prologue
花が咲いて季節は巡っても、この想いは生涯変わらない。
人間は唯一言葉を発せる生き物だ。自身の意思を伝え、届ける事が出来る。しかし、それを口にしないのもまた人間なのだ。
花弁が落ちて季節は巡っていく。時間は過ぎ、身体は少しずつ、確実に老いていく。傷んだ畳、汚れた廊下のフローリング、ささくれが目立ち始めた柱、ボロボロの布切れ、糸の飛び出た灰色、紫の花は消えたままで。鯉は三世代へと姿を変え、池は少しずつ濁り始めた。
目尻に増えた皺、濃くなった顎の髭、たるんできた首筋、浮き出た皮、軋み始めた身体。もうすぐ終わりを迎えようとしている生命活動。人よりも濃く短かった人生。あの頃よりもずっと変わってしまった姿で、それでも変わらぬ想いがある。
写真は褪せて、当時綺麗なままだったはずの用紙は切れかけの汚い姿。
目を伏せて、あの日と同じ柱に凭れ掛かる。息を吸っては吐いて、鼻に金木犀の香りをこれでもかというくらいに吸い込む。吐き出しては余韻に浸って笑った。
橙色の花は変わらずに、毎年庭を埋め尽くす。その中に立つ人がいない。いないままでいい。立っていた期間よりも、いなくなってからの期間の方が長いはずなのに、いないと思ってしまうのはなぜだろう。小さな心の残りのせいだ。
意識がゆっくりと遠のいていく。宙に浮くような感覚に身体を預けた。
荒れた世界を走り続けて、最後に迎えたのがこんなにも穏やかな終焉とは、何の皮肉だろうか。この穏やかな秋晴れに包まれて良いほどの人間ではない。けれど、秋に始まり秋に終わるのなら、これも一つの運命だろう。
思えば人生の中で大事な場面はいつも、悲しいくらいに美しい秋晴れの日だった。空には雲一つない。そんな温かな日に大切なものを失っていく。
最後にやりたい事など思いつかなくて、伝えたい言葉などもなく。伝えたい言葉がある人はもう、ここにいない。
ああ、君が、自分が生きている間に伝えたかった。もう遅い。どうしようもない。過ごした日々よりもずっと長い時間が経ってしまった。どうしようもない、情けない中年の後悔だ。
好きだ。嘘だと言われようがこの愛は本物だ。例えそれが、君に届ける事の出来なかった言葉だとしても。この想いだけは、本物だったんだと言わせてくれ。出会ってから今までずっと、君の事が好きだった。これまでも。そして、これからも。
我ガ最愛ノ人ヘ。