ep.2.8
世の中理不尽な事ばかりだが、今日はまさにそれを実感する一日であった。
確かに、あれを倒せば世界が救われるだろう。しかし、あれを倒すのにどれだけの兵がいる。どれだけの時間がいる。東京の兵だけで勝てるのか。そもそも、倒せたとして生き残りがいる。
もしかしたら、産みの母がまだいるかもしれない。原種が一体とは誰も言っていない。
根本的な解決になっていないじゃないか?
それを解決しない限り、何度だって繰り返されるのではないか?
今、多くの人間の命をかけて倒せたとしても、再び復活したらどうする?
彼らの犠牲の意味は?
まず、あんな怪物倒せるのか?
「周様、周様!」
耳元で聞こえた大きな声に、思考が戻ってくる。振り向けば千歳が立っていた。
ああ、そうだ、玄関から門まで送ると彼女が言い出したのだ。自分は反対したが、私有地なら許すと言った義父様に負けて、門までの長い道のりを共に歩いていたのだ。
「ようやく戻ってこられましたね。先程から、ぶつぶつ独り言を言っていて気味が悪かったです」
「それは悪かったな」
「考え事を邪魔するつもりは無かったのですが、顔色が優れないようなので止めました。大丈夫ですか?」
そう言う彼女はいつにもまして弱気な声だ。
「先程はすみませんでした、庇って頂いて」
「別に構わない」
「それと、私、初めて奪還作戦の事を聞いたのですが、なぜ言ってくれなかったのですか」
「お前が帰った後、突然招集がかかって聞かされたんだ。だから正式な内容を聞いてから言おうと思っていた」
本当だ。情報公開が解禁になる前の日にでも言おうと思っていたのだ。彼女はそんな事を気にするような素振りを一度も見せた事が無かったから、別に今すぐでなくても良いだろうと思っていた。
「そうですか」
「一体どうした。お前、そんな事気にするような人間だったか?俺が任務に出て帰って来なくても、別に何も言わなかっただろう」
「言わなかっただけです。ですが、素人目から見ても今回は大きな作戦だと分かるのです。前回の作戦で死者が五万人以上出たから余計に怖いのです」
震えていた。
声が。
身体が。
本当に恐怖を感じていた。私も、表には出さなかったものの心のどこかで恐れを感じていた。
「軍人である以上、生きて帰るなんて約束は出来ない。それはお前がこの婚約を飲んだ時に言った」
「始めに聞きました。だから憶えています。でも、だからこそ口に出しませんでした」
「いつにも増してしおらしいな」
「まるで人が普段は煩いみたいな言い方、やめて頂いてもよろしいですか」
「事実だろう」
「本当に腹が立つ人ですね。貴方のその悪態もどうにかなりませんかね」
しおらしさはどこへやら、また怒り出す千歳を見て私は安堵した。
そうだ、そうでないと困る。君が恐怖を感じたら、きっと私にも移ってしまうから。
門が近づいてくる。私は彼女にここまででいいと言った。彼女は足を止め私を見る。
「では、おやすみなさいませ、周様」
「ああ」
私は返事を返し屋敷を後にしようとした。しかし、引っ張られた腕がそれを許してはくれなかった。
「…今度はなんだ」
頭を抱えた私に彼女は言葉を繰り返した。
「おやすみなさいませ、周様」
「ああ、って言っただろ」
「お、や、す、み、な、さ、い、ま、せ、あ、ま、ね、さ、ま」
一字、一句、強調して言う彼女に私は溜息を吐いた。なるほど、ちゃんと挨拶しろってことか。
「ああ、おやすみ」
「後、もう一つずっと言いたかった事があるのですが良いですか」
「…なんだ」
「貴方は私の名前をご存知ですか?」
そう言った彼女は真剣な表情で私を見ていた。引っ張られていた腕はいつの間にか解放されている。
「知ってるに決まってるだろ」
「なら呼ばないのは何故ですか」
その一言に私は固まった。
「この半年、貴方の口から私の名を聞くことが一度もありませんでした。私は貴方を名前で呼んでいるのに、貴方はいつも私の事をお前と呼びます。いい加減そろそろ腹が立ってきたので、その呼び方やめて頂いてもよろしいですか」
盲点だった。私は呼んでいるつもりだったが、それは心の中でだけだった。現実では一度も彼女の名を口にしたことがなかったなんて。
私は彼女に背を向けた。そして一つ深呼吸をして帽子のつばに手をかけた。
「おやすみ、千歳」
そう言って歩を進める。何だか気恥ずかしくて振り向けなくて。千歳が今どんな顔をしているのか見る事も叶わなかった。
私はいったいいくつだ。成人したのにも関わらず、十代の若者のように照れ臭くなって逃げるなんて、浩二達が見たら声を上げて笑うだろう。
「おやすみなさいませ、周様!」
後ろから大きな声が聞こえ、驚いて思わず振り向いてしまう。もう何メートルも離れたというのに、千歳は門の内側で、見た事も無いような笑顔で手を振るものだから、私は呆気に取られてしまった。
軽く左手を上げその場を去る。口角が上がるのが分かった。
星は未だ輝いていた。通りかかった道の途中で、金木犀の小さな花が落ちている。香ったその匂いに君を思い出して、私の口はまた緩んだ。
私がまだ絶望を知る前の、秋の夜更けの出来事だった。