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「奇妙だわ、まったく奇妙」
その声に澪は完全に目を覚ました。見慣れぬ白い天井。柔らかすぎるベッド。そして窓から差し込む、不自然なほど鮮やかな朝の光。
「あなた、どうして波紋を出していないの?」
声の主は、ベッドの傍らに立つ若い女性だった。柔らかい栗色の髪と、優しげな緑色の瞳。白い制服のようなものを着ている。首からは小さな水晶のペンダントが下がっていた。
澪は慌てて上体を起こした。
「あなたは...? ここはどこ?」
女性は首を傾げた。彼女の周りに、淡い緑色の光の輪が広がった。それは水面に石を投げたような波紋のように見え、とても美しかった。
「私はイリア・クリスタルブルック。感情療法士よ。ここは療養所の個室。あなたを都市の郊外で倒れているところを見つけたの」
澪は自分の記憶を整理しようとした。アパートで眠ったところまでは覚えている。だがそれ以降の記憶がない。これは夢なのだろうか。
「左手を見てごらんなさい」イリアが言った。
澪が左手を見ると、手首に見覚えのない腕輪があった。波紋のような複雑な模様が刻まれた金属製のもので、肌に密着して動かない。
「これは...」
「あなたが持っていたものよ。でも不思議ね」イリアは興味深そうに澪の手首を見つめた。「波紋調整装置には見えないわ。それに、あなたの周りに波紋が見えない」
澪は混乱したまま窓の外を見た。そこには信じられない光景が広がっていた。
水晶のように透き通った高層建築が立ち並び、その間を人々が行き交っている。そして、すべての人の周りには、様々な色と形の光の波紋が漂っていた。青や緑、赤や紫、時に複数の色が混ざり合って、美しい光のオーラを形成している。
「これは...一体...」
澪の言葉が途切れた瞬間、イリアの周りの緑色の波紋が少し強まり、形が変化した。
「あら、怖がらせるつもりはなかったの。ここはハモニア。感情波紋の都市よ」イリアの表情が柔らかくなった。「あなたの名前は?」
「風間澪...です」
「風間...珍しい名前ね」イリアは小さなクリスタルタブレットに何かを記録した。「ここでは誰もが感情波紋を発するものなの。でもあなたは...」
イリアの言葉が中断されたのは、部屋のドアが開いたからだった。白衣を着た中年の男性が入ってきた。彼の周りには穏やかな水色の波紋が漂っていた。
「クリスタルブルック療法士、患者の状態は?」
「ハルモン医師」イリアが振り返った。「彼女は意識を取り戻しましたが...波紋が見えません」
医師の周りの水色の波紋が一瞬乱れた。彼は澪に近づき、腕輪を興味深そうに観察した。
「初めて見る形状だ」彼は言った。「検査が必要だろう。それに波紋共鳴テストも」
「でも彼女はまだ混乱しています」イリアが少し前に出た。彼女の波紋が淡いオレンジ色を帯びる。「休息と説明が先ではないでしょうか」
医師は少し考え、頷いた。「そうだな。では午後に検査室に連れてきてくれ」
医師が部屋を出ると、イリアはほっとした表情を見せた。彼女の波紋が再び穏やかな緑色に戻る。
「申し訳ないわ。あなたはまだ状況を理解していないのに」イリアはベッドの横の椅子に座った。「質問があるでしょう?」
澪は頭の中の混乱を整理しながら、最も重要な質問を選んだ。
「この...波紋とは何ですか?」
イリアは微笑んだ。「ハモニアでは、すべての人の感情が波紋として見えるの。怒りは赤く、悲しみは青く、幸せは黄色く...というように。感情の種類や強さによって色や形が変わるわ」
「でも、私の周りには見えない?」
「そうなの。とても珍しいことよ」イリアは真剣な表情になった。「波紋が見えないというのは...ここでは『濁り』と呼ばれることもあるわ」
「濁り?」
「感情が濁っている、つまり不純だと考えられているの」イリアの声が小さくなった。「あまり良い状態とは言えないわ」
澪は自分の手を見つめた。自分には波紋がない。感情が見えない。それはこの世界では問題なのだろうか。
「私はどうすれば...」
「心配しないで」イリアが澪の手を取った。「まずは体調を回復させましょう。それから、あなたの状況を理解するための検査を受けるの」
イリアの周りの波紋が優しく広がり、澪を包み込むように見えた。
「不思議ね」イリアがつぶやいた。「あなたには波紋が見えないけど、どこか...特別な雰囲気がある。まるで深い湖のよう」
澪はその言葉に何と答えていいかわからなかった。ただ、この奇妙な状況の中で、イリアの存在だけが頼りになるように感じた。
「少し休んで。後でまた来るわ」イリアは立ち上がった。「それまでに少し考えておいて。自分の感情について、どう感じているか」
イリアが部屋を出ると、澪は再び窓の外を見た。光の波紋が漂う都市。それは美しくも不気味だった。
自分の感情について、どう感じているか。
澪は自問した。自分の感情を常に抑え、隠してきた自分は、この「感情が丸見え」の世界でどう生きていけばいいのだろう。
左手首の腕輪が、朝の光に微かに輝いていた。