ep.2 恋が落ちる
恋に落ちた音がした
鯉が落ちる音がした。
縁側の柱に腕を組んで姿を眺める。その先は近づかない。この屋敷にいる時の私のポジションはいつもここだ。
跳ね落ちた鯉に笑みを浮かべていた彼女が振り向く。瞬間、先程までの柔らかい表情は何処へやら、口を一文字に結び、固い表情でこちらに近付いてきた。
一メートル。そこから先は近付かない。
矢絣の着物が似合うなと思った。会う時はいつもあの着物だった。通学用の着物だ。深紅の袴を靡かせて、しかしこちらには一向に靡こうとしない。
そういう所が好きだ。生まれも育ちも、容姿だって関係ないと言い放った、いつだって気高い、その凛とした姿が。
軍服は嫌いだった。彼女の隣にいるには固すぎるし、何よりこの仏頂面に拍車がかかる。
思っていた言葉を、口に出せなくなったのはいつからだろう。元々不器用だったけれども、歳を重ねる毎に酷くなっていく気がする。世間的に見れば自分もまだ若いはずなのに。
「仏頂面ですね」
彼女は言う。金木犀の花が落ちていった。彼女によく似合う、橙色の小さな花。
「いつもだ」
縁側の柱に背を預け庭を見た。ああ、彼女が立っているだけでこんなにも違うものなのかこの庭は。
鯉がまた、落ちる音がした。
小さな音が聞こえるくらい、この空間は静寂に包まれていた。長い黒髪を抑えながら鯉に笑いかける君を見て、その笑顔がこちらに向かないものかと思わず溜息をついてしまう。
「憂鬱そうですね」
「そうでもない」
「私は憂鬱です」
何が何でもこちらには笑いかけない。そのスタンスは出逢った時から変わらなかった。
憂鬱だ、そう言って目を背ける。ここまで強情だと可愛げが無くなるものだが、残念ながら心底惚れこんでしまっている自分には効果すら無かった。しかし、彼女は私がこれほどまでに想いを寄せ、こじらせているということは知りもしないのだろう。
「もう帰ります。別に話す事も無いので」
「送らせる」
「結構です」
「ちょっと待ってろ」
私は使いの者を呼んで彼女を送らせるように命じた。数回の言葉を交わして別れの言葉を聞いたのち、彼女はこの家を後にする。
走りだした四輪車の後ろ、一瞬振り返って会釈をして去っていた君にまた目を奪われた。
「周様、任務のお電話が入っております」
女中が外套を手に声をかけてきた。休みだったはずの今日は、緊急招集によって潰されるらしい。
外套を受け取り玄関口まで早歩きで向かい、薄汚れた靴を履く。磨いても磨いても綺麗にならないこの靴を、女中達に磨かなくても良いと断りを入れたのは何時の事だろうか。
「今出る」
玄関前には黒塗りの四輪車が止まっている。慣れたように後ろのドアを開け乗り込んだ。
帝都東京。日のいづる国と呼ばれ、八百万の神に護られた島国は神に見放されてしまった。
海底から現れた怪物がこの列島を侵略し数世紀。ここ日本において、人類が安全に活動する事が出来る領域は、東京と京都の二大都市しかなくなってしまった。おかげで文明は著しく後退し、この世界は狂ってしまった。
数世紀前、最後に建てられたゴシック建築の建物は所々ヒビが入ってしまっている。袴姿の女生徒が二輪車を漕ぎ、坂を下っていく。着物を着た人々の中に時折紛れるシャツ姿。
数世紀前から変わっていない景色の中で一部の技術だけは発達されていくものだから、走る四輪車や大量に生産された武器、都内を行き来する列車、一部の富裕層が住む地域にしか置かれていない自動販売機、戦車。
きっと神に見放されていなければ、この景色はおかしいと言われたのだろう。
車の窓から見た行き交う人々は皆鮮やかな着物ばかりで、黒いこの軍服で歩いていればとても目立ってしまう。この黒に袖を通す時に分かっていたはずだが、自分はどうも注目される事にも、ヒーローと呼ばれる事も似合う人間ではなかった。
この軍服はヒーローが着るものだ。幼い子供たちはそれを信じて止まないだろう。しかし生まれながらにしてこの服に袖を通す事が決まっていた私には、決してそうとは思えなかった。
これは死の黒だ。血に塗れたヒーローと名乗る尊い犠牲者が着る色だ。決して綺麗なものではない。
異形を倒す存在として黒い軍服に身を纏った存在、自分は生まれながらにして帝都殲滅隊の人間だった。
有刺鉄線と高い城壁に囲まれた東京と京都を守り、さらに外の世界を元に戻すため異形と戦う。帝都殲滅隊のおかげで、人類の活動領域はここ数十年で少しずつ広がっていった。先に言った通り、有刺鉄線と壁で守られた都市は二つしかないものの、旧近畿地方は大阪や兵庫、旧関東地方では千葉と埼玉を取り返していた。建設中の壁は一体いつ出来上がるかは分からないにしても、人類は異形の侵略にギリギリの攻防戦を続けている。