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心はゆらめいて

作者: 橋本春妃

 優ちゃんとお付き合いを始めて、今日で七年になる。


 想いが通じ合ったばかりの頃、私たちはまだ大学生で、四月生まれの私が二十歳になったばかり、十月生まれの優ちゃんはまだ十九歳の未成年だった。

 当時、私は実家から大学に通っていたが、優ちゃんはアパートを借りて一人暮らしをしていた。だから私は、優ちゃんのアパートによく泊まりに行って、気づいたらほとんど同棲生活状態。そんな風にして大学時代のほとんどを優ちゃんと一緒に過ごした。

 優ちゃんは私よりずっと大人びていて、喧嘩したときには決まって優ちゃんの方から「ごめんね」の言葉を発してくれたし、私が眠れない夜にはベッドの中で、私の頭を撫でながら「茉莉、愛してるよ」なんて、最高に甘いのに全く嘘っぽさを感じさせない言葉をささやいてくれた。

 お互いに支えあいながら無事に大学を卒業した私たちは、晴れて本物の同棲生活を始めることにした。

お付き合いを始めて三年、優ちゃんと迎える三度目の春のことだった。

 その頃から周りに、結婚したら? なんて度々言われるようになったけれど、私と優ちゃんは「恋人」という関係を持続させた。これは多分、私の考えに優ちゃんが合わせてくれていたのだと思う。優ちゃんはほとんどの場合、私の考えを受け入れて尊重してくれる。

 私は子どもを産みたくなかった。それがたとえ、愛する優ちゃんとのことであっても、私は絶対に子どもはつくらない、そう決めていた。

 子どもが嫌いなわけではない。むしろ、好きなほうかもしれない。付き合いたての頃にはよく、公園で遊ぶ小さい子どもに声をかけては優ちゃんに、「いきなり声なんてかけたら不審者になっちゃうよ」と怒られていた。

 私が子どもを、自分の子どもを産みたくない理由は、ただ、私の遺伝子を継いだ人間をこの世に作り出すということが受け入れられなかったからだ。私はろくな人間じゃない。精神も弱いし、わがままだし……。

 だから、私の遺伝子は私で終わりにしたかった。

 そのことはお付き合いを始めて、わりと早いうちに優ちゃんに伝えていた。私の、遺伝子が――なんていうわけのわからない話を、優ちゃんはきちんと最後まで聞いてくれた。

優ちゃんの返事は、私が想像していたものよりずっと優しかった。

「そっかぁ。僕はそこまで考えたことがなかったけど、茉莉がそう考えているなら、僕はそれでいいと思う」

「本当に?」

「本当だよ。僕は茉莉が好きだから、茉莉と一緒にいられたらそれでいいんだ」

 私は優ちゃんの優しさ感動を覚えたけれど、同時に優ちゃんのことが心配になって

「もし優ちゃんが将来、子どもが欲しいって思ったら、私のことは気にせずにもっと素敵な女性をみつけてね」

 そう付け加えておいた。

 お付き合いを始めて、四年、五年と月日が経っても、優ちゃんは私を好いてくれていて、私も優ちゃんが大好きだった。


 そして、七年記念日の今日、私は優ちゃんからプロポーズを受けた。

 休日で、目覚まし時計をセットせずにいつもより少しだけ長い眠りから目覚めた朝、二度寝をしようか考えながらうとうとしてる最中に、先に起きていた優ちゃんがベッドに戻ってきて、私にこう言った。

「茉莉、結婚しよう」

 私は寝ぼけたまま、間抜けな声で

「うん」

 と返事をした気がする。きちんと事態を理解し、実感がわいたのは、優ちゃんの作ってくれた朝ごはんを食べ終えた頃だった。

「そういえばさっき、結婚って言った?」

「言ったよ」

「結婚?」

「結婚」

「優ちゃんと私が?」

「そう、茉莉と僕が」

 結婚というものに大した憧れも持っておらず、優ちゃんといられるのなら恋人のままでも構わないと考えていたくせに、いざ結婚しようと言われると、私は嬉しくてたまらなかった。結婚したからといって生活に変化はないけれど、どうしたものか、心がふわふわ浮いているような感覚がして、胸がきゅーっと締め付けられた。

 まるで、優ちゃんと想いが通じ合って、お付き合いを始めた七年前のあの日のようだ。無性に優ちゃんを抱きしめたくなって、お皿を洗っていた優ちゃんの背中にぴたっとくっついてみた。

「優ちゃん、大好き」

「ありがとう」

 優ちゃんは微笑みながら、きちんと最後までお皿を洗い、そのあと私をまだ朝のぬくもりが残るベッドまで運んだ。休日の朝十時。外から近所の子どもたちが騒ぐ声が聞こえる。窓から差し込む光は、お互いの体を照らし、普段は見ることのない優ちゃんの細部までをも鮮明に私の目に映しこむ。

 優ちゃんが愛おしくて、愛おしくてたまらなかった。もう七年も一緒にいるのに、いまだにこんな新鮮な愛おしさが残っていたのかと、自分でもびっくりする。

 優ちゃんと私は、いつもよりゆっくり穏やかにことを進め、いつもより激しく、お互いが限界を迎えて果てるまで抱きしめ合った。もう数えきれないくらい抱きしめ合っているはずなのに、今日のそれはなんだかとても新鮮な感覚で、いつもよりずっとロマンチックに思えた。

 ことが終わり、二人はぐったりとベッドに並んで横になる。優ちゃんの体はひんやりとしていて、くっつくと気持ちがいい。このまま少しだけ眠ってしまおうか……。

「ねぇ、茉莉」

 眠りに落ちようとしていた私の意識は、優ちゃんの声で現実へと戻ってくる。

「茉莉、聞いてくれる?」

 やけに真剣な表情と声の優ちゃんに、私の心が少しだけざわつく。

「僕、茉莉のこと愛してるんだ」

「うん、知ってるよ?」

「僕は茉莉じゃないとダメだ。この先も茉莉と一緒に過ごしたい」

「うん」

 なんだろう、この感覚。なにかざらざらとしたものを口に含んでいるような心地悪さを感じる。

「昔、茉莉は……」

 優ちゃんはそこで言葉を止めてしまい、二人の間に沈黙が流れる。

「なに?」

「うん……」

 なかなか言葉を進めない優ちゃんがもどかしくて、つい口調が強くなってしまう。

「なに? 言いたいことがあるなら言ってよ」

「うん……。茉莉は子どもは絶対つくりたくない、そう言っていたよね」

「……」

 嫌な予感が胸いっぱいに広がり、心拍数が跳ね上がるのが感じ取れた。

「もし子どもがほしくなったら、他の女性をみつけろとも言っていたね」

「……うん。そうだね」

「僕は、このところダメなんだ」

「どういう意味?」

「これまで茉莉の考えはなるべく受け入れたいと思ってきたんだ。茉莉が好きだから。だけど、最近僕はわがままになりつつある」

 優ちゃんは自分の腕で自らの表情を隠すようにし、一つため息をつく。

「僕は、どうしても茉莉との子どもがほしいんだ。茉莉が産みたくないならそれでいいってずっと思ってたのに。最近になって、茉莉との子どもがほしいって思いが抑えられなくなってしまって。どうしようもないんだ」

「子どもが欲しくなったのね」

「うん」

 いつかはそんな日が来るのではないかと、心の片隅で震えていたが、ついに来てしまった。私は、わざとなんともないふりをして強がりを言う。

「いいよ」

「えっ! 本当に!」

「うん、仕方ないよ。優ちゃんが子どもほしいなら私は大人しく身を引くから、素敵な女性探してね」

 優ちゃんの表情が一瞬にして固くなるのがわかった。

「違うよ。ただ子どもがほしいだけなら、茉莉が言っていた通りにするさ。でも。そうじゃないんだ。僕は、僕は茉莉との子どもがほしい……」

「でも、私は産めないよ」

「どうしてさ」

「前にも言ったでしょう。私は、私の遺伝子を私で終わりにしたいの」

「茉莉……」

 こんなにも寂しそうな優ちゃんの顔見るのは、もしかすると七年間で初めてのことかもしれない。それだけ真剣に優ちゃんは私を好いてくれているし、それと同時にそれだけ強く子どもがほしいと思っているのだろう。

「結婚しようって言ったのは、子どもがほしくなったからなの?」

「否定は、できない。けど……」

「けど? 私は子どもをつくらない。優ちゃんには申し訳ないけど、そういうつもりでプロポーズしてくれたのなら、すぐには返事できない」

 優ちゃんの瞳が水分で満たされて、ゆらゆら揺れ始める。

「茉莉は素敵な人だよ。自分はろくでもない人間だってよく言ってるけど、そんなことは全くない。茉莉は、例えるなら美しいガラス玉だよ。確かに少しだけ精神は人より弱いけど、そんなところが茉莉の繊細さをつくっていてとても美しいんだ。僕は茉莉のそんな部分を大切に思っている」

「……」

「僕は茉莉と、この七年間一緒に過ごしてきて毎日がとても幸福だったんだ。たくさんの感情を茉莉に教えてもらったんだよ。愛おしい、心が温かい、嫉妬心、嬉しい涙、もっともっとたくさん教えてもらった。だから、僕は思うんだ。茉莉の遺伝子を継いだ子どもはきっと人を幸せにする」

「人を幸せに……?」

「そうさ。小さいうちは茉莉と僕にたくさんの幸福を与えて売れるだろうし、大きくなったら茉莉が僕を幸せにしたように、きっとその子もまた別の誰かを幸せにするんだ。茉莉と七年も一緒にいた僕が思うんだ、間違いないさ」

 大層なことを言うもんだと思いつつ、私は優ちゃんがそんな風に考えていてくれたことが素直に嬉しかった。けど、優ちゃんが私を認めてくれていることは十分理解できるのに、私はどうしても自分で自分を認められない。

「少し、考えさせて」

「わかった」

 優しい口づけを落とそうと顔を近づける優ちゃんを、手で押しのけ、私はベッドの周りに落ちていた服を身に着ける。数時間前まであんなに幸福な気持ちだったのに、どうして今はこんなにも心が苦しいのだろう。どうして素直に受け入れられないのだろう。優ちゃんがあそこまで言ってくれているのに、私はどうして私を認められないのだ。

やっぱり私はろくでもない人間だ。優しい優ちゃんを傷つけてしまった。


 その後数日間、優ちゃんは子どものことも結婚のことも決して話題に出さなかった。きっと私がそのことについて話す決心がつくのを待ってくれているのだろう。プロポーズも子どもの話もまるで全て夢の話だったかのように、私たちはいつも通りの日常生活を送った。

 その間、私は必死に考え続けた。優ちゃんと別れるべきか否か。前者の場合一時的にどちらも傷つくだろう。けれど、優ちゃんは新しく素敵な人に出会えるかもしれない。きっと別れた傷は時間が快癒させるだろう。でも、今の私に優ちゃんと離れられるほどの強さはなかった。もう七年も優ちゃんに支えてもらってきたのだ。優ちゃんと離れてしまったら、私はその後の生活を、精神状態をまともに保てる自信がなかった。かと言って、後者を選ぶことも私にはできない。

 そしてもう一つ、優ちゃんに子どもをあきらめてもらうという選択肢もあったが、それだけは選ぶまいと決めていた。もしその選択肢を選んでしまったら、また二人で幸せに暮らしていけるかもしれない、けれど優ちゃんと私の間に消えないしこりが残るのは必至だ。それにいつか、優ちゃんに我慢をさせ続けていることに私が耐えられなくなるだろう。

 優ちゃんは、私たちの子どもは人を幸せにできると言っていた。けれど果たして本当にそうだろうか。優ちゃんの遺伝子だけなら、きっと優しくて穏やかで、思いやりのある子になるだろう。けれど私の遺伝子が混ざれば、きっとその子も私のように卑屈で自分が嫌いな人間になってしまうかもしれない。そうなれば、その子自身がかわいそうだ。

 考えても、考えても答えはでなかった。


 優ちゃんにプロポーズされたあの日からすでに二週間が経過し、私は一人で考えることに限界を感じていた。そんなとき、ふと頭に浮かんだのは、大学時代の友人である加奈子のことだった。優ちゃんとの交際を一番に報告し、ずっと応援してくれていた大切な友達だ。加奈子なら、私の子どもを産みたくないという話も知っているし、また、優ちゃんのこともある程度理解しているだろう。

 久しぶりの連絡に緊張したが、加奈子は大学時代と何も変わらない明るい声で電話に出てくれ、数日中に会う約束を取り付けた。


 約束の日、待ち合わせ場所に指定されたカフェへ入ると、先に来ていた加奈子が手を振って呼んでくれた。

大学時代の加奈子は、明るい髪色と流行りに乗った化粧が特徴的だったが、そこにはずいぶんと印象が変わった加奈子の姿があった。さっぱりとしたシンプルな麻のシャツにジーンズという、昔の加奈子からは想像もできないようなラフな格好に、暗く染めた髪を後ろで一つに結っていた。

 そしてなにより驚いたのは、加奈子の隣に小さい男の子が座っていたことだ。

「茉莉、久しぶりだね。全然変わってない」

「いや、加奈子は変わりすぎだよ」

「そりゃあ、卒業してから五年も経ちますからね。変わるよ(笑)」

 変わらない方が不思議だよねー、と言いつつ隣に座っている男の子の頭を撫でる。

「その子は?」

「ふふん、言ってなかったからね。驚いたでしょう! 私の子よ。名前はたくや」

 確かに、大学を卒業してからしばらくはお互いの仕事が忙しく連絡が取れなかった。そして段々と疎遠にはなっていたが、まさか出産していたなんて。

「なんで教えてくれなかったの」

「大学時代の友達には誰にも話してないよ」

「えっ、どうして?」

 加奈子は、眉尻を下げたくやの頭を撫でると

「私、シングルマザーなの」

 そう告げた。

「就職してすぐ恋に落ちて、すぐに子どもできた。この子のお父さんになる人とは、できちゃった婚になるけど、出産して落ち着いてから籍を入れて結婚式を挙げようって話してたのよ。そのときに皆にサプライズで知らせようと思ってた」

「うん」

「でも、この子がまだ私のお腹にいるうちにね、別れちゃったんだ」

 加奈子があまりにも明るく淡々と語るため、私はどんな表情をすればいいのかわからなかった。

「……そんなことがあったのね」

「うん。でも、私たくやが生まれてきてくれて本当によかったと思ってるの。だから後悔はしてないのよしてないのよ。ただ、皆に話すタイミングを逃してしまって。だから誰にも言ってなかった」

 加奈子は申し訳なさそうに顔の前で手を合わす仕草を見せる。そして、隣で退屈そうに足をぷらぷらさせているたくやの頬を、つん、と触って笑って見せた。

「ごめん、私の話になっちゃったね。茉莉の相談って何?」

 私は、今から自分が話そうとしている内容が、どれだけ自分のわがまま要素を詰め込んでいるかを改めて自覚させられたようで、すぐには口が開かなかった。

 私がいつまでも口を開かないので、しびれをきらした加奈子がまた別の話題を私に振ってくる。

「そういえば、優斗くんとはまだ続いてるの?」

「うん、優ちゃんとは今も一緒に暮らしてる」

「よかった~。私、茉莉と優斗くんのことずっと応援してたからさ、今も続いてるって知れて凄く嬉しい!」

「ありがとう」

 今の優ちゃんとのことを考えると、うまく笑顔を作れる自信はない。

「茉莉は大学の頃、絶対子どもは産まない! って宣言してたけど、今も変わらず?」

 痛いところを突かれたと思った。しかし、加奈子からこの話題を出してくれるのは正直今の私には有り難かった。きっと自分からは言えなかっただろうから。

「そのこと、なんだ。相談って」

「なんでも聞くよ。力になれるかはわからないけどね」

 私は、これまで優ちゃんと幸せに過ごしてきたこと、優ちゃんからプロポーズされたこと、そして子どもをつくりたいと言われたこと、自分の気持ち、全て正直に加奈子に話した。

「茉莉は昔からそうだったね。自己肯定が恐ろしいほど低いの(笑)」

「笑いごとじゃないよ……」

「ごめん、ごめん。でもさ、話を聞く限りだけど、茉莉は優ちゃんと一緒にいたいんだよね」

「もちろん」

「でも、自分の遺伝子を継いだ子どもはつくりたくない、と」

「うん」

 加奈子はわざとらしく頭を捻る仕草をみせる。そしてたくやに問いかけた。

「たくや、このお姉ちゃんのことどう思う?」

 たくやは、自前の飛行機のおもちゃから私に視線を移し、

「おねえたん、かわいい」

 まだおぼつかない言葉でそう口にする。

「ほら、たくやも茉莉のこと可愛いってさ」

「そういうことじゃないもん……」

「茉莉はなんでそんなに自己肯定が低いかなぁ。私なんかさ、大学時代に何度茉莉になりたいと思ったことか」

「そんなの初耳ですけど」

「本当だよ」

 加奈子の目が真剣な色に変わったのが見て取れた。加奈子は私の目をまっすぐにみつめ、言葉を続ける。

「ねぇ、茉莉。その自己肯定の低さがどこからきてるのか、昔私に話してくれたよね」

 そうだ、私は昔たった一度だけ、優ちゃんにも話していない自分を認められない原因となるものがどこにあるのか、加奈子に話したことがある。加奈子がそんなことを覚えていたなんて。

「茉莉、お兄さんに最後に会ったのはいつ?」

「大学の卒業式」

「そのとき何か話した?」

「ううん、何も」

 加奈子が大きなため息をつく。

「茉莉、まずはそこを解決しないと。きっとそこが解決すれば、優斗くんとの問題も解決するわ。まずはお兄さんに、会いに行きなさい」


 私は父子家庭の子どもだった。母は私を産んで間もなく、父以外に好きな人ができたと、家庭を捨て、どこか遠くへ行ったと聞かされている。兄と私は年齢が九つ離れているため、母がいなくなったあと、父と兄の二人で必死に私を育てたそうだ。二人のおかげで、私は母がいない寂しさを強く感じることもなく育った。兄は高校を卒業してすぐに働き始め、将来私が大学へ行けるようにとお金を貯め始めた。父も兄も私を大切に育ててくれた。

 中学二年になった私は、三年の先輩に告白され初めて彼氏ができた。その頃の私は、反抗期と思春期のちょうど真ん中で、家に帰ってもろくに父と口を聞かなかった。父は、女の子はそんなもんだろうと、とくに咎めることはなかったが兄は違った。父がどれほど苦労して私たちを育ててきたかよく理解している兄は、父に反抗する私を許せなかったようだ。「親父にその態度はないだろ」「お前、もっと親父に感謝しろよ」そんな風に、毎日のように兄から説教をされ、私はうんざりしていた。

 そんなとき、先輩から泊まりにおいでよと誘われ、私はその日無断外泊をした。次の日家に戻ると、兄はカンカンに怒っていた。「親父が夕べどれだけ心配してたかわかってんのか!」一方的に怒鳴られ続け、私はその日のうちに、「しばらく帰って来ないから! お兄ちゃんなんか嫌い」そう短歌をきって家出をした。

 家を出ている間は、先輩の家に泊まり続けた。先輩の親は放任主義だったため、私が泊まっていることについて、特に言及はしてこなかった。

 しかし、一週間も家に帰らないでいると、さすがに罪悪感が沸き上がってきて、私は家に帰ることを決めた。今日帰ったら、きちんとお父さんとお兄ちゃんに謝ろう。これからはもう少しいい子になろう。そう心で思いながら、一週間ぶりに自宅のドアを開けた。

 リビングにはちょうど兄がいて、また怒鳴られるかとビクビクしながら声をかけたが兄の反応は薄かった。「お兄ちゃん、ただいま」「ああ、茉莉か」私は不安にかられたが、まずは謝らなければ、と謝罪の言葉を口にしようとしたそのとき、「お前、母さんと一緒だな」ふいに兄がそう呟いた。「お前は母さんの遺伝子を立派に継いでるよ。男のところにいたんだろ? 親父と俺がどんな思いでお前を育てたか、全然わかってないな。どれだけこっちが愛情注いでも、結局他人の男のところに行くんだ。母さんと同じだ。お前は母さんの遺伝子を継いだ淫乱女だ」私は言葉が出なかった。実の兄からそんな言葉をかけられるなんて夢にも思っていなかった。私が立ち尽くしていると兄はさらに追い打ちをかけるように「お前の子どもも同じようになるんだろうな。いずれ男と遊びだすぞ」と皮肉な笑いを見せながら言った。

 その先輩とは、先輩の卒業を機に別れたが、兄はあの日以来私と顔を合わす度に皮肉をぶつけるようになった。高校受験に合格した日も、「頭が良くても、遺伝子が淫乱だから意味ねえな」そんな風に私をからかった。父は兄のからかいを止めようとはしなかった。父は父で家出した私に思うところがあったのだろう。

 どれだけ兄にからかわれても、当時の私には自立して生きていくほどの力はなかった。大学に行きたいと思った時も、結局、受験料から入学料まで父と兄に頼るしかなかった。

 兄は「お前は人に頼らないと生きていけないくせに、男のところに家出するわがまま女だ」「母さんと一緒だ」と、いつまでもからかい続けた。しかし、からかいながらも兄が私の生活を助けてくれていたのは事実だ。大学へ進学できたのも、兄の経済的助けがあってこそなのだ。だから私は、いつしか兄を責めるのをやめ、家出をした自分を責めるようになった。

 兄の言葉は確実に私に刷り込まれていった。私が子どもをつくりたくないのも、きっと兄の言葉の呪縛から逃れられていない証拠なのだろう。


 加奈子が言っているのは、そのことだ。兄の言葉の呪縛を解かない限り、優ちゃんとの問題も良い方向へは進めない。だから、兄に会って呪縛を解いてもらいなさい、そう加奈子は言う。


 加奈子と会った二日後、私は兄の職場へと足を運んだ。正直気が重かった。会ったところで何を話せばよいのか見当もつかないし、もしかしたら優ちゃんとの関係も否定されるかもしれない。優ちゃんとの関係まで否定されたら、私はもう金輪際兄と言葉を交わすことはなくなるだろう。頭には兄にからかわれた言葉が次々と浮かんできて、私は怖くてたまらなかった。

 兄の職場は、私の地元にある車の整備工場だ。アポイントを取らず訪ねたため、誰に声をかければよいのかわからず、工場の前をうろうろしていると一人の整備士らしき人が声をかけてくれた。私が兄に会いに来たことを告げると、その人は私を事務所のような場所に案内し、お茶を出し、兄を呼びに行ってくれた。

 心臓がバクバクと音を立てて耳障りだ。このままこっそり帰ってしまおうか。私は緊張で震える手を自分の手で押さえ、なんとか平常心を保つ。

 ガチャっと音がして誰かが部屋に入ってきたことがわかる。私はなかなか顔を上げられない。

「茉莉か、久しぶりだな」

 兄の声だ。

「なんで下向いてるんだよ、顔上げたらどうだ」

 兄に促されようやく顔を上げる。そこには車の整備中に汚れたのだろう、頬を黒くかすめるように汚した兄の姿があった。

「何か話があってきたんだろ。お前が来るなんて初めてだもんな。休憩もらってきたから早いとこ話してくれ」

「まってよ、せかさないで!」

 突然声を上げた私に驚いたのか、兄は一瞬動きを止めたが、すぐになんでもない顔をして私の向かいの椅子に座る。

「じゃあ、お前のペースで話せよ」

「うん」

 私は頭の中が真っ白だった。何か下手なことを言えばまたからかわれるかもしれない。何も言葉が浮かんで来ないまま、数分が経過した。兄が苛立ち始めているのが空気で伝わってくる。

「お兄ちゃんは、私のこと好き?」

 自分でもどうしてそんな言葉が口からでたのか、とても理解できなかった。それはどうやら兄も同じようで、目をまんまるにして私をみている。

「……あたりまえだろ」

「えっ」

「あたりまえだって言ってんだよ。妹だぞ」

「そっか」

 意外な兄の返事に、全身から力が抜ける。

「私、てっきりお兄ちゃんから嫌われてるんだと思ってた」

 兄は真剣な目で私をみつめる。

「まだお父さんとお兄ちゃんと一緒に暮らしてた頃、お兄ちゃんいつもイライラしてたし、私のこと全然認めてくれなかったから」

 兄は黙ったまま何も言わない。

「私はお母さんの遺伝子を濃く継いでるから、お兄ちゃんやお父さんを困らすだけなんだって。私なんかお兄ちゃんにとって、邪魔な存在でしかないんだって、ずっとそう思ってた」

 バンっ。

兄がいきなり机を叩いた音が狭い事務所の中に響く。

「邪魔な存在って、よくもそんなことが言えるな」

「だって、」

「だってじゃねぇよ」

「私は、ろくでもない人間なんでしょう」

 またしても兄が机を叩く。

「何言ってんだ、そんなわけないだろ」

 勢いよく声を発した兄だが、途中で言葉を切るように唇を噛む。

「お前は……優秀だよ」

「えっ」

「だから! お前は優秀だって言ってんだよ」

 イラ立ちともどかしさの混ざった声で兄がそう言う。

「どうしてそんなことが言えるの?」

「どうしてもこうしてもないだろ。お前はみてくれもいいし、頭もいいじゃねえか。兄妹っていう色眼鏡を外しても、お前は優秀だよ」

 私は兄の言っていることが理解できなかった。あれだけ私をからかいつづけていた兄が、私を優秀なんて言うはずがない。

「でも、お兄ちゃんは昔から、私はダメな人間だって」

「そんなこと、まだ覚えて気にしてるのかよ」

「忘れられるわけないじゃない。実の兄に言われた言葉だよ」

「そうか……。悪いことをしたな」

 兄はうつ向き、唇をさらに強く噛む。

 二人の間に沈黙が流れる。兄の呼吸音と外で機械が動く音だけが聞こえてくる。

 どれくらい経っただろう。次に兄が発した声にはまるで勢いが含まれておらず、今にも泣き出しそうな、そんな声だった。

「俺は、母さんが出て行ってから寂しくてたまらなかったんだ。なんせ九年間一緒に暮らしてくるからな。お前とは思い出の重さが違うんだ」

「うん」

「俺たちを置いて行った母さんを恨んだよ。どうしてそんなことができるんだ、って。けど、母さんは母さんなんだ。どれだけ恨んでも恨み切れない。一緒に出ていったその男に振られたら、いつでもうちに帰ってきてくれよって、俺ずっと思ってきたんだ。結局帰ってこなかったけどな」

「……」

「お前が家出したとき、俺凄く怖かったんだよ」

「怖かったって、どういうこと?」

「母さんがいない寂しさを、お前を大切に育てることで埋めてたんだ。あの頃の俺、どうかしててさ、お前までいなくなっちまったら、もう生きてる意味がないって考えてた。お前まで俺の前から消えちまうのかって。お前が帰って来ない間、寂しくて寂しくて。今だから言えるけど、毎晩泣いてたんだぜ(笑)。いい年して親父に慰めてもらってたんだ。茉莉は帰ってくるから大丈夫だ、って」

「お兄ちゃんが泣いてた……」

「恥ずかしい話だよな」

 くくくっと兄は笑って見せる。

「でも本当に寂しかったんだ。俺も素直じゃないからさ、そのどこへも行けない気持ちをお前に悪口を言うことで消化してたんだろ。今考えると馬鹿だよな。いなくなったら泣くくせに、近くにいるときは悪口しか言えねえなんて。馬鹿で不出来な兄だよ。すまなかった」

 そう言うと、兄は椅子から立ち上がり私に向かって大きく頭を下げた。私は兄から告げられたことを頭の中で整理し、自分に理解させ、自分の中に溶かすことに精一杯だ。

「今付き合ってる人、いるんだろ」

「えっ、うん」

「たまに街で見かけてたけど、声をかける勇気がなかったんだ。お前、あんなに幸せそうに笑えるんだな。よっぽどいい奴をみつけたんだな」

「見られてたんだ」

「あぁ、相手もすげえ幸せそうに笑ってたよ。正直羨ましかった。俺も茉莉とあんな風に笑い合ってみたかった」

「お兄ちゃん……」

「結婚はしてるのか?」

「ううん、まだ。少し前にプロポーズされたけど」

 その言葉で兄は初めて笑顔をのぞかせた。

「そうか、よかったな! 茉莉と一緒になるなら、そいつは相当な幸せ者だ。兄の俺が言うんだから間違いないさ」

「……ありがとう」

 私は知らぬ間に涙を流していた。私も兄もお互いに作り合った心の傷を埋められないまま、ここまで来てしまったのだ。私は兄の言葉の呪縛から逃れられないまま、兄はいつまでも私に声をかけることすらできないまま。

 揺れる声で兄を呼ぶ。

「お兄ちゃん」

「ん?」

「お兄ちゃん!」

「そんなに泣くなよ。また会いに来いよな、旦那になる奴も連れて」

「うん」

「茉莉は自慢の妹だからな」

「うん」

 兄に認めてもらい、呪縛から解放された私は背中を押してくれた加奈子に感謝の気持ちでいっぱいだった。

 

 後日、加奈子に兄とのことを伝えるため、この前と同じカフェで再び加奈子とたくやに会った。加奈子は事の顛末を静かに最後まで聞き、なぜかあの日の私と同じように涙を流した。

「茉莉、よかったね」

「うん。加奈子のおかげだよ、ありがとう」

 涙を流す加奈子を、たくやが不思議そうに見上げる。

「まま、なんで泣いてる?」

「これは、うれし泣きって言うのよ」

「嬉しいのに泣くの?」

「そう、嬉しくても人は泣くのよ」

「ふーん」

 加奈子とたくやの会話は、なんだか微笑ましくて自然と私は笑顔になってしまう。子どもって可愛いな……。

「それで、どうなの?」

「へ?」

 ふいに投げかけられた質問の意味を理解できず、間の抜けた返事をしてしまう。

「へ? じゃないわよ。自分のこと、認められそう?」

「あぁ」

 ――自分のことを認められるか。

今ある考えを頭の中で整理し、私は慎重に答える。

「すぐには、無理かもしれない。だって何十年もこうやって生きてきたんだもの。でも、今までみたいにむやみに否定はしない。加奈子や優ちゃんが言ってくれたこと、素直に受け止めてみようって、そう思えるの」

「そう。茉莉がそう思えたのならよかった。少しずつでいいから、ゆっくり自分のこと認めてあげてね。私もたくやも応援してるから」

 私はこんなにも素敵な友人を持っているんだ。優ちゃんもいるし、お兄ちゃんもいる。改めて考えてみても、十分私は幸せ者だ。

「ねぇ、加奈子」

「うん?」

「加奈子にとってたくやってどんな存在?」

 私はふと、加奈子に問いかけてみた。

「んー、なんて言えばいいのかな。たくやのためなら、自分の命を差し出してもいいって思ってる。たくやがここにいてくれるだけで、私は救われてるわ」

「子どもって、やっぱりそういう存在なのかな」

 私にはまだわからないその気持ちを、加奈子はすっかり母親になった顔で教えてくれた。

「この気持ちだけはね、実際に親になってみないとわからないものだと思う。私もたくやを産むまでは、目に入れても痛くないって言葉が信じられなかったの。でも今はよく理解できるわ。自分の子どものためにって思えば、なんだって出来ちゃう。守るべきものができると、人間は驚くほど強くなれるのよ、きっと」

 加奈子の話を聞きながら、私は優ちゃんとのことを考えていた。

「私も、母親になれるかな……」

 ふいに口をついて出た言葉だった。

「大丈夫よ。茉莉がそんな心配しなくたって、産まれてくる子どもが、あなたを母親にしてくれるわ」

 “子どもが、私を母親にしてくれる”

「優斗くんともう一度相談してみなよね」

「うん。加奈子、ありがとう」

 たくやと手をつなぎ帰る加奈子の姿が曲がり角で見えなくなるまで見送ると、私は大きな深呼吸をして、携帯電話を取り出し、優ちゃんへと電話をかけた。


 午後七時。いつもより少し早い時間に、優ちゃんが玄関のドアを開け、家に帰ってきた。加奈子と別れた後、優ちゃんに電話で「今夜、できるだけ早く帰ってきてほしい」と伝えてあったのだ。優ちゃんは忙しい仕事を無理に切り上げ、お願いしたとおり早く帰ってきてくれた。

「ただいま」

「おかえり、優ちゃん」

「どうしたの、急に早く帰ってきてなんて。具合でも悪い?」

「ううん、今日は優ちゃんとゆっくり話がしたかったの」

 優ちゃんは何かを察した様子で、ネクタイを緩めながらリビングのソファに腰掛ける。私も家事の手を止め、優ちゃんの隣へ腰を下ろす。緊張からか、手汗がひどい。

「あのね、この前の話なんだけど」

「ちょ、ちょっと待ってね。深呼吸するから」

 私が話そうとするのを制し、優ちゃんは何度もわざとらしい深呼吸を繰り返している。昔からそうだ。優ちゃんは、私が改まった話を始めようとすると、こうして深呼吸をして心を落ち着かせる。何年も前から見ている些細な癖でさえ、私はその姿を愛おしいと感じてしまう。

「よし、いいよ。話して」

「そんな構えなくても、大丈夫だよ。ねぇ、優ちゃん。私ね、母親に、なってみてもいいかなって、思うの」

「えっ!」

 優ちゃんは私の想像通り、こっちがびっくりしてしまうくらい驚いてくれた。でも、それと同時に優ちゃんの顔に不安の影がおりたのが見て取れる。

「茉莉、その話は僕にとってはとても嬉しいことだけど、茉莉は無理をしていない?」

「無理って?」

「僕が子どもがほしいなんて言ったから、無理に自分の気持ちを押し込めて、そう言ってくれてるんじゃないかって」

「ううん、違うの。少し長くなっちゃうけど、聞いてくれる?」

「うん、話して」

 私は、これまで加奈子にしか話して来なかった自分を認められない理由について、ゆっくりと優ちゃんに話し始めた。優ちゃんはときおり、眉間にしわを寄せたり、唸り声を出したりしながら、私の話を最後まで聞いてくれた。

「そっか。今までそんな事情も知らずに、自分を認めてよ、なんて言い続けてたんだね僕は。ごめんなさい、悪かった」

「ううん、優ちゃんは何も謝らなくていいんだよ。隠してたのは私だから」

「でも……」

「それでね、この話には続きがあって」

 私は加奈子とたくやに会ったこと、加奈子に背中を押され兄に会いに行ったこと。そして兄と何を話したか。その全てを優ちゃんに話した。

 ようやく最後まで話し終え、優ちゃんの方を見ると優ちゃんは泣いていた。

「優ちゃん?」

「……茉莉、好きだよ」

「どうしたの突然」

「茉莉は本当にたくさんの人に愛されているんだね。もちろん一番愛しているのは僕だけれど。茉莉、話してくれてありがとう。茉莉が話してくれて、嬉しいよ」

 優ちゃんは私に抱きつき、泣き続ける。まるで子どものようだ。柔らかくふわふわした優ちゃんの髪を撫でていると心が落ち着く気がして、「これが母性かしら」なんて思ってみたり。

「母親になった加奈子、とっても眩しかった。だから加奈子に会って余計にね、私なんかが母親になれるのかって不安にもなったわ。でも、加奈子が教えてくれたんだ。私が母親になれるかどうかじゃなくて、産まれてくる子どもが私を母親にしてくれるんだって」

「うん」

 優ちゃんはまだ私に抱きついたままだ。

「優ちゃん」

「なあに?」

 私は、ずっと優ちゃんに聞けずにいたことを口にする。

「優ちゃんは昔、私が子どもをつくりたくないって言ったとき、それでもかまわないって言ってたじゃない? このタイミングで、優ちゃんが私との子どもがほしいって強く思うようになったのには何か理由があるの?」

 優ちゃんは私に抱きついたまま、顔だけ私の方へ向け

「もちろん」

 そう言って、とても穏やかな表情でその理由を語ってくれた。

「茉莉は、別に小さい子が嫌いってわけじゃないでしょ」

「うん」

「よく、公園で小さい子に声かけてたもんね」

 優ちゃんがくすっと笑う。

「そうやって小さい子と触れ合ってるときの茉莉の顔が僕は大好きなんだ」

 意外な言葉に私の頭にはハテナが浮かぶ。

「子どもと接するときの茉莉は、まるで太陽みたいにきらきらしてたんだ。僕と接するときの茉莉も素敵だけどね。でもそれとはまた別の種類のきらきらだった。そんな茉莉を見る度に、あぁ茉莉はきっと素敵なママになるんだろうなって」

「そんなこと思ってたの?」

「茉莉の考えは尊重していたけど、それでもそうやってきらきらした茉莉を見ているのは、僕にとってとても幸福な時間だった。最初はときどきああやって子どもと接する茉莉を見ているだけで満足だったんだ。でも僕はこう見えて案外わがままだからね。こんなにもきらきらしている茉莉の姿を、もっと、もっと見ていたいって。いつしかそんな風に思うようになってしまった」

「それで子どもがほしいって思ったの?」

「うん。子どもと接してるときの茉莉はね、きらきらしてるだけじゃなくて、僕から見ても、とても幸せそうだったんだ。あんなに幸せそうな茉莉の笑顔、僕だけじゃ絶対に見られない」

「そう……」

 私はなんだか心がむずがゆくなってくる。

優ちゃんと二人で公園に出かけては、優ちゃんをほったらかしにして小さい子たちと遊んでいた頃を思い出してみる。あのとき、優ちゃんがそんな思いで私のことを見ていたなんて、これっぽっちも知らなかった。

「僕のわがままで、随分茉莉を悩ませちゃったね」

「ううん、いいの。優ちゃんのおかげで、お兄ちゃんとのことも解決できたし。お兄ちゃんがね、今度優ちゃんに会いたいって言ってたよ」

「近いうちに、実現するといいな」

「実現させようよ」

「そうだね」

 優ちゃんが穏やかな微笑みを見せる。

「子どものこと、すぐには無理かもしれないけれど、もう少しだけ私が私を認められるようになったら、そしたら優ちゃん、パパになってくれる?」

 優ちゃんが私を抱きしめる手の力を強める。

「うん、ゆっくりでいいんだ。これからまた二人で楽しい毎日を送っていこう。それで茉莉の心が動いたら、そのときにまた、先のことを考えよう」

「ありがとう、優ちゃん。優ちゃんと一緒にいられて私幸せだよ。私も優ちゃんがいい、やっぱり優ちゃんがいないとダメみたい」

 抱きついたままの優ちゃんの体を離し、まっすぐに優ちゃんの瞳をみつめる。優ちゃんもまた、涙で揺れるきらきらした瞳で私をみつめている。

 そして、どちらからでもなく、その行為があたりまえかのように二人は唇を合わせた。


 自分の遺伝子を自分で終わりにしたい、そう思っていた私は少しずつ変わり始めていた。優ちゃんとの毎日に大きな変化はないけれど、それでも確実にしっかりと、私は自らの変化を実感していた。


 優ちゃんに全てを話したあの日から、三か月。

 その間に私は、優ちゃんを連れて兄のもとを訪ねた。兄は優ちゃんをすっかり気に入った様子で、優ちゃんの肩に手をまわしたりして優ちゃんを困惑させていた。兄に、「茉莉をよろしく頼む」なんて言われて顔を赤くする優ちゃんの姿を見て、やっぱり好きだなと思ったことは優ちゃんには秘密。後で優ちゃんに兄について聞いてみると、「素敵なお兄さんだ」と、そう言ってくれた。

 加奈子とは、この三か月間も定期的に会っていた。ときには母親としての加奈子の愚痴を聞いたり、大学時代を振り返ってみたり。なんてことない会話ばかりだけど、おかげで一人で悩むこともなく今日を迎えられた。

 今日は加奈子と二人ではなく、優ちゃんも一緒だ。三人で話していると、まるで大学生に戻ったみたいで、年甲斐もなくうきうきしてしまう。

 でも、今日優ちゃんを連れてきたのにはきちんとした理由があって。

「加奈子、今までありがとう」

「どうしたの、改まって」

「いや、たくさん支えてもらったなと思って」

「いいってそんなの」

「かなちゃん、僕からもお礼言わせて。茉莉のこと支えてくれてありがとうね」

「優斗くんまで」

 加奈子は私たちの改まったお礼を笑って流そうとしつつも、少し嬉しそうだった。

「かなちゃん、僕たち結婚することにしたんだ」

「えっ、ついに!」

「うん。優ちゃんのプロポーズにきちんと返事しないままだったから、この前私から優ちゃんに逆プロポーズしたんだよ(笑)」

「やるじゃん、茉莉」

「そうでしょう。加奈子に一番に伝えなきゃなって思って、今日は優ちゃんも連れてきたんだ」

「優斗くん、茉莉のことしっかり愛しなさいよ」

「もちろん。かなちゃんに言われなくてもわかってますよ」

「二人とも、おめでとう」

「ありがとうね」

 そう、私と優ちゃんはようやく結婚することになったのだ。それはつまり、私がきちんと自分を認められたという意味でもある。


 優ちゃんは、私の答えが出る日をせかすことなく待ってくれた。

 これからも優ちゃんの幸せを一番近くで見ていたい、私が優ちゃんを幸せにしたい。この人となら、きっとなんでも乗り越えられる。もしも、いつか私が以前のように自分を認められなくなる日が来ても、優ちゃんがいればきっと大丈夫。ううん、絶対大丈夫。そう思えた。

 もし優ちゃんとの間に子どもができたら、私が優ちゃんや加奈子、お兄ちゃんから愛してもらったように、その子を全力で愛してあげよう。いつか大人になったときに、その子がたくさんの人を愛せるように、私たちが愛情いっぱいに育ててあげよう。

 そう自然に思えるようになったから、私は優ちゃんと結婚することを決めた。

いろいろと準備があるから、籍を入れるのはもう少し後になるけれど、優ちゃんと二人でゆっくり、ゆっくり進んでいこう。


 優ちゃんとお付き合いを始めて八年になる日、私は優ちゃんと夫婦になった。そして今、私のお腹の中には優ちゃんと私の遺伝子を持つ小さな小さな命が宿っている。

 優ちゃんの優しさと、穏やかさ。それから、いつの日か優ちゃんが私に言ってくれた、私のガラス玉のような繊細さを受け継いだ、尊い命が確かにここにある。

この子が私を強くしてくれる。私と優ちゃんを、ママとパパにしてくれるのだ。

大好きな優ちゃんと、大切で愛おしいわが子。私たちは他人ではない、家族なのだ。こんな風に今を迎えられたことが奇跡のようで、幸せで。

窓から差し込む光に目を細め、隣で眠る優ちゃんとお腹の中の愛おしい命に、小さな声で「ありがとう」と呟いた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 初めまして。 とても素敵な物語でした!ありがとうございました!
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