最終話
それから色々あって、落ち着いたときには私は総合病院のベッドにくくりつけられた状態だった。
光に包まれて暗黒空間から抜け出すと、堅牢さを肌で感じる銀色の箱が私の背後に聳え立っていた。入口の位置を把握することもなく、私はなけなしの全体力を振り絞って人のいる方向へ走って、走って、走った。やがて私は力尽きた。緑色の芝生の上で、枯れ葉が一枚、私の口元に落ちてきたことから、なんとなくこの位置が公園なのだろうと考えた。
異常事態を察して、カップル――かどうかはわからなかったけれど男女が私へと駆けつけてきて、すぐに救急車を呼んでくれた。どちらも神月学園の制服を着ていて、男の人は要君、女の人は葉月と呼ばれていた。なんとなく男の方には見覚えがあったような気がした。
担架に乗せられたことで安心した私の意識は、そこでぷっつりと途絶える。そして今に至る。ボロボロの制服は脱がされていて、薄い青というか緑というか、そんな感じの色の病衣を着せられていた。今までが今までだったせいもあって、解放感があった。
私が目覚めてすぐ、結構大騒ぎされた。とはいっても、何でも同室に二人ほど先客がいるらしく、大声を出してわめき散らされたというわけではないけれど。
まず担当医の人が来て、数日点滴すれば退院できると説明してくれた。重たい病気にかかっているわけじゃなくて正直ほっとしたけれど、それと同時に、私が監禁されている間投薬されていたものについては最新の医療でもわからなかったのだな、そんなことをおぼろげに考えた。もちろん、大事になってしまうだろうからそれは言わなかった。
そして間もなくして、無精ひげの刑事さんらしき人がやってきた。学校を騒がせている不登校事件が連続誘拐事件に変わったのだ、と言っていた。それから私の身体に差し支えない程度にいくつか質問をされた。正直に答えたところもあれば、適当にはぐらかしたところもあった。それでも刑事さんは納得してくれた。
質問攻めが終わった後、退院したら色々事情聴取されてしまうだろうけどすまねぇ、と言い残して刑事さんはその部屋を後にした。そのとき、真向かいのカーテン越しにいる先客の人に何やら声をかけていた。先客の人は中学か高校生くらいの男の子の声だった。
一人の時間が、ようやく訪れる。現実に戻ったのにどこか非現実的な感覚を覚えながらも、私は今までのことを振り返った。
――私をこんな目に遭わせた人達を絶対に許さない。
その強い決意は、確かに残っていた。絶対に忘れない。強い決意は揺らがなかった。私に『声』と『感情』で制御できる超能力みたいなものが備わっている、もとい無理矢理覚えさせられてしまったことももちろん記憶に新しい。体力と肺の調子さえ戻れば、再び使用することも不可能ではないだろう。
神野。下の名前は結局判明しないままだったが、その顔を見ればすぐにわかる。特徴的な顔半分マスクがついていれば尚のことだ。苗字で調べ上げるのは、さして珍しいものでもないから難しいかもしれないけれど。でも私の能力がある限りいつかまた会うことになるだろう。そんな予想があった。
晦。そこでの出来事は残念ながらはっきりとは覚えていないが、私は水色の神様のお陰であの暗闇の空間から脱出することが出来た。感謝しなければいけないはずなのに、何故か顔を思い出すたびにイライラしてくる。何故だろうか。
それ以外にも結構細かいことは覚えている。私が薙ぎ倒した黒服の人達は月下組。村時代からこの一帯を牛耳っているあっち系の自営業。さすがに私に落とし前をつけろなどと言ってくることはないはずだったけれど、ちょっとだけ不安を覚えた。
屍鬼。私を監禁していた組織が作り出したレプリカで、実在するものである。あんなものが外にいたら大問題になりそうなものだけれど、まだ普通の人には認知が難しいところに生息しているということなのだろうか。実物を見ない限りよくわからない。
細かい知識は、確か晦から教えてもらったもののはずだ。やっぱり確証はないけれど、そんな気がした。
――でも。何故か肝心なことを思い出すことが出来ないような気がした。
私の今までの記憶に、細かい穴はあっても大きな穴はない。そのはずなのに、どうしてかはわからないけれどブラックホールのような巨大なものが覆いかぶさっているような感覚がある。それが何なのか、探り当てることすら出来ない。私にとって大切なものだったのかも、そうじゃないのかもわからない。
言うなれば、そう、第六感。直感めいたもの。無根拠ながらも、私に訴えかけてくるものが確かにあるような感じなのだ。気のせいだ、と捨て去ろうと何度か試した。それでも謎の巨大な穴は、その存在を私に訴えかけてくる。
私を監禁していた組織が何か記憶でも消したのだろうか。そう考えると自然だ。しかし、大切なクラスメイトやはるちゃん、孤児院の先生のことは覚えている。それ以外に人は。あ、そう言えば私のクラスに幼い頃好きだった翔が編入してくるんだったっけ。覚えている。楽しみだった。
――あれ、私、それを誰から聞いたんだっけ。
「……大丈夫ですか?」
心配そうな声の主を見やると、正面のカーテンはいつの間にか開いていた。短い黒髪で今の私とほぼ同じ格好をしている高校生らしい男の子が、首の角度を少しだけ曲げている。彼は私の顔を見て泣いていると指摘した。
あれ、おかしいな。なんでだろう。確かに彼の言葉通り、鼻の横を雫が伝っていた。理由に覚えのない突然の涙に驚きながら、私は裾でそれを拭く。
話は少し聞こえてきていましたけど、大変なことがあったんですね。彼の言葉に私はこくんと頷いた。事の一部始終を伝えても信じてもらえるとは思えない。私はただ「怖かった」とぼそりと呟いた。
「そういえば、神月学園の生徒なんですって?」
気さくに話しかけてくる彼に、馴れ馴れしいだとかそんな悪しき感情は一切湧き上がってこない。なんとなく懐かしい気持ちを覚えて、そもそも一人で色々考えている時間はイヤだし、会話して時間を潰すことにした。
「……はい。一年四組です」
「四組!?」彼は身体を乗り出してくる。「まさか、最近行方不明だった睦月さん、ですか?」
「え、は、はい」
私のことを知っている。一年生の顔を全部覚えているわけじゃないけれど、廊下で見たことはない顔だ。もしかして先輩かな。私は彼の顔に見覚えがないか、まじまじと見つめてみる。
「……あ……」
記憶が揺さぶられる。かつて、神社で三人で遊んだ記憶が、不意に蘇ってきた。当時白樺姓だった私と、彼と、彼の妹さんの三人。ぎすぎすした家庭のことを考えなくても良かった、楽しかったあの頃。両親が離婚し、未だによくわかっていない理由でどちらも蒸発して孤児院に預けられるまでの思い出。鮮明に、浮かび上がる。
あのときの男の子の顔は、目の前にいる彼とよく似ていた。
「ああ、自己紹介が遅れて申し訳ありません」
あはは、と笑いながら彼は後頭部を掻いていた。
――神無月翔って言います。
窓を吹き抜けてゆく秋風に、少し心地よさを覚えた。
睦月編 了
 




