ep.4.3
絶望の足音が大きくなる。
死ぬつもりはないけれど、どこかで帰れないと理解している自分がいる。
今、ここで死んだら、君は一人になってしまうけれど、きっと大丈夫だ。
まだ若いから、この先いくらでも未来はある。いくらでも、可能性は広がっている。だから大丈夫だ。悔いはないと言えば嘘になるけれど、覚悟は当に決まっていた。
視界の先、ずっと遠くに、何か白いものが動いた気がする。
言い様もない恐怖が、自分の中でうごめいた。
白いその触手は、まるで布のように揺らめいている。次の瞬間、竜のような図体をした大きな生物が姿を現した。誰かが息を飲んだのが分かった。いや、誰かではなく、皆が。
半年前、中院家で見せられた資料の怪物と、あれは全く同じ姿であった。私達が周りの異形をほとんど狩ったからなのか、周りには何もいない。相手は単独だった。
ここで仕留めずどこで仕留める。私は手を広げ、後ろにいた部下たちに指揮を出した。
「左右に分かれろ、俺は左から攻める!」
そう、言った瞬間だった。
雷の如き声音が響き、大地が震動する。世界が光り輝く。
「危ない!」
羽衣の叫び声が聞こえ、私の身体が大きく反れた。
次の瞬間、光が私達を包み込む。押されて倒れ込んだ地面が妙に熱い。地面が熱いのだろうか。いや、違う。左手が熱い。おかしいと目を開ければ、そこにはあり得ない光景が広がっていた。
「は…?」
声が震えた。地面は焼け爛れ、私の後ろにいたはずの兵のほとんどが消し炭になっている。血と硝煙の匂い。自分のすぐ隣にいたはずの五条の姿がない。おかしい。
地面に落ちている刀が血塗れになっていた。それは五条のものだった。焼け焦げた軍服の欠片と、腕の一部がそこに転がっている。
「おい、嘘だろ…五条、どこに行った返事をしろ。いつものように軽口を叩けよ、おい」
ずっと後ろに控えていたはずの浩二の叫びが聞こえた。その様子はとても焦っていて、泣き出すのを堪えている。部下が、皆が、五条が。しかし、浩二の口から出てきた名前は別の名前だった。
「羽衣!」
羽衣?浩二が苗字で呼んでいない時は、相当焦っている時だと知っている。光に包まれる前、羽衣の声が聞こえたはずだ。おかしい。まさか。そう思った直後、後ろから小さくうめく声が聞こえた。
「周、無事ですか」
「羽衣、良かった生きて…え…」
地面に着いたままの尻を上げて後ろを振り向いた瞬間、息が止まった。
羽衣の両足がない。
正確には膝から下が。真っ赤な血で染まっている。
そこには何もない。羽衣は気が付いていないのか、こちらの心配ばかりをしてくる。
「おい、お前、それ」
「とっさに庇って正解でした…。あれ、周…左腕が」
左腕。そう言われて左腕を上げた。しかしおかしい。何かが上がった気配がない。左腕を見れば、そこは綺麗に何も無くなっていた。
「え…」
脳が認識したと同時に、耐えられない痛みが走り出す。左腕を必死に抑えつけてうずくまった。呼吸が乱れ始め、冷や汗が溢れ出す。しかし、私の意識は自分の左腕よりも、目の前で必死に涙を堪えて笑う幼馴染に向けられていた。
「おい羽衣、周生きてるか!」
駆けて来た浩二が絶句する。私達を見て、涙を流し始める。羽衣の唇がガタガタと震え始めたのが分かった。もう春だと言うのに彼女は寒いと呟く。血が足りないのだ。浩二は着ているものを脱いで必死に羽衣の足を止血し始める。
「くそ、止まれ、止まれよ!」
「浩二、私はいいから周に…」
「黙れよ、惚れた女に言いたい事言えないまま、こんな所でさよならする気は無いんだよ!」
浩二は泣きながらも、止血する手を止めない。羽衣のポケットに入っていた血止め薬を彼女の足に塗りたくっても、効果は全然見えなかった。
「周、動くな止血する!」
「堤さん…」
駆けて来た堤が、左腕を止血してくれたが、この異形のウイルスが混ざった身体がここぞとばかりに能力を発揮してくれたようで、血はゆっくりと止まっていく。しかし、肩口から無くなった腕は、どこからも戻る気配は無かった。
「周」
弱々しい声が。確かな意思を持って私の名を呼んだ。
声の主は笑っている。私を見て、笑って胸元を触る。それは彼女が出撃前、決まってやる仕草だった。
「いやだ…」
真意を分かってしまった。首を何度も横に振る。嫌だ、嫌だ、駄目だ、止めてくれ。
「私、弾数が残り二発だって知ってます」
「いやだ、撃つもんか、お前には絶対撃つもんか」
「周」
羽衣のなだめるような声が聞こえる。堤は目を逸らし、浩二は下を向いたままだった。
「私もう帰れません」
その言葉と同時に、怪物が唸り声をあげて後退し始める。涙が溢れた。
目の前の幼馴染は、もう、生きる事を諦めている。帰る事を。全てを。
もう一人の幼馴染は、もう、気が付いている。先がない事を。ここで終わる事を。
右手で拳銃を握った。震える手で、彼女の額に銃口を当てる。羽衣は涙を流して笑ったまま、ゆっくりと目を伏せた。人差し指がトリガーに触れる。
嫌だ、このまま、ここで死ぬしかないのか。
大事な人をこの手にかけて。このままこの地で死ぬしかないのか。
未来は絶望しかない。もう駄目だ。そう思い引きかけたその時だった。
『桜が散る前までに帰って来て下さいね』




