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アルラウネの憂鬱  作者: 優衣羽
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君のいない世界



「お義父さま!」


「様付けはやめろって言っただろ」


少年の頭を撫でれば、カチコチに固まっていた表情がほぐれる。どうやら偉く緊張していたらしい。会うのは初めてでは無いのに、人見知りな彼はまだ慣れてくれないようだ。


ちょっとした理由で孤児を拾った。数か月前に行われた遠征の際、前線に近い集落を守り切る事が出来なかった。逃げ惑う人々を助けて異形を倒した。全員を救う事は出来なかったが、被害を最小限にとどめる事は出来た。


しかし、その中に少年はいた。

誰もいない家の中、膝を抱えて怯えていた彼に声をかけたのはただの偶然では無かったのかもしれない。


『大丈夫か』


幼い子供に不器用すぎる一言だったと思う。きっと千歳がいたら、頭を叩かれていたくらいに。

けれど、彼は顔を上げて自分に抱き着いてきた。


『怖かったろ、遅くなってごめんな』


泣き続ける子供を右腕で軽々と抱き上げる。少年は驚いて私の目を見た。


しまったと思った。今、異形に襲われて青い瞳を見たのに、再び見せてしまった事に。しかし、少年の返答は予想もしなかった答えだった。


『綺麗、青い目だ』


『…今、お前を襲った異形と同じ、青い目だぞ。怖くないのか』


『怖くないよ。だってお兄さんの目の方が綺麗だもん。空色だ』


不意にまた君を思い出した。

家族を異形に殺されて一人ぼっちになった所を救い、児童施設に届けるつもりだった。しかしその施設は軍直轄の児童施設で、入った孤児は皆、軍人にならなくてはいけない所だった。

最近少しずつ減ってきたけれど、まだ時代の名残はあったらしい。


施設に送ろうとした時、私の手を握る姿を見て千歳を思い出し、思わず引き取ってしまったなんて君には言えない。

まだ幼いこの子には、沢山の可能性があると思ったからだ。沢山の世界を見て、それでも最後には軍人になりたいと言うのなら止めはしないが、最初から選択肢を潰す事はしたくなかった。きっと千歳がいたら同じ事をするだろうし、私が見過ごしたなんて事を知れば、鬼のように怒るのだろう。きっとそんな気がする。


この心はいまだに君に支配されたままで、きっと死ぬまで変わらないのだろう。


目の前の少年は、奥手な性格だった。そのせいで損をした事もあったし、うまくいかない事もあった。私は今まで見守っていたが、もう何回も合っているのに、いまだに同い年の女の子に話しかける事が出来ない彼を、そろそろ何とかしないといけないみたいだ。


背を押し、庭へと送り出す。少年は驚いた様子で振り返った。



「章、言いたい事はその場で言え。いざ口にしようと思った時、手遅れになったら意味が無い」



章は固まる。私はそれでも言葉を続けた。


「勉強が出来なくてもいい、運動神経が悪くても構わない、仲の良い友達が少なくとも、何も言わない。けどな、自分の気持ちに誰よりも正直な人間でいろ。また今度なんて思っても、次はないかもしれない。明日と思っても、明日は来ないかもしれない。言ってする後悔よりも言わずにする後悔の方がよっぽど辛い。分かるな」


彼は何度か頷く。その様子を見て、私はもう一度、背を押した。


走り出した先で、幼い二人が言葉を交わすのが見える。何度か話したのち、楽しそうに駆けっこを始めたから、私は安堵してその微笑ましい光景を見つめていた。


「何、座右の銘?」


「かもな」


八年経っても消える事のない感情は、生涯消え去る事はないんだろうとどこかで確信している。きっとこの先も、千歳以上に好きになる人は現れないから、私は生涯独身だろう。


寂しいと思った事は一度も無かった。だって、この花が存在していると信じ続ける限り、君の幻想はあの庭に残り続けるのだから。だから、あと何年かは分からないけれど、精一杯生きてみようと思う。明日を信じた同胞達の為に。それを教えて私に呪いをかけた、一人の愛する人の為に。



「ああでも、お前がいない世界は結構憂鬱かもな、千歳」



『そうでもなさそうですよ』



声が聞こえた気がした。





ああ、そうだ。花が咲いて、季節が巡っても。



「この想いだけは、生涯変わる事はないだろう」


言葉は空に消えていった。君が死んだあの、秋晴れの日のようだった。

この言葉を言うまで、私は二十年もの月日を費やしてしまった。とんだ馬鹿野郎だ。


身体が重い。骨が悲鳴を上げている。口を開くのさえ億劫になるくらい、いつの間にか短い生は終わりを告げようとしていた。

長かったと言われればそうでもないと答えるだろう。だってあっという間だった。過ぎ去ってしまえば。君がいなくなってからは。毎日を必死に生きた。そうする事でしか、君との約束を守れないと思ったからだ。先に死んだ君の分まで、私は生きたかった。


けれど悲しきかな。普通の人間よりもずっと短い生命活動は今、終わりを迎えようとしている。これも人間離れした能力の代償だとでも言うのだろうか。自分以外の人間には味わってほしくない終わりだ。

しかし、異形はもう、増える事はない。この病にかかって死にゆく子供も、たまたま運悪く生き残り、悪意の満ちた眼差しで見られる子供も、もういなくなるだろう。これ以上、人が人に蔑まれるのはごめんだ。私で終わりにしてくれ。


ああ、でも。私は恵まれていた。

幼い頃から理解者に恵まれ、本物の孤独を味わった事がなかった。ついぞ両親とは分かり合えないまま死に別れたが、それも一つの運命だったのかもしれない。

姿形が変わっても、信じ続けてくれる人たちがいた。この背中を信じ、付いてきてくれる人たちがいた。

良く出来た、心優しい息子を持った。願わくば彼が、私と同じように思いの丈を伝えられないような終わりにならんことを。誰よりも正直に、そして純真無垢で生きてくれたなら。それで充分だ。


『生まれも育ちも関係ありません。髪色も瞳の色も関係ありません』


脳内で凛とした声が反響する。もう二十年以上前の話だというのに、それでもまだ、この身体は君の声を鮮明に憶えている。


『貴方の青は、隠すものではありません。忌み嫌われるものでもありません。もっと誇らしいものです』


『話なんてしなくていいんです。ただ、庭先で共に過ごすだけで良いんです。秋晴れの暖かな日に、貴方の溜息が聞けたなら。それだけで良い』


『人はどんな事があっても、命続く限りは生きていかなければならないものです。大事な人が死んでも、それでも生き続けます。だって後なんて追ったら、それこそ亡くなった人に対する侮辱ですから。どうしても許されないと思うのなら、忘れられないほど焦がれたのなら、その人の分まで生きるのが一番だと、私は思います』



『…今憂鬱ですか?』


「いや、そうでもないよ」


目を細めて笑った。庭先にはまだ、君の幻影が見えている。

縁側の柱に背を預けて腰を下ろす。鯉に微笑みかける君がいる。こちらを見て不服そうな顔をした君がいる。ボロボロになった着流しを見て、嬉しそうに微笑む君がいる。


『ちゃんと着てくれた』


「約束だったろ」


ああ。何の幻なのか。

死の間際、いもしない神様が叶えてくれた夢幻か。

私は今、あの日の君と話している。


「矢絣の着物が、似合うと思った。深紅の袴を靡かせて、鯉に微笑むその顔が、こちらに向けばいいのにと思っていたんだ」


『そうですか』


君はおかしそうに笑う。一歩、また一歩と私に近づきながら。


「金木犀が似合うと思っていたんだ。その長い髪についた小さな橙の花に嫉妬するくらいに」


『私は爆蘭の方が好きですよ』


「何でだ」


『だって貴方がくれた花だから』


柔らかな小さな手が、私の両頬を包み込む。優しい、とても暖かな陽の光がした。


『アルラウネは見つかりましたか?』


「見つかってたら、俺はこんなに老け込んでない」


『確かに、ごもっともです』


「あとお前に会ったら言おうと思っていた。人の手記を勝手に読みやがって」


『不可抗力です、不可抗力』


「言い訳するな」


私は軽くその額を小突く。小さな悲鳴を上げて額を抑えた彼女は抗議の目線を送ってきた。


『…憂鬱です』


「そうか」


『ずっとお傍にいましたよ。ここに』


右手が、優しく心臓に触れた。知っているよ。そんな事。でも、一番伝えたかったのはこんな事じゃないんだ。


『皆さんも』


君の背に、数多の黒が見える。それはあの日、自分を信じて散っていったヒーロー達だ。


「…ああ、そうか」


天を仰ぐ。空は綺麗な青だ。


『それではどうぞ、まだ言いたい事があるのでしょう?どうぞどうぞ、皆さんの前で』


何の公開処刑だ。彼らは皆、にやにやと笑っている。野次を飛ばす者も現れた。


「…お前」


『いいじゃないですか。ずっと、その言葉を待っていたんです。出来る事ならもっと前に聞きたかった。だから、仕返しです』


いたずらが成功した子供の様に無邪気に笑った君に、私は溜息をついた。

深呼吸を一つ、そして向かい合った。



「なあ、千歳」


好きだ。嘘だと言われようがこの愛は本物だ。例えそれが、君に届ける事の出来なかった言葉だとしても。この想いだけは、本物だったんだと言わせてくれ。出会ってから今までずっと、君の事が好きだった。これまでも。そして、これからも。



「好きだ。出会ってから今までずっと。お前が好きになってくれた時よりずっと前から。大好きだった。そして、この先もずっと、俺が恋をしたのは千歳、お前だけだったんだ」



微笑んだ千歳が私を抱きしめる。その温かさに目を閉じた。世界の音がどんどん遠ざかっていく。喧騒も何もかも。静寂がやってくる。

けれど何も怖くはなかった。やはり、私は人に恵まれたのだなと薄れゆく意識の中思う。だって一人じゃない。ずっと傍にいてくれた。数多の命を背負ってきた。数多の死を背負ってきた。背負ってきたつもりが、いつの間にか皆背を押してくてれいた事に気が付いた。

こんなどうしようもない中年になってまで伝えられなかった想いをくすぶらせて、死に至ろうとした自分を見かねて、彼らが最期に起こしてくれた奇跡だ。


きっとこれから、私は千を生きる人になるのだろう。世界を救った英雄、黒服のヒーロー。青い目の正義の味方。ずっと語り継がれていく。異形の足跡が消え去っても。


私が千を生き続ける限り、彼らも千を生きるのだ。そして、千を生きると名付けられた君も。


「なあ千歳」


だから、最期に一言だけ言わせてくれ。



「それはちょっと憂鬱だよな」







恋が落ちた音がした。

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