ep.2.7
どれほどの時間が経ったのか。いや、実際には全く経っていないのかもしれない。視界に実家と同じくらいの大きな屋敷が見える。ここが彼女の生まれ育った家であった。
ここに来るのは久しぶりだった。半年前、自分に来たお見合い話を煩わしく思っていた時、この屋敷でお見合いをすると半ば強引に連れて行かれたきりだ。
あの時、彼女の両親の顔があまり好ましいものではなかったのを今でも憶えている。それはそうだろう。いきなり金髪の無愛想な青年がやって来るのだから。
代々、娘は殲滅隊の人間に嫁ぐしきたりだったとしても、こいつの所には嫁がせたくないと思ったはずだ。その前に、名門貴族の西園寺家のお見合いを蹴っているから尚更。
彼女の家は帝都殲滅隊では有名な一家であった。何代も続く中院の家は政府の中の軍事責任者であり、官僚であった。彼女の歳の離れた兄は、親の仕事を継ぎ官僚をしている。だからこそ、千歳がうちの上司との見合いを蹴った時は大激怒したと風の噂で聞いた事がある。西園寺は殲滅隊の最高指揮官だからだ。それなのにその部下の九条の人間を選んだのは気が気じゃなかっただろう。
そんな理由もあってか、この家に来るのは気が引けた。ただでさえ、人と話すのが苦手なのに、あからさまに向けられた嫌悪と重圧は嫌気がさした。どうしてこう、面倒なのだろう。家柄というのは煩わしさしか呼ばない。
そこで半年前の私は考えた。殲滅隊において、自分の地位を上げればとやかく言われる事は少なくなるだろうと。その結果がスピード昇進。半年前より二階級も上がった地位は、上司には届かぬものの、絶大な威力を誇っていた。戦場に九条がいれば敵なしと呼ばれるほどだ。おかげさまで、彼女の両親からの嫌悪は少し改善されたようだが、顔を合わせるのはこれで二回目だ。彼女の兄とは仕事上何度か顔を合わせるが、得意な方の人間ではなかった。きっと向こうも同じ事を思っているだろう。
門を潜り、玄関まで歩く。心なしか、彼女の表情が強張っている気がした。そういえば彼女は両親の前ではとんでもない猫被りだったのを思い出す。私自身、親と会話する事などないから気持ちは分からなくもなかった。おまけに今、両親はより安全な別邸に住んでいるから会いもしていない。
「お嬢様がお帰りになりました」
玄関の戸を開ければ、数回見かけた事のある老父の使用人が声を上げる。すぐさま使用人たちが整列し始めた。
「遅くなり申し訳ございません。ただいま帰りました」
彼女は頭を下げ使用人に一礼する。私はその様子を眺めるだけだった。
「帰ったか」
大広間の階段上、踊り場部分に男性が立っている。私は軍帽を外し、一礼した。
「お父様…」
「千歳、お前は中院の人間としての自覚はあるのか。こんなに遅くに帰って来て何を考えている」
「すみません。それは…」
「申し訳ございません。それは私の責任です」
彼女の言葉を遮るように前に出て頭を下げる。君が動揺するのが視界の端に映った。
「九条大佐か…。どういう事だ」
「私が今日中に渡したいものがあったのですが、昼間に渡し忘れてしまいまして呼び出したのです。帰りも、使いを出し車で送るべきだったのですが、今宵は星が綺麗でして、ぜひお嬢さんと二人で眺めたいと思い、使いを断ったのです。しかし、結果としてこのような時間までお嬢さんを連れ回す形になってしまいました。軽率な行動でした。申し訳ございません」
再び頭を下げる私に彼女は頭を上げるようにと私の肩を持つ。しかし、そんな彼女に見向きもせず、彼は言葉を続けた。
「ああ、軽率だ。貴君ほどの腕を持つ人間であれば、うちの護衛よりもずっと、娘を守れるだろうが今回の件は軽率な行動だ九条大佐」
「申し訳ございません」
「しかし、今は大佐としての君と話しているわけでは無いのでね。娘が婚約相手と上手くいっているようで安心した。今まで散々来る縁談を断っていた娘が、君とは交流を深めている事にな。だが、今後はこのような事がないようにしてくれ」
「はい、肝に銘じておきます」
頭を下げたまま、自分を心配そうな顔で見る彼女に、小さな声で「ほら言った通りだろ」と告げた。彼女は口を一文字に結んで眉間に皺を寄せていた。
「ところで本日国会で議題に上がっていた横浜奪還作戦だが、君も参加するのだろう」
「はい。前線の統率指揮、そして切込み役となっております」
「え…」
小さな声が聞こえた。それは千歳のものであった。そういえば言っていなかったなと思いつつも、盗み見たその表情はどこか恐れを抱いていた。
「だろうな。君の戦闘能力が無くては度重なる奪還作戦も、成功には至らなかっただろう」
「いえ、私一人の力ではありませんので」
「君は謙遜するが議会は君の事を買っているよ。ちなみにおおよその滞在期間は聞いたか?」
「いえ、まだ何も。西園寺様はすぐに会議に行かれたので、詳しいお話は耳に入っていないのです」
きっと上司はあの後、国会に行って会議に出たのだろう。恐らくそこで細かな作戦が決まったのだ。つまり、自分達は先に呼び出されて作戦内容を聞かされていたらしい。
「ですが、長期戦なのは予想済みです。前回の川崎奪還作戦は約二ヶ月近くかかりました。しかし、二ヶ月で終わったのは川崎が工場施設に囲まれた土地であったからです。異形は人間にしか興味を示しませんから、川崎の工場を復旧しながら戦えたおかげで物資には困りませんでした。あの復旧を提案したのは義父様ですよね。感謝しております」
「ああ、川崎の時は異形の数も思ったより少なかったからな」
何を言っているのだろうか、この人は。異形の数が少なかったなんて、後から報告した資料に載っていた写真を見ただけだろう。実際、五万を超える同胞が死んだのだ。少ないわけがないだろう。
「今回の横浜戦は最低でも三ヶ月、最高で半年だ。それ以上は物資が保てない。つまりそれまでで攻略出来なければ横浜は放棄する事になる」
「三ヶ月…」
妥当な期間だろうと思った。前回で二ヶ月かかっているのだ。さらに今回は前回とはわけが違う。敵の本拠地に乗り込むようなものなのだから。
「そして、この情報は上位のものにしか与えられていないのだが、君も多分、すぐに目にするだろう。先に
教えておこうと思ってな」
私は首を傾げた。彼は秘書から何か書類を受け取って私に手渡してくる。そこに写る写真に、私は眉を上げた。
「観測部隊が数日前に撮った写真だ。彼らはこのデータを送った後に死亡が確認されている」
「これは…」
私は息を飲んだ。百メートルはあるだろう、白い大きな身体が、まるで竜のように宙に浮いている。両サイドからは四本の骨ばった羽根のようなものが生えており、腹が大きく膨れ上がっている。顔のパーツは目しかない。その目は青く輝いていた。
「異形の産みの親だ。先日、横浜付近で観測された。奴らは一つの場所に一年近く留まり産み続けるからな。そして、これは異形の母と断定された。つまり、原種だ。こいつを倒せば、繁殖媒体を失い異形もう産まれてこない。あとは残党狩りをすればいい話だ。此度の作戦はこれの撃破によって成功となる」
正気か、こいつらは。馬鹿か?馬鹿なのか?
前回でさえ多くの人間が死んだというのに、こんな物まで出てきてしまったら一体どれだけの人間が死ぬのだ。第一、一国が相手をするレベルではないだろう。こいつを倒す算段でさえちゃんと整っていないというのにいったいどうしろというのだ。
書類を持つ手に力が入る。数時間前、上司が言った英霊になれというのはあながち間違いではなかったらしい。あの人はこれを知った上で我々にあの言葉を言った。有り得ない。本気なのか。
「この国の、世界のこれからがかかっている重要な作戦だ。君には期待しているよ、九条くん」