ep.2.4
「浩二様、いらっしゃいました」
門の前に立つ検問兵に敬礼をし、階段を降りたその時だった。
階段下に女が立っている。日傘を持ち、隣にいた友人の名を呼び、笑っていた。隣には仕立ての良いスーツを着た老人が立っている。いつの間にか左隣にいた羽衣の顔が険しくなるのが分かった。
「え、何でここにいるんすか」
それで良いのか、と突っ込みを入れたくなるくらい砕けた敬語を話す浩二は、驚いた表情で眼下の女を見た後、一瞬羽衣を見、すぐに目を離した。
「ちょうど近くを通りまして、宜しければご一緒にお帰りできないかと思いまして。あ、ご迷惑でしたか」
「いや、驚いただけっす」
浩二に見習わせたいくらいに丁寧な言葉遣いだった。恐らく、どこかの令嬢なのだろう。しかし、ドレスに身を包んだ黒髪の女など自分の記憶にはいなかった。
「本当ですか、良かったです。最近お忙しそうだったのでなかなかお会い出来なくて、お会いできてよかったです」
「ああ、すみません小鞠さん」
小鞠。そう呼ばれたその女は顔を綻ばせた。聞き慣れない名だ。しかし、純日本人であるあの容姿で、ドレスを着ているのは似合わないなと思った。家柄なのか趣味なのか、どちらにせよ、おかしな光景であることは間違いなかった。
「いいえ、小鞠は浩二様がお忙しいのは分かっていましたから、良いのです」
微笑む女に浩二は近づく。浩二は振り返って眉を下げながら私に声をかけてきた。
「悪い周。俺、先に帰るわ」
一応肩書きは従者。そんな彼が先に帰るのはどうなのだと世間は言うだろうと思ったが、今更そんな事を気にする事も無かった。従者なんて形式上だ。私は彼を一人の友人として見て接しているから、別にいつ誰と帰ろうが文句などなかった。
「ああ構わない。俺も、もう帰るつもりだ」
「なら良かったわ」
「周…、九条の方ですか?」
女は身体を乗り出してこちらを見てくる。君とは正反対の華美なドレスに身を包んだこの女を、直感的に好きにはなれなかった。
一瞬にして無理な人種だと感じたのだろう。決して顔が悪いわけでもないし、むしろ世間的には美しい方だと思うが彼女には及ばないのだ。何より、隣にいる羽衣の視線がこの女の事を物語っている気がした。
「そうだが」
「まあ、ご挨拶遅れて申し訳ございません。梅園の当主様にはご挨拶したのですが。浩二様の婚約者の桜井小鞠と申します。宜しくお願い致します」
ぐっと拳が握られる音がした。それが隣から聞こえたのか、前から聞こえたのかは分からないが、ようやく従者二人の態度に合点が行った。
なるほど。桜井という苗字には聞き覚えがあった。確か帝都劇場を運営している一家だろう。ここ、帝都で一番栄えている劇場の社長令嬢だ。だから似合わぬドレス姿なのだ、納得がいった。
「…俺はよろしくするつもりはない」
関わりたくなかったと言うのが本心だった。わざとらしいその挨拶に腹が立ったからだ。いくら従者の婚約者と言えど、仲良くなる必要はどこにもない。
「ちょ、周、おい。あー、すみません小鞠さん。こいついつもこんなんなんで。さ、帰ろ、帰りましょ、はい、じゃあな」
女を無理矢理車に乗せて、こちらに手を振った浩二に、何かを言いかけた羽衣が押し黙る。私はまた溜息を吐いた。何かあったらすぐこれだ。
約二十年、一番近くで見ていたから分かる。けれど、彼女は叶わぬ願いに縋るほど、か弱い乙女でもなかった。
「ほな梅ちゃん、僕らも帰ろうか」
「何で一緒に帰るんですか。一人で帰ります」
「何言うとるん、一応婚約者やん。周くん堤さんほななー」
世界は思い通りにいかない事が多い。それを今、この場で見せつけられた気がする。
仕方がないのかもしれない。私達は各家の当主であるから、婚約者は親に勝手に決められるのも、そこに感情が無いのも。
幼い頃、何も分からずに駆け回っていた頃には戻れない事を、自分たちが一番よく分かっているはずだ。
幼い少女が隠しに隠し通した恋心が漏れ出す事だって、わざと苗字で呼んで距離を置き、自分の感情を押し殺す馬鹿がいる事だって許されはしないのだ。私達はそういう世界で生きている。
「難儀だな」
「…そうですね」
「触れないのか」
「触れませんよ。あいつら触れて欲しくないみたいだし」
「そうか」
こんな世界で、恋だ愛だなんて現を抜かすのは一般人しかいない。一般人、それかある程度裕福な層の。
この軍服を着ている以上、いつ死ぬかも分からぬ身だ。より優秀な子孫を残す事が、自分達に課せられた使命の一つでもある。だからこそ、私は君に想いを告げないのだ。互いの間に絵に描いたような愛は生まれもしないだろうから。




