第7話
俺より二、三時間ほど遅れて帰ってきた菫は様々なおかずが乗せられたテーブルを一目見て感嘆の声を上げ、これ以上ないというくらい満面の笑みを浮かべてくれた。意図せず余ってしまった時間に頑張った甲斐があるというものだ。
自慢というわけではないが、俺は恐らく他の男、大半の女より料理が出来る自信があった。これもまた処世術、と言えばさすがに言い過ぎかもしれないが、母親一人に負担をかけたくない一心で身に着けた技術だ。将来的にも役立つ、と子供ながらに考えていた記憶があるが、菫の嬉しそうな顔を見られただけで十分すぎる褒賞であると言えるだろう。
この一週間で菫がどれだけ疲れて帰ってくるかはよくわかったつもりだ。さすがに今は例の目的がある以上毎日豪勢な料理を振る舞ってやることは出来ないが、全てが終わったら心配をかけさせていたことへの償いという意味でも頑張りたいと思う。お金が持つかどうかだけが不安だが。
俺自身も、これだけの料理をお腹いっぱい食べるのは久しぶりだった。母親が生きていた頃は定期的に料理が豪勢な一日というのがあったけれども。菫にはそういうのなかったんだろうな、と思うと申し訳なさが募る。
「なあ、兄貴」
油にまみれて我ながら美味しいと自負の出来るからあげを頬張って、菫は神妙な顔をしてみせた。
「きょうだい間の恋愛ってあるって思うか?」
口にしていた白米が宙を舞い、俺はゲホゲホとむせた。
「なんだよいきなり」
「いや、あのな。私のクラスメイトがな――」
菫の友人に双子の兄妹がいて、ことあるごとに手を繋いでいるらしい。日常的な光景として馴染んでいたらしいのだが、ふと疑問に思うことがあったのだろう、そのことをどう思っているのか、直接聞いてみたのだという。
すると、思わぬ返事が返ってきた。二人は確かに血の繋がった兄妹で、親が違うだとか、片方が捨て子だとかそういうことはない。それを知った上で、確かに偽り無く、愛し合っているのだという。その感情にウソをつくことは出来ないと胸を張っていたのだとか。
当然最初は奇異の目で見られていたが、恐れずその道を突き進んだ結果、誰も何も言わなくなり、嫌悪感をはっきりと示していた者たちですら、普通に接するようになったきたと。極めればどんなに背徳的な内容だったとしても良い結果を得られることもあるんだな、と感心せざるを得ない。
「でも結婚は出来ないだろ。法律上」
「……そりゃあそうだろうなあ」
世界には普通に愛し合っていた男女が、何の運命のいたずらか、生き別れの兄妹だったというファンタジーのような事例も存在しているという。血の繋がりという物理的なフィルターが挟まるだけで、一線を越えることは背信行為に他ならなくなるということだ。最終的には不幸が訪れてしまうことは否めない。
「……結婚が出来なくてもさ」菫の目線は泳いでいる。「必ず不幸せになるってわけじゃないと思うんだ」
菫が言うのには、結婚というのはあくまでも法的に結ばれていることを主張する儀式でしかなく、幸せを確かめるための必須条件ではないとのことだ。最近の中学生はそんな難しいことを平気で考えるようになったのか、と小難しく考える傾向の強い俺が妹の成長を苦笑いする。
「――で」話の区切りに俺が訊ねる。「どうしてそんな話を?」
「そ、それは……」
菫の顔は少し赤かったように思う。
「べ、別にいいだろ、別に。今日友達とそういう話をしたから、兄貴にも話したんだよ。悪いかっ」
適当に誤魔化されてしまった。
俺は菫がこんな話を赤面しながら話す理由を、想像できなくもなかった。できなくもなかったが、そんなことはあって欲しくないと俺は考える。確かに菫は可愛いし、十年近く離れて暮らしていたのだから兄妹の実感は薄い。しかし、どれだけ薄かろうと血の繋がりはウソをつけない。
俺がこの子に対して抱いているのは、間違いなく家族愛だ。愛の性質が変わってしまえば、菫がどんな考えを持っていようと苦労は避けられない。
――考えすぎかな、俺は。例の能力を駆使したって菫の心の中を覗けるわけでもないのにこんなことをいちいち考えあぐねるなんて、妄想も甚だしいかもしれない。
「ま――」
菫は茶碗を置いて一息つくと、急に真面目な顔になった。それも束の間、優しく微笑んでみせた。一瞬、その表情に母親の面影を感じてドキリとする。
「私、兄貴が来てくれて本当に良かったよ。ありがとな。大好きだよ」
「……なんだよ急に」
「もしかして兄貴照れてるのか? 可愛いところもあるんだな」
照れてるんじゃなくて、勝手に菫の考えを妄想して申し訳ないんだよ。喉元辺りでそんな言葉が詰まったが、外に出すのはやめておいた。
――静かな暗闇が辺りを包み込む刻。
寝返りを打つなどして色々試したものの、何故か俺自身は黒色の世界に入り込むことが出来なかった。俺は不眠症ではないと思うし、特に不安に思っていることもない。菫のことを女として意識し始めたとか、そんな恋愛小説にありがちな展開というわけでももちろんない。今後の捜査について悩んでいるのは事実としても、寝られなくなるほど考え込んでいる自覚は存在しない。
明日土曜日で学校が休みなのが唯一の救いだ。最終的に寝付いたのが鳥が鳴き始める時間になったとしても、菫には怒られてしまうだろうが、自分の首が絞まってしまうような大惨事には到底結びつかないのだから。しかし、携帯やパソコンの光を浴びているわけでもないのにここまで頭が冴えているのは何故だ。
少し前に、同じようなことがあったな……。
ふと、頭をよぎった。あれは確か、母親が死んでしまう前日のことだった。母親は死ぬ数ヶ月前に突然倒れて入院し、癌を宣告されてしまった。最新の医療技術を駆使すれば治らないものでもないという話だったが、重病だと告げられたことにより病気の進行速度が早まってしまったのだろう、治療の甲斐も無く死神に首を掴まれる結果となった。
あの日も異様に頭が冴えていた。寝付けなかった俺にトドメを刺したのは、容態急変の知らせである。病院に駆けつけたときは虫の息で、ある言葉を俺に静かに告げてそのまま帰らぬ人となったのだった。
『……私はお父さんのこと恨んでいないから……』
俺の下らない能力というものがなければ、その言葉を鵜呑みにすることが出来たのだろうか。たとえ今のように見抜けなかったとしても、やはり感じるものがあったのだろうか。もしもの話をしたところで、意味が何もないのはわかるけれど、それでも。
そうだ。今のこの状況を敢えて言葉にするのであれば、こうなる。
――嫌な予感がするんだ。
そして、俺の的中率がとても高いのであろうシックスセンスと頭の冴えは。
外にも響き渡ったであろう、絹を引き裂くような悲鳴によって裏付けされた。