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風間澪は最後のクライアントを見送り、オフィスの窓から見える夕暮れの空を見つめていた。秋の陽は早く落ち、すでに街灯が点き始めていた。診療記録を閉じる彼女の指先が、わずかに震えている。
「風間さん、まだいたの?」
ドアを開けたのは心理カウンセリングセンター長の丸山だった。普段はどこか柔和な表情の女性だが、今夜はその目に鋭さが宿っている。
「少し記録を整理していたので」
澪は無表情を保ちながら答えた。彼女は自分の感情が表に出ないよう、常に細心の注意を払っていた。特に今は。
「井川君のことで話があるわ」
丸山は扉を閉め、澪の正面に座った。壁の時計が六時半を指している。
「何か問題でも?」
澪は平静を装ったが、胸の奥で不安がうねった。
「井川君が自殺したそうよ」
その言葉は、静かに降り積もる雪のように、澪の心に冷たく積もった。
「...いつ?」
「昨日の夜。ご家族から連絡があったわ」
澪は黙って首を垂れた。彼女が担当していた大学生のクライアント。二週間前の最後のセッションでは、表面上は回復の兆しが見えていた。少なくとも、澪にはそう見えていた。
「風間さん」丸山の声が低くなる。「彼が死を考えていることに、なぜ気づかなかったの?」
澪は息を吸い込んだ。答えようとして、言葉が見つからない。
「私たちの仕事は、言葉の裏にある本当の感情を読み取ることでしょう」丸山は澪の沈黙を待たず続けた。「あなたは彼の本当の感情が読めなかったのね」
非難の言葉は澪の胸に鋭く刺さった。彼女はゆっくりと顔を上げた。
「申し訳ありません。私に見抜けなかった兆候があったのかもしれません」
ただそれだけを言って、澪は立ち上がった。話し合いはこれで終わりだった。丸山は何か言いかけたが、澪が鞄を手に取るのを見て、ため息をついただけだった。
「明日また話しましょう。今夜はゆっくり休んで」
澪は無言で頷き、オフィスを後にした。
雨が降り始めていた。細かな雨粒が街の光に照らされて、幻想的な輝きを帯びている。澪は傘を持っていなかったが、開く気にもならなかった。
駅までの道を歩きながら、澪は井川の顔を思い出していた。最後に会った日、彼は微笑んでいた。「先生のおかげで、少し前向きになれたと思います」と言った。それは嘘だったのか。それとも、その後何かが変わったのか。
雨に濡れた髪を掻き上げながら、澪は考えた。人の感情を読み取るのが仕事なのに、最も重要な時に読み取れなかった。自分はカウンセラーとして失格なのではないか。
アパートに帰り着いた頃には、雨は本降りになっていた。暗い部屋に入り、澪はずぶ濡れのまま床に座り込んだ。
「私には向いていないのかもしれない」
小さくつぶやいた言葉が、空虚な部屋に吸い込まれていった。
シャワーを浴びた後、澪はベッドに横たわった。天井を見つめながら、井川の言葉、表情、仕草を思い返す。見逃した兆候はなかったか。何か別のアプローチがあったのではないか。
「私は彼の本当の感情が読めなかった」
丸山の言葉が脳裏で繰り返される。
眠りに落ちる直前、澪は考えた。もし人の感情が本当に見えるとしたら、自殺を防げたかもしれない。でも、それは可能なのだろうか。人の心の中は、結局のところ、誰にも完全には見えないのだから。
その夜、澪は奇妙な夢を見た。井川が波打つ光の中に立ち、手を伸ばしている。澪が近づこうとすると、彼の周りの光が黒く染まり、澪の手を振り払った。
「見えていても、救えなかったでしょう」
そんな言葉が聞こえたような気がして、澪は目を覚ました。
しかし、目を開けた世界は、彼女の知る世界ではなかった。