を進めた。これから始まる新しい生活。この不思議な世界での自分の居場所。そして、自分の特異性の真実。すべてが未知であり、挑戦だった。
調査局の東入口に近づくと、すでにアリエルが完璧な姿勢で立って待っていた。彼女の波紋は昨日同様、複雑な紫色のパターンを示していた。
「風間澪」アリエルが冷たく言った。「時間通りね。良い心がけよ」
澪は黙って頭を下げた。
「これから波紋調査の基本を教えるわ」アリエルが続けた。「あなたの...特殊性が、どのように役立つか見極めるためにも」
アリエルの波紋に一瞬、赤い筋が走った。彼女は何か言いかけたが、すぐに口を閉じ、建物の中へと歩き始めた。
「ついてきなさい。今日から、あなたの真価が試されるわ」
澪はアリエルの後に続いた。新たな挑戦の始まりだ。そして、この世界の謎を解く第一歩でもある。
左手首の腕輪が、朝の光に微かに輝いていた。