ep.3.2
「横浜奪還作戦…、義父さんが…」
一枚一枚丁寧に手記をめくっていた手が止まる。二十年以上前の作戦だ。前に殲滅隊の作戦資料で見た事がある。
義父が奪還した横浜は、今日では人の集まる豊かな港として栄えている。多くの人が観光で訪れ、異形なんて過去の物、見た事すらない人間だって大勢いる。英雄と呼ばれる由縁はここにあったのか。
「章様、お客様です」
「あ、はい」
読みかけていた手記のページに指を挟んで、使用人に返事を返した。反射的に、呼ばれた声に振り向いたものの身体はそこから一歩も動けず、立つ事さえ出来なかった。
「章、いるの?」
微かに僕を呼ぶ声が聞こえた。床が軋む音がする。ゆっくりとその軋みは近づいてくる。
「…いるよ」
僕は視線をそちらに向けて、小さく返事をする。そうすれば軋みは止まり、その代わりに橙の鮮やかな着物を着た幼馴染の姿が現れた。ほっとした表情で僕を見る彼女に、隣に座るように促した。隣の空いたスペースに腰を下ろした彼女は、突然、僕の頭を叩いた。
「痛い!」
鈍い音が庭に響き渡る。容赦なく振り下ろされた鉄拳は、一応軍人である僕よりずっと強い気がする。今まで何度も叩かれた事はあったけれど、今回のは違う、いつもよりずっと強かった。頭をさすりながら彼女を見れば、なぜか涙をこらえていた。
「え…和葉…」
「この馬鹿!大馬鹿、本当に馬鹿!」
「えぇ…」
僕の腕を叩きながら泣きだした彼女に酷く困惑した。一体、僕は何をしでかしたのだろうか。何もした覚えは無いのだけれど。
「お葬式の後、連絡取れなかったから、電話かけても繋がらないし…。どうしようかと思って」
「え…お、お葬式ってさっき終わったばっかでしょ?」
「何言ってんの馬鹿!二日前に終わったでしょ」
二日前?そんなはずないと思い、腕時計を見れば本当に二日が経っていた。心なしか身体が冷え切っている。僕は手記に夢中で、気が付けば丸二日、寝る事もせずにここで手記を読み続けていたらしい。
和葉は泣きながら僕に縋りつく。僕は「ごめん」と言いながら彼女を抱きしめていた。そして感じる彼女の温もりに、僕の冷え切った身体が温まっていくのが分かった。
「ごめん和葉。僕読むのに夢中になって、知らぬ間に二日もここにいたみたいだ」
「心配した」
「ごめん」
「叔父様亡くなってから連絡つかなくなるなんて、悪い予感しかしないでしょ」
「だよね。僕も今凄い反省してる」
「女中さんに聞いたらずっと曖昧な返事しか返って来なかったって」
「うわぁ…後で謝っとこう」
身体を離して目と目が合う。和葉は鼻を啜りながら突然指を差した。
「え、なに」
「とりあえずお風呂入ってきなさい!食事の用意はしてるって女中さん言ってたから、まずは一回温まってその軍服脱いできなさい。それからご飯食べてちゃんと寝なさい!私、今日こっち泊まっていくから」
「え…え…」
「ほら行く!」
「はい!」
和葉に怒鳴られて、手記を片手に脱衣所に向かう。黒い軍服を脱いで温かい湯に浸かれば、自然と心が楽になった。
僕が落ち込んだり、うまくいかなかった時はいつも和葉が助けてくれる。義父さんは何も言わずに見守ってくれたっけ。ああ、また思い出して泣きそうだ。
僕は風呂場から出て置いてあった着替えに袖を通した。義父は着流しを着ていたが、僕はワイシャツの方が好きだった。黒いスラックスを穿いて肩にタオルをかけたまま脱衣所を出る。廊下ですれ違った使用人達に「迷惑をかけてごめん」と謝れば、優しい声で「良いんですよ」と微笑まれたから、また泣きそうになった。
「ごめん、お待たせ」
襖を開けて正座をしていた和葉に声をかけた。僕の私室の窓辺から景色を見ていた彼女のすぐ近くに座る。
「風邪引くわ」
「いつも迷惑かけてごめん。ありがとう」
僕の肩にかかっていたタオルをはぎ取って、和葉は僕の頭を拭き始める。いつもは「自分でやるから大丈夫」と言うけれど、今日はその優しさに甘えたかった。
「何を読んでたの」
髪を拭きながら、和葉は僕に問いかける。
「義父さんの遺品。浩二叔父さんが持って来てくれた」
「お父様が?」
「うん」
自分の父の名前が出てくるとは思わなかったのだろう。和葉の手は一度止まり、そして再び動き始めた。
「義父さんに言われた通り、言いたい事は言える時に言ってきたつもりだった。だけど、義父さんがいなくなってから、初めてこんなに聞きたい事がある事に気が付いてさ」
「例えば?」
「…あの縁側で義父さんが見ていた風景が知りたかった。この手記を読んだら、理由が分かるかなって。でもまだ十分の一も読めてないんだけどね」
僕は笑う。和葉は優しい手つきでタオルを取った。
「はい、終わり」
「ありがとう」
「どういたしまして」
僕等の間に静寂が流れた。不意に和葉が口を開く。
「読んでいいよ」
「え…」
「読みたいんでしょ、読んでいいよ。その代わり、私も隣で見てもいい?」
「良いけど、何か気になる事でもあった?」
「お父様とお母様のことも、書いてあるかなと思ったから。それと生前叔父様に言われたの。『お前は両親にも似てるけど、言動はあいつに似てる』って。そのあいつって誰なんだろうと思って」
あいつ。義父が言ったその人物に、心当たりがないわけでもなかった。しかし、確証がないから、和葉と共に読み進めていく事にした。きっと、義父が言っていたあいつは、この手記の半分以上を占める人の事だと思いながら。