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紳士のアトリエ

作者: ムラヒト
掲載日:2016/06/26

【1】紳士


 エヌは毎朝の通勤電車の中で、大きな鞄を持った老年の紳士と出会う。いつも同じ電車、同じ車両、同じ位置に立っている。同じパターンで日々を過ごし、勤めに行っているのだろう。それを毎朝見るということは、エヌもパターン化した毎日を過ごしているということだ。そのことは、エヌの矜持を少し傷つけるような気持ちを与えていた。近い将来の自分を見ているようで、わびしさを感じるのだ。

 エヌとその紳士は、そのまま駅からしばらくは同じルートを辿る。紳士は滑るように歩き、ペースが速く、いつもエヌのずっと前方を歩くことになっている。途中からルートがそれるので、最終的にどこに向かっているのかエヌは知らなかった。

 繰り返されるこの毎日に、エヌは変更の必要性を感じた。自分の近い将来を毎朝見ることに嫌悪感を覚えたのだった。その変更の方法とは、その紳士に対して別のイメージを持つようにする、ということだった。それはこんな調子である。


 その紳士は、芸術家だった。大きな鞄の中には、絵を描くための画材が入っている。毎朝、自分のアトリエに行くために電車で出掛けているのだ。アトリエは高台に新築したばかりの、三階建ての白い家であった。一階は大きな画材、車を収納するためのスペース、2階は普通に暮らせるだけのリビング、キッチン、浴室、居室等がある。三階は高台に面した大きな窓、バルコニーを備えるアトリエとなっている。彼はその日の気分に合わせてアトリエで作品作りに没頭したり、一日中2階で寛いで過ごしたりしている。天気がよく、気が向いたときは、車を出して取材に出掛けたりもする。


 そんな、自由な芸術家なのだ。


 そう考えると、その芸術家が輝いて見えるようになった。我が人生を謳歌し、充実した毎日を過ごしている。ああなんて、うらやましいのだろう。その芸術家を毎朝見ながら、私もああなりたい、とエヌは思っていた。



【2】この先のアトリエ


 ある朝、いつもと同じようにエヌは電車に乗り、芸術家と共に駅を出て歩き出した。その芸術家は、いつも曲がっていく道を、曲がらなかった。アトリエまでのルートを変えたらしい。少し前方で、エヌと同じ道を辿りつづけた。

 芸術家の歩くペースが速いので、エヌとの差は広がる一方だった。前方を歩く芸術家との差を縮めようと、エヌは歩く速度を早めた。今日はまだ同じ道を歩いている。芸術家のアトリエの近くまで行けるかもしれない。是非ともそのすばらしいアトリエを見てみたい、とエヌは考えていた。

 この先にあるアトリエに向かって、いつまでもエヌと同じルートを辿っている。エヌは必死でついて行った。少し前方を芸術家は歩きつづけた。


 そして、エヌの勤める工場の敷地に向かって入って行った。。。、


 エヌは絶望した。勤め人だった。芸術家ではなかった。

 妄想は砕かれ、近い将来の自分、という仮定が、完璧な状態で実現した。同じ時間、同じ電車、そして同じルートを歩き、同じところで毎日働いていた。

 工場の中に入るのを見届けることなく、エヌは下を向いて工場へ入っていった。エヌはその芸術家が、工場へ入るのを最後まで見てはいなかった。。。



【3】真実


 その紳士がエヌと同じ工場に入っていくところを、エヌは最後まで見ていなかった。その紳士は、工場脇にある小さな道に入っていった。そこは小さな山の登山道の入口だった。

 紳士は世界が見渡せる程の高台頂上まで登ると、持っている鞄からカメラ、三脚、豪奢な椅子、そして大きな鏡を何枚か取り出した。その鞄にはとても入りそうにない、人の背丈程ある大きな鏡を、椅子の周囲に並べ立てた。

 紳士が準備したカメラは、大きな半球状のレンズが付いていた。それを上に向けて、豪奢な椅子の前に設置した。椅子とカメラの周囲は360度、大きな鏡で囲まれていた。

 紳士がカメラを操作すると、カメラはカシャカシャと音を立てて動き出した。その紳士はカメラが動いているのを確認すると、椅子に座って鞄の中から分厚い本を取り出した。その本は厚い革のようなもので装丁された、古く豪華な本であった。世界の全ての記録がそこに記されているような雰囲気を纏っていた。

 鏡にはこの世界のあらゆる出来事が映し出された。太陽の光を中心の発電機に集めるように、世界の事象が中心のレンズに集まり、その記録が芸術家の手元の本に記されていく。


 次々と書き加えられていくその本のページをめくりながら、芸術家の顔は喜びに満ち、我が存在を謳歌していた。この世界は様々なことが起こっている。なんと芸術的なことか。


(おわり)

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