なな
胸のドキドキが収まらないまま、私は家へと走った。
家の扉を開けて買ってきた物を食卓の上に置くと、母の声も無視して物も言わずに二階の自分の部屋へと駆け上がる。お母さんごめんなさい。今は無理。
はぁーーーっ。
ベッドにゴロンと転がって腕で目の上を覆っても、先程の光景が瞼に浮かぶ。
テオが。あの、テオが! 私よりひとつ年上とはいえ、小さい頃は私よりちっこくて、後先考えないもんだから怪我ばっかりして、ケンカに負けると悔しくて涙を目に溜めてたあのテオが。冒険者として初めて薬草採取に行く時も、薬草間違えてないか私に見て欲しいって言ってきたあのテオが!服だってすぐに汚しておばさんに怒られるからって私が内緒で洗ってあげたし、自警団の初めての訓練の時だってお父さんより、お、お肉多めに持たせてあげたのに!いつも、いつも私が世話してあげてたのに!!
いつの間にあんな、あんな事…。
相手のミヨンちゃんなんて、私よりひとつ下だよ?小さい頃から皆でよく遊んでた。いつだってテオと私の後をトコトコ追っかけてきて、横でニコニコしてたミヨンちゃん。私も大人しいミヨンちゃんを妹みたいに思って可愛がって面倒みてたっけ。学院に入ってからはあまり会う事も無くなってきてたけど。まさかそんな。
私なんかより早く、大人への階段をひとつ上ってたなんて!
余りの衝撃を受け、私の頭の中は色んな思いが去来し、暫くベッドから起き上がる事が出来なかった。
翌日、夕べから明らかに様子のおかしい私は母に心配されながらなんとか学院に登校したものの、昨日の衝撃から立ち直れずに始終やらかしていた。
登校一番、違う席に座り指摘されるまでそのまま。廊下を歩けば足元にいたるるを蹴飛ばし、昼ご飯ともなればランチを包んでた布を口に入れる。授業中は心此処に在らずの様は先生方に怒られるよりも逆に心配されてしまい、魔法実技の授業は見学を言い付かった。
そして今は放課後。
ボーっとしたまま自分の席から動こうとしない私を見かねたクラスメイトが、るると共にヴィクトル先生の教務室に私を放り込んだ。
先程からコポコポとお湯を注ぐ心地よい音がするが、放心した私の耳には届かない。
やがて果物のような甘い香りが鼻腔を擽る。ん、此れは私の鼻に届いた…な。
芳醇な香りに視線を遣ると白磁に赤く映える紅茶の入ったカップを差し出された。
「…ありがとうございます」
私は素直に受け取って一口、口に含む。フルーティで馥郁とした香りと共に液体の温度が口内に広まりやがて喉を通り過ぎて胃の腑に染み渡る。あったかい。
「…っぅううぅぅ」
私の口から小さな声が洩れる。目の周りがカーッと熱くなってきた。おかしいな、なんだか視界もボヤけてきたぞ。
ヴィクトル先生は座っている私の膝にタオルを一枚置くと、るるを連れてそっと部屋を出て行った。
「う、うぐっ、ううえっ、、、」
手が震え、まだ紅茶の入るカップを小机に置く。
「うあああ〜〜〜〜〜んん!」
一旦漏れ出した声も涙も止まらない。
もう、やだ。何がなんだか分かんない。自分が何でこんなに声上げて泣いてるかも意味不明だ。とにかく今は泣いてしまえ。考えるのは後にしよう。
私はヴィクトル先生のくれたタオルを握りしめ、街で見かける迷子の幼子のようにわんわん泣いた。昨夜から胸に溜まっていた重たい何かが込み上げて来て、まるでそれを押し流すかのように声を上げて泣いた。
一頻り泣くと気持ちも落ち着き、やがて目から涙も引っ込んだ。替わりに鼻から出てきたけどそれもタオルでグイッと拭く。やだ、これちょっとだけヴィクトル先生と同じ匂いがする。当たり前か、先生のタオルだものね。
泣き過ぎたせいか頭がグワァーンとしてる。さっきの紅茶を頂こう。大分冷めてしまったけれど、まだ十分美味しい。うん、頭もすっきりしてきた。もう大丈夫。
私はタオルを握る手元を見つめて考えてみた。
私、何で泣いたりしたんだろう。何か悲しかったんだろうか。私は…。
ミヨンちゃんがテオを好きだなんて全然知らなかった。まして二人が付き合ってたなんて。どうして私に言ってくれなかったんだろう。テオもテオだ。しょっ中顔合わせてたのに。
でも、私はそんな事で泣いたんだろうか?いいや、違う。そりゃあ、仲良しの幼馴染み達が付き合ってたのを隠してたなんて、仲間外れにされたみたいで面白くない。けれどそうじゃない。私のこの気持ちはー。
私は短く肩で息を吐くと此れ迄の事を振り返ってみた。
私とテオはずっと一緒だった。母同士が仲の良い従姉妹な上に近所なのもあって、赤ちゃんの頃からほぼ毎日顔を合わせてきた。お陰で喧嘩もするけど仲直りも早い。二人の間に遠慮も無いしその代わりに見栄を張ったり猫を被ったりもいらない。お互いの良い所も悪い所も知ってるからある意味最強の味方だ。そう、味方だと思って私は安心してたんだ、前世の乙女ゲームを思い出しても。
王子ルートに出遅れようが、騎士ルートにスルーされようが、公爵子息ルートを掻っ攫われようが、なんだって。私が誰にも相手にされなくても、大丈夫。だって私にはテオがいる。最後にはテオが。だってテオは。
なんたってヒロインの幼馴染みルートの攻略対象なんだから!
そう心の底で思って奢っていたんだ。だからあんなにショックだったんだ。なんて最悪なんだろう、私。人の気持ちを勝手に決めつけて、自分はどうなの?テオを好きなの?
はぁーー!
情け無さ過ぎて溜息しか出ないわ。自分が、情け無さ過ぎ。
こんな事じゃダメでしょ!アリサ・ターナー!こんな駄目駄目女、私だってお断りだよ!
私は決心した。もう、乙女ゲームになんて振り回されない。初心を思い出すのよ!私の目的は何だった?何がしたくて学院に来たの?
私はしっかりと顔を上げた。
その先には扉の隙間から心配そうに中を伺う二対の瞳があった。
「落ち着いたようだな」
私に見つかり、部屋に入ってきたヴィクトル先生は軽く握った手を口元に当て、気まずそうに話し掛けてきた。
そりゃ気まずかろう。私だってまだ半眼で見ちゃうよ、先生の事。
「いつから覗いてたんですか」
ほんと、いつからよ。私がわんわん泣いてた所?それともその後鼻水啜ってえぐえぐしてた所?もしかして最初からとか!?
「…泣き声が止んで、暫くしてから、かな」
それって、覗いてなくても外にずっと居たんじゃん。わぁ、恥ずかしい。
私は恥ずかしさも相まって、無言で立ち上がるとるるにキラキラを存分に与え、先生に背中を向けたまま鞄を持った。
「お邪魔しました。タオルも…ありがとうございました。洗って返します」
「アリサ・ターナー」
ヴィクトル先生の声がハッキリと響く。
「何があったか知らんが、困った事があれば俺に相談しろ。俺はいつでもお前の味方だ」
私は思わず先生を振り返った。
味方。それは正しく先程私の頭に浮かんだ言葉。
先生、魔法で私の考えを読んだの?
じっと先生の目を見つめてみるも、その濃い紺色の瞳は真っ直ぐに此方に向けられ揺らぐ事も無い。
私は何と返事していいかも分からず、只頭を下げて部屋を出た。
お読みいただきありがとうございました。