ep.3.1
何度目かの深呼吸の後、ゆっくりと目を開ける。五感が優れていくのが感じる。
この身体はどこまででも遠くを見渡せる。どんなに小さな声も聞き逃さない。誰よりも早く動き、誰よりも早く走る事が出来る。どこまでも残忍になれる。振り下ろす手は躊躇わない。
大丈夫。
私は軍人だ。帝都殲滅隊十番隊指揮官、九条周大佐だ。
いつも通り、言い聞かせてその場を立ち上がった。作戦開始までまだ少し時間がある。その場を離れようとした時、後ろから聞こえた小さな声に足を止めた。
「…周」
「聞こえてるぞ」
「さすが、耳が良いですね。もしかして足音からばれてましたか?」
「ああ」
「なんだ。昔から、周を驚かせようとしてもすぐにばれちゃうんですよね。気が付かない振りをして驚いたリアクションでも取ってくれれば、私も報われるのですが」
「…わー、驚いた」
「すみません。こっちが悪かったです」
笑いながらこちらに駆けてくる羽衣に、私は元の木箱に腰掛けた。
「召集までまだ時間があったので。先に貴方がどこに行ったのか見つけておこうと思いまして」
「召集の合図は聞こえる」
「そうじゃないです。一応、従者らしく一人が大好きな周の為に、一人でいる時間を作れるように配慮して、声をかけるタイミングを計っていたんです。よく出来てる部下だと思いません?自画自賛しちゃう」
「そうだな、もう一人の馬鹿よりは」
私の隣を何食わぬ顔で座る羽衣は寒そうに身体を揺らしている。
「そのもう一人の馬鹿ですが、何か刃こぼれを見つけたみたいで必死こいて研磨してましたよ」
「普段どんな扱いしてるんだよ」
「ほら、あの馬鹿の愛用武器、薙刀じゃないですか。だから本人曰く、こっちに来る時に載った車の天井に何度もぶつけたんだ、俺は悪くない、あの車が悪いんだ。だそうです」
私は行きに乗ってきた車を思い出す。確か貨物用のトラックだったはずだ。二十人近く荷台に乗る事が出来る、かなり大きなもので天井も高かった。
「何で横に倒すとかしなかったんですかね。というより、たかが天井に当てただけで零れる刃なんてどれだけ脆いんだって話ですよね」
「嘘だな」
「嘘ですね。大方、この前の出撃からちゃんと手入れしてなかったんですよ」
そう言い私達の間に静寂が訪れる。隣を見れば、羽衣は空を見上げていた。いつも簪で留めていたはずの羽衣の髪は、高い位置で一本に結ばれ尻尾のように揺れている。
多分、大切なものなのだろう。こんな所で失くしたくないから外してきたのだろう。
「寒いですね」
「そうだな」
「向こうは降ってますかね」
「…さあな」
せっかく忘れたはずの君がまた顔を出した。
今、何をしているだろうか。学校だろうか。屋敷にいるだろうか。
大きな窓からこの雪を見て、この戦場にいる自分の事を、気にかけてくれてはいないだろうか。
隣から金属の擦れる音がした。羽衣の両腰に差さった剣に付いた装飾が、木箱に当たる音だった。
「そういえば駐屯兵から聞いたんですが、川崎の壁、早くて来春に出来るらしいですよ」
「早くないか?」
「ですよね、私も驚きました。今回が成功しようがしなかろうが、早く固めておきたいみたいです」
三ヶ月前に死地だったここは、未だ荒れてはいるものの、何とか人が住めるような環境に変わっていた。随分早い変わり様に、驚きを隠せなかった。
さらに、百メートルは余裕で越すであろう壁が建設段階に入り、既に土台が出来上がっている事も。
地味にプレッシャーをかけにきてるなと思った。それだけ失敗が出来ないのだから、死んでも良いから奪還せよという上の意思が笑いそうになるくらい伝わってくる。
遠くから笛の音が響き渡る。召集の合図だと言わんばかりに兵士達が走り出す。私達は重い腰を上げた。
「さ、行きましょうか。連れてきた十番隊の兵士達は西園寺様の部隊と彼の指揮のもと正面から最初に切込みます。私の部隊と三番、六番隊は皆医療班に。五番、七番隊は左翼から攻め二番隊と八番隊は右翼から攻めます。とりあえず今日からどのくらいかかるか分かりませんが、一番端の青葉区から制圧。その他部隊は防衛線だそうです」
走る兵士達を横目で見ながら、私達はゆっくりと歩きながら向かう。優秀な従者は、先に作戦概要を聞き、噛み砕いてくれたらしい。
「で、俺達は別だろ」
「そうです。私達五人は、真正面から切込み隊より先に先陣を切るらしいです。笑っちゃいますね」
隣の羽衣はおかしそうに口元を抑えて笑う。切込み隊より先に切り込むって何だ、訳が分からないなと思った。
だが、自分たちの役目はいつもこんなものだったなと思うと、さほど気にならなくなってきた。
「砲台から迎撃した後全力で走れ、だそうです。一体私達を何だと思ってるんでしょうね。どうやってよけろって言うんですか」
「運だな」
「本当ですよ、運と勘ですよ」
中央の広場が見え始める。そこには埋め尽くすほどの黒が整列していた。
「整列してますよ、遅くないですか」
「いつもだろ」
「確かに。さて」
隣を歩いていた羽衣が私の前に立つ。
これはもう、戦場に出る前の恒例行事になっていた。彼女は私の胸元に手を添え、そこに仕舞った拳銃を触る。
「ちゃんと撃ってくださいね。無様に生き延びるのだけは勘弁なので」
「撃たないかもしれないぞ」
「撃ってください」
羽衣は私の目を見る。君とは違う、こげ茶色の目が私を映す。
「私が命を預けるのは貴方だけです。無論、うちの部隊は皆そう思っています」
「俺が撃たなくても良いように生きてくれ」
「それは勿論。トリガーを引くのは、私が本当に諦めた時にしてください」
羽衣の手が離れる。真剣な表情から一変、おどけて笑い始める所を見るのは、もうこれで何度目だろう。
「さ、行きましょう。そして命令を、九条大佐」
「ああ」
再び被り直した軍帽に手を置きながら、三週間前に別れた千歳の姿がまた、脳裏をよぎった。
数多の戦場を駆けて来て、多くの作戦を成功させてきたが、今回ばかりはさすがに尻込みしそうだ。
高台に立ち、指揮を執り兵士を鼓舞する上司に、相変わらず口だけは達者だなと思った。いや、実際は口だけでも無いのだが。
川崎市の端、あと数分も歩いたら横浜市に入るであろうこの場所が、横浜奪還作戦の本拠地であった。降り積もった白を埋め尽くすように黒が密集している。やがて、兵士達は各隊に別れ武装を始める。その姿を見ながら思った。
ああ、一体どれほどの人間がいなくなるのだろう。
「周、行くぞ」
遠くから手を振る浩二の姿を確認してから歩を進める。
「何か作戦はあるか」
「いや、特に無いですよ。いつも通り、死ぬなくらいしか」
声をかけてきた堤に返事を返す。有刺鉄線で囲まれた先、門の前には四人が立っていた。その先に異形の姿は見えないが、荒れ果てた大地と瓦礫だらけの崩壊した世界が目に入る。
千歳は知らないだろう。こんな世界がある事を。いや、知らせない。私が千歳の目に入る前に、この地を元に戻そう。
「準備は良いか?」
「ばっちりやで」
「おう」
「はい」
「周こそ」
浩二が笑いながら肩を叩くから、私の口角も上がってしまった。
「当たり前だろ」
「よっしゃー、じゃあ行きますかね」
ゆっくりと、鉄製の門が音を立てながら開かれる。一歩踏み出して、目を閉じる。大きな爆発音とともに目を開き、瞬間駆けだした。