ep.1 遠い日の思い出
僕は彼が大好きだった。
『言いたい事はその場で言え。いざ口にしようと思った時、手遅れになったら意味が無い』
これが父の口癖だった。父と言っても、僕は孤児で、彼とは血の繋がりすらなかったのだけれど、それでも尊敬する親だった。
初めて会った時よりもずっと老け込んでしまった。そう言った彼の姿はとても男らしく格好が良かった。同性は憧れ、異性は惹かれる、老若男女問わず人気だったそんな人。
ヒーロー。
世界を救った英雄。
彼を表す言葉には全て、憧れと称賛に溢れていた。勿論、僕もそんな彼に憧れたうちの一人で。
鍛え抜かれた肉体に顎周りを少しだけ残した金の髭が良く似合っていた。
いつもは黒い軍服に身を包んでいて、その目は軍帽で隠されている。けれど、家にいる時の彼は堅苦しい称号だらけの軍服を脱いでいた。
緩い灰色の着流しを着て、暇な時間はいつも、縁側に腰掛け、庭を眺めている。あの灰色の着流しはお気に入りらしく、左袖の裏に小さな紫の刺繡が入っていた。義父は左腕が無かったから、その刺繍は簡単に見つけられた。
もうその着流しをどれだけ着たのだろう。所々ほつれてしまったそれを、彼は大事そうに着ていた。幼い頃、縁側に座っていた彼の左隣に座って尋ねてみた事がある。
『どうしてそればかりを着るんですか?』
『どうして…大事だから…かな』
縁側に腰掛けている時、彼はいつも一点を見つめていた。寂しそうに、懐かしむように。小さな子供でも分かるその悲しげな表情を見て、その時ばかりはあまり話しかける事をしなかったのを憶えている。
『大事なものは肌身離さず持っておけ、そして傷をつける事なく大切に扱えと義父様は僕に言っておりました。それも大事なものではないのですか?』
『ああ、これは良いんだよ』
小さな僕に、その表情が意味する感情なんて分からない。
本を持って隣に座れば、彼はその本を受け取って少しだけ笑う。そして片方の手で器用にページをめくり「どこが分からないんだ」と問うた。僕は鉛筆で漢字を指す。「ああ、これはな」と言って読み仮名を教えてくれる。彼はとても頭が良かった。
紙を渡せば書き順を教えてくれる。彼が僕に鉛筆を渡して、小さな声で「ん」、それだけを発した。これは真似してみろと言う事だ。
僕は鉛筆を持って、彼が書いた綺麗な文字を真似る。ぶきっちょで下手くそで、歪んだその字はとても隣に並べるのは相応しくない。けれど、彼はこれで良いと言う。
「よく出来た」
そう言って僕の頭を撫でる。僕はその手が好きだった。
『本人がちゃんと使えって言ったんだ。だから大事に着てる』
大事なものは僕にとって何だろう。
沢山の本。
使い古して小さくなった鉛筆。
庭で見つけた綺麗な小石。
この屋敷。
幼馴染の女の子。
そのお母さん。
お父さん。
女中さん。
彼。
『本人とはそのお花の刺繍をした人ですか?』
『…こんな所にある刺繍をよく見つけたな』
『ちょうど見えたのです』
いつも、軍帽で隠していたその髪と目は、この姿の時だけ見る事が出来た。僕は小さな頃から彼のこの姿が大好きだった。おろしていたはずの髪は、この姿の時だけ上げられる。
そう、この着流しを着ている時だけ。
長い前髪を掻き揚げた彼は相変わらず男前で、少し癖のある固めの髪は跳ねていた。
僕がどうしてこの姿の彼を好きなのか。それは目を見る事が出来るからだ。
桃花眼。二重瞼に美しい切れ長の目。長い睫毛に色っぽい姿。異性は勿論、同性も魅了する。この目はその昔、忌み嫌われる対象であったが、僕はそうじゃないと思う。
だって美しかった。多くの戦場を駆けて、僕が知らない沢山の経験をして。それでもなお、あの瞳の輝きは変わらない。あの日、僕を拾ってくれた時に見せた、透き通る空色を。
『この刺繍下手くそだろ』
それは長年着ていたからボロボロになってしまったのか、それとも最初からボロボロだったのか。どちらかは分からなかったけれど、小さな花の刺繍は酷く不格好だったのを今でも僕は憶えている。
『センス無いよな』
そう言って彼は煙管を咥えた。煙が宙を舞う。舞って舞って模様を作り、空へと上がって同化していく。
『それは何の花なのですか?』
『これはな…』