物語の個人的分析結果 「伏線について」
暇つぶしに、僕が見てきた少しの作品の感想から得た分析結果(?)を書いていこうと思います。この系列は2つ目ですね。
今回は今もネットで議論が繰り広げられる「伏線」について。
これは正直「考え方」という側面が強いから、いろいろ意見があると思います。例えば、「明らかに読者がわかるような伏線は、伏線とは言わない」や「例え読者にわからなくても、作者が意図していなければそれは布石であり伏線ではない」などなど。
しかし今回はそんな面倒な議論や辞書の意味を無視してあえてここで「伏線」を定義したいと思います。
それは至極単純。「後の展開に何かしらで繋がっている」こと。
つまり、推理小説のように計算尽くめの伏線も、後で偶然伏線として機能した「布石」もまとめて「伏線」にしちゃいましょうね、ということです。
その上で、伏線についての話を展開します。この定義を議論しても無意味でどうしようもないのでここはできれば意見を挟まないでいただけると嬉しいですね。「言葉」が無ければ何も説明できませんものね。
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さて、定義を終えたところでお話です。
伏線は僕が見た限りでは2つあります。
それは、「事実的な伏線」と「心理的な伏線」。
「事実的な伏線」は、わかりやすく言うと「ミステリー小説」。「前のシーンが後のシーンの『出来事』に繋がっている」という内容ですね。
例を出すなら、「以前のシーンで犯人しか知りえない事をある人物が喋っていた。それを知ってるそいつは犯人だ」ってシーンですね。「犯人を突き止める」っていう「出来事」に繋がってます。
もう1つの「心理的な伏線」は、「前のシーンがキャラの心に何かしらの影響などを与える」という物です。
これはすごく展開の例を出しにくく、出そうものなら即座に他作の甚大なネタバレにもなりかねないので個人で探してとしか言えませんね。このタイプの伏線がよくよく表れている作品の例は、『映画 最高の人生の見つけ方 (ワーナー・ブラザーズ)』や『アニメ ピンポン(ノイタミナ)』が挙げられます。
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さて、では伏線の利用法について個人的な意見を書いていきます。
まずは「事実的な伏線」から。
こちらのタイプの伏線は、簡単に言うと「どんでん返しに繋げた時が一番うまく機能する」です。
もちろんそれ以外にも利用法はありますがそれは後で。
どんでん返しは前提を覆す技術であり衝撃的な展開と言っても差し支えはあまりないです。しかし、厄介なのは「どんでん返しが起こると読者は激しく混乱する」ということ。
何せこれまでの前提が崩れ去るのですから。混乱しない方がおかしい。
しかし混乱させて放っておけばそれは「意味がわからない」という感覚を呼び起こし結果「話がわからない」という感想を抱かせてしまいます。つまり混乱は多くの場合、天敵なんですね。
その混乱を取り払い、さらに脳を興奮させ楽しませるための技術が「事実的な伏線」。
皆さんも経験あると思いますが、何かが閃いたり繋がると頭に電流が走るような快感が生まれますよね。
それは多くの場合「難しい話を理解した時」に起こります。
そして理解するには、「話の繋がり」を理解せねばなりません。
もうお分かりだと思いますが、事実的な伏線はこの「繋がり」を生むのに大切なのですね。
以前のシーンで起こったことが次々繋がり、それがこのどんでん返しの説明をしている。その瞬間、「繋がり」の快感が走り「スゲェ」となるわけです。
混乱している分繋がりが生まれると余計に快感になるわけですね。
つまりどんでん返しの面白さは伏線の繋がりという面白さ。これが瞬時に起こせればもはや感動モノです。一瞬で「名作だ!」と言われるようにもなりえますね。
もちろん、そこまで見られていないとお話にもならないですが。
ちなみにもう1つの利用法は名前付けが難しいのですが、例を挙げると「冒頭で石を投げたら、それが後のシーンでピンチを招いた」って感じでしょうか。
これも解説が難しいので考えるより感じろ、と。『映画 ダイ・ハード1(シルバー・ピクチャーズ)』が代表ですね。
次に心理的な伏線。
こちらは「キャラの変化」に対応させるのが一番ですね。以前のセリフが主人公に影響を与えて、最後にはいい奴になるとか。
こちらは案外面白い作品には大概使われてる手法なので、探すと簡単に見られると思います。ヒューマンドラマ系はこれのオンパレードですしね。さすが物語の基本、ヒューマンドラマ。
伏線は他にも使い方があると思いますが、でも今回はここまでにしますね。なんでって、疲れたからです。
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さて、結びにですが。
僕の話はあくまで「僕の意見」であり、「物語作りにおける絶対の法則」ではないです。分析したと言ってもそんな大層なことではなく、ただ楽しんで物語を見ただけですから。ですので「それは違うだろ」という意見を持つことは結構ですし悪いことではありません。むしろ良いことと言えるでしょう。
つまり、見ている時の気持ち。それはどんなものであれ大事にした方が良いということです。
でもまあ、「大事にした方がいい」であって「だから俺の気持ちに従って悪いことや他人への攻撃をするぜ!」はいくらなんでもマズイですがね。
「気持ちは気持ちで止めて、行動に起こすかは考えよう」ということです。「気持ちの認識」をせず「イラっとしたから喧嘩腰になった」は結局「気持ちを大事にしてない」ですからね。大事にするって要するに「自分の気持ちをしっかり客観的に認識して受け入れる」ということですから。
さて。
話は変わりますが、僕はいつも「小説を書く」という表現をしません(たまにするかもですが)。
なぜなら、僕にとって小説は「物語」という大きな分類の1つ。つまり漫画やアニメ、ゲームや映画やドラマ。それらと大して変わらないというわけですね。
僕はそう考えることで、物語なら見ようと偏見にとらわれずに見られるのです。
漫画というだけで下郎な文化、いや文化ですらないと言うのは嫌なので。
最後にどうでもいい考え方を示しつつ、話はここで終わります。それではまた暇なときに。