The Real Folk Blues ~戦いのその先に~
「ついに……ついにこの時が来たんだ……」
晩秋と呼ぶには少しばかり気が早く、しかし些か厳しい寒さを肌が感じ取り始めた頃。俺は一人、暗い部屋で震えていた。
「くっ、手が汗ばんできやがった……」
武者震い――――いや、違う。これは身体の底から沸き起こる歓喜、それと同時に頭を駆け巡るは悪戦苦闘の日々、その悲しき記憶たち。
ただ、怖かった。
その細く小さな一つ一つが、この俺に強烈な苦痛を味わわせてくれた。
ただ、怖かった。
刃物を手に戦いを挑んだが、己を傷つけてしまいやしないかと、そればかりに気を取られてまともに立ち向かうことさえ出来なかった。
ただ、怖かった。
“ やつ ”を排除することが、この俺に一体どのような影響をもたらすのか。
産まれて此の方数十年。時にソワソワと心を掻き乱し、またある時にはひょっこりと現れ、この俺を好奇の目に晒させた張本人。
「だが……ククク……永い付き合いだったがなぁ、お前との同棲は本日で解消だァ!!」
己自身を鼓舞するように語気を荒め、ぐいと力強く立ち上がり、そしてゆっくりと部屋の明かりを灯す。まるで曇りがかった空を裂く光明――――じじじと小うるさく鳴く蛍光灯が、俺の手に握られた“ それ ”の姿をはっきりとこの目に映し上げた。
『電動鼻毛カッター』
スタイリッシュなシルエットに、今にも“ 刈り取ってやる ”と言わんばかりのシャープな刃を搭載。更にはマットなシルバーにその身を包み、そして小粋なブラックの先に在るメタルが安全性を確約、同時に心強さを際立たせている。
「これさえ在れば……!!」
万夫不当、鬼に金棒――――いや、これまで一度たりとて“ やつ ”に敵わなかった俺であるから、鬼などとおこがましい……モヤシに金棒と言ったところだろう。だがモヤシは金棒を持てないからバッタくらいにしておこう、うん。
おっと……話が逸れてしまったが、つまるところ俺は謙虚なのだと、そう言いたい。そんな謙虚な者が手にしただけでここまで強気になれる……電動鼻毛カッターの秘めたるポテンシャルは相当なもののようだ。
しかしながらこの電動鼻毛カッター、最も特筆すべきはそのお求め易さだろう。
『安さの殿堂、トンキ・ポーテで980円』
圧倒的リーズナブル。僅か980円、小柄で軽すぎるこの装置が、俺たちの永き戦いに終止符を打つのだと説明書にそう書いてある。いや書いてはないが、俺には確かにそう思えたのだ。それほどまでに、この電動鼻毛カッターとの出会いはセンセーショナルだったのだ。
しかし出会いについて話せば長くなってしまうので割愛するとして、さぁ、これからが本番だ。そう己に言い聞かせ、高鳴る胸をそのままに、そっと電動鼻毛カッターの先端を鼻元へ運ぶ。
「……妙に、緊張してきたな」
それもそのはず、人一倍大きな鼻を持つ俺は誰よりもそのデリケートさを知っている。
強い鼻くそ感に指をそっと忍ばせれば直ちに出血を起こし、万年鼻炎に花粉症のダブルコンボを受けて鼻をかめば直ちに出血を起こし、少しでも殴ればやはり出血を起こし、もうなんかわからんけど直ちに出血を起こすほど非常に繊細な鼻なのであるということを、長年の経験から知っていたのだ。
だからこその怯え、だからこその躊躇い。
だが……迷っている場合ではない。今この瞬間にも刻々と、そしてぐんぐんと“ やつ ”は勢力を拡大し続けているのだ。
「やるしか、無いんだ……!!」
恐怖に打ち勝つということ。
それ即ち、己に打ち勝つということ。
不安や怯え、心の内に在るネガティブなその全てを、己が精神力のみを以って乗り越えるということ――――。
「…………」
永かった。ここに至るまでに掛かった時間は余りにも甚大。紆余曲折、様々な出会いと別れを経て、痛みを、悲しみを乗り越えて。
「……よしッ!!」
俺の鼻は電動鼻毛カッターの先端、その冷たさを痛いほどに感じ取っていた。しかしその冷たさは同時に、俺の揺るぎない覚悟の証でもあるのだ。
「迷いなど………もう――――」
無いッ!!!!
『待て』
突然の声。
『お前は本当に、我々を駆逐するつもりなのか?』
まるでピンと冷たく張られたピアノ線のように直線的。
『我々を駆逐したその先に待つものを、理解しているのか?』
そして嫌に力強く、自信に満ち溢れた態度。
「…………HANAGE、貴様か……」
『私はお前の敵ではない』
突然俺の脳内に響き渡った声、その主こそが俺の鼻を支配する存在。永きに渡り死闘を繰り広げてきた憎き敵、鼻毛の中の鼻毛……そう、King of HANAGEなのだ。
だがしかしやつめ、どうやら己が身の危険を察知したようだな。
随分と鼻が利くようだ……鼻毛だけに!!
「フッ……この俺を苦しめ続けた貴様が、今になって命乞いか?」
虚勢……いや違う、それは確かな“ 自信 ”。
「幾度となく俺を虐げ、恐れおののかせてきた貴様がッ!! ハッ……ハーッハッハッハッハッ!! なんたる無様かッ!!」
今の俺の顔……それはそれは悪いものを浮かべているのだろう。だがそんなことはどうでも良い、この憎きHANAGEを滅することさえ出来ればそれで良いのだ。
例え、例えこの身滅びようと……修羅の道に堕ちようともッ!!
『その聞くに堪えない馬鹿笑いをやめろ、そして私の話に耳を貸せ』
「フン……まぁ良いだろう、“ 冥途の土産 ”と言うやつだ」
これまで何度も、それこそ抜けては生えてを繰り返す鼻毛の数ほどに辛酸を舐めさせてくれた恐ろしい相手を前にしてこの自信……まだ使ってもいないのにこの余裕ッ!!
すごい、すごいよ電動鼻毛カッター!! 買って良カッター!!
『先にも問うたが、お前は本当に理解しているのか? 我々を失ったその先に在るものを』
「ハッ! 風邪を引きやすくなる、とでも言いたいのだろう?」
『それだけではない。我が住まいである鼻、その内なる鼻腔はお前が取り込んだ空気の温度・湿度調整などを司っているのだ。その鼻腔を保護する存在である我々を失えば、それらの機能は低下してしまうだろう』
「クックック……その程度のことがなんだと?」
『その程度だと? お前が吸い込んだ空気、そこには無数の粉塵や微粒子が含まれているが、それらをガードしているのは我々なのだぞ?』
「だから、どうしたと言うのだ」
『なっ……ではお前はそれでも尚と、そう言うのか?』
「そうだ」
『馬鹿なことを……話は聞いていただろう? それとも、お前の頭には脳というものが無いのか?』
やれやれ、全くもって自信過剰というものだ。
「HANAGEよ……一つ、教えておいてやろう。貴様が俺の体調を支えているなどという話だがなぁ、それに科学的根拠は無いのだよ」
『何?』
「HANAGE、遅れているな。それはあくまでも仮説に過ぎず、確立などされていない机上の空論でしかないのだ」
『お前は何を言っている? そんな馬鹿な話を信じろと言うのか?』
「フッ……俺はなあ、ちゃあんとインターネットで調べたんだよォ!!」
『なん……だと……!?』
フ、フフフフフ……驚いてる驚いてる。
「ネットにそう書いてあったから間違いない、紛れもない事実なんだよ。貴様はなんの根拠も無い、昔ながらの知恵を妄信する大馬鹿者なのだ」
『なっ、なっ……インターネット、だと……』
ククク、効いてる効いてる。そろそろトドメを刺してやろう。
「言うなれば、お前はおばあちゃんの知恵袋をいつまでも盲信し続ける坊や、と言ったところだなァ?」
『こ、この私が坊やだと……だがしかし……インターネットだし………』
やつめ、ようやく己の愚かさに気付いたようだ。しかしまさか、動揺を隠しきれずに狼狽えるHANAGEを拝める日が来るとはな。インターネット、恐るべし……。
本当にすごいよインターネット!! 頼って良カッター!!
「……さぁて、貴様との無駄話も飽きてきたなァ? そろそろ引導を渡してやるとしようか、アァァン!?」
『待てッ!! 早まるんじゃあない、おばあちゃんを信じるんだ!! おばあちゃんはいつだってお前の味方をしてくれていただろうッ!?』
「やかましいッ!! うちの婆は孫を愛してなどいなかった!!」
『なっ……!? おばあちゃんだぞ!?』
「……あの婆はな、おやつがあるよと甘い言葉で誘っておいて、甘すぎるだけの謎の堅いゼリーを寄越したり、ころんでぶつけたオデコに砂糖を塗ったくって絆創膏を叩きつけた上、満足げに『これでよし』とか抜かしやがったんだ!! 何がいいものか!! ベタベタジャリジャリ気持ち悪いだけなんじゃ!!」
『そ、それはちょっと価値観が古いだけで……っていうか、お前は充分すぎるほどに愛されているじゃあないかッ!!』
「ぐっ……それはまぁ、うん。感謝してるけどさ」
『じゃあ信じてやれよ!! いや信じてくれよおばあちゃんを!!』
「そ、それとこれとは話が別だッ!! ももももういい加減そろそろアレだし……げふんっ! “ 年貢の納め時 ”というやつだ、大人しくその命散らすが良いわァ!!」
『今ちょっと揺らいでたじゃん! おばあちゃんのこと想ってあげられてたじゃん!!』
「ええいうるさいうるさいッ!! 電動鼻毛カッター、命名“ マキシマムX ”……リフトオフッ!!」
ヴィイイイイイイイイイイイイイイン!!
俺の動揺とは裏腹に――――いや、まるでそれをかき消すようにけたたましい雄叫びを上げるダブルブレード。その切っ先は小さなお子様が誤って指で触れても決して猛威を振るうことは無い安全設計。しかしながら憎き鼻毛どもを蹴散らすに充分であろう破壊力を秘めている……電源スイッチを入れただけで、ただ華麗な音を奏でただけで、俺にそう強く思わせてくれる。俺の心を激しく掻き立ててくれるッ……。
それはまるで神の轟き……いや、HANAGEにとっては悪魔の叫びと言ったところだろうな。
『やめろ、やめてくれぇ……』
「容赦……しないぜ……」
この積年の恨み、大好きだったあの子に『あのね、黙ってようと思ったんだけど、そのね……いつも出てるの、鼻毛(笑)』などと倒置法を用いて巧みに恥じらいをもたらされたときの悲しみはッ!! 無残にも散っていった恋心はッ!! 俺のこの、やり場の無い想いはッ!!
貴様の命を以ってしてのみ初めて、晴らされるというものだァ!!!!
「……それじゃあ、さよならだなァッ!?」
『よ、よせッ…………よせェーーーーーッ!!!!」
ジュインッ!!
『ぐわあああああああああああああああ!!』
無抵抗ッ!! すんなりと吸い込まれた先端部!! “ その為 ”だけに設計された先端部ッ!! そして実にスムーズかつ迫力の切れ味ッ!! この切れ味こそがダブルブレードッ!!
ジョリジョリジョリリッ!!
『なんとぉおぉおおおぉおぉぉーーーッ!?』
唸るモーターッ!! たかが単三電池一本の電力ッ!! しかし圧倒的回転力ッ!! 鼻腔内を舞い踊る鼻毛達ッ!!
ジュイジュイジョリジョリジュゴゴゴゴッ!!
『おばあちゃああああああああああんッッ!!!?』
悲痛ッ!! おばあちゃんへの熱き想いッ!! ただ悲痛ッ!! 鼻毛と鼻毛カッター!! 本来相容れないはずの二人が奏でる一夜限りのセレナーデッ!!
ジュインジュジュジュインッ!!
ジョリジョリジョリジョリジョリィーパスタッ!!
『パスタアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!』
パスタァッ!! ――――。
「ハァ、ハァ、ハァ………や、やった……」
俺はただ噛み締める……電動鼻毛カッター・マキシマムXが与えたもうた正義のバイブスを……そして散っていった憎き鼻毛達の断末魔、その余韻を。
ただ、静かに――――。
「勝った……勝ったんだ。あのHANAGEに、俺は勝ったんだッ!! ――――」
翌週、俺は風邪をひいていた。
おわり。
おばあちゃんを大切にね
ボンタンアメとかまあまあ美味しいよ