第1話
「悪いね兄貴、親父は相変わらず仕事仕事ってさ」
以前会ったときは母親の葬式だったからまじまじと見つめる機会はこれが初めてなのだが、菫は本当に大きくなった。女の子は父親に似るという通説があるが、必ずしもそうは言い切れないのだろうなと思い知る。
大きくなったのもそうだが、性格や雰囲気も、なんていうか非常に男らしくなった。かつて手紙にていじめっ子を撃退したという旨の内容を読んだから想像はついていたが、父親が不甲斐ないおかげでこうなってしまったのだろうか。まあ、俺がすさまじく面倒な人間になったのだから、珍しい話でもないだろう。予測の範囲内だ。
男らしくなったとは言ったが、幼い時から本質は何も変わっていない。少し言葉を交わしただけだが、菫の笑顔を見れば俺にはわかる。
「最近、このあたりで殺人事件とか起きてるらしくてよ。私はテレビを見る暇なんてないからよくわかんねーけど」
肩をすくめる菫を見るまでもなく、整然と片付いた居間だけでそれは伝わってくる。面倒を見ていた叔母さんは大の掃除嫌いだし、今もなおそれは治っていないという。父親が何とも思っていないのか、何かしら思うことはあるのか問いただしたいくらいだ。
「そういえば叔母さんはどうした?」
「……由愛おばさんならパチンコじゃないかな」
聞けば、叔母さんは五年ほど前に娘を生んだのだという。俺も歳を取るわけだ。最初のうちは良かったが徐々に育児放棄をするようになり、菫や友人に押し付けてパチンコやら飲食店やらに逃げ込む日々が続いていたとか。未亡人だということもあり最初のうちは叔母さんの友人たちも渋々ながら育児を手伝っていたが、そんなことがいつまでも続くわけがない。
その話は当然仕事で忙しい父親の耳にも入ったが、何をしたかと言えば叔母さんに保育園代だと言ってそれなりに金を与えたのみだとか。自分の妹の体たらくを知って家庭を振り返る頭はなかったらしい。
「最近ろくに帰ってこないしね、私にとっちゃもうどうでもいいけど」
「はは」
叔母さんの肩の荷も下りるだろう、などと思ったことは撤回してよさそうだ。そもそも中学に入ってから二年間は叔母になど頼っていなかったらしい。一言相談してくれればよかったのに。
「そういや兄貴さ」
「ん」
「繁華街、まだ行ってないだろ?」
繁華街。市になったのだからあって当然のものなのだろうが、村だったときのことが鮮烈に記憶に残っているだけに、違和感を強く感じる言葉だ。俺の知る神月村はもうないのだろうな、俺にそう思わせるのに十分な一言だった。
「便利だよ。いろいろあるし。ゲーセンにファーストフード、デパートも。私、メシを買い込むときは繁華街に行ってるんだ」
どれもこれも、村だったときにはなかったものだ。
「今からデートしようぜ、デート」
「デートって……」
兄妹なのに何照れてるんだよ、とさらりと返されてしまうのがオチだとわかったので、言及することはやめた。そういうところはもう少し羞恥心をもって言ってほしい、というのは兄としてのワガママなのだろうか。
そもそも汽車に揺られて結構疲れているんだけど。とも、言うことが出来なかった。菫の楽しそうな表情を見れば、俺が家にやって来た日のプランを前々から立てていたであろうことは想像に難くない。駅に現れた俺のことを、人目もはばからず強く抱きしめたことからも推察は容易だ。
「……仕方ないな」
新たな学園生活が始まるのは明日ではなく明後日からだ。家でのんびりするために土曜日に汽車の予約を入れたとはいえ、二日休まなければいけないほど異様に疲れているわけでもない。神月村がどのような変貌を遂げたかを知るためにも、そして何より菫と離ればなれだった時間を埋めるためにも、ハメを外して遊ぶのも悪くはないかなと思えた。
「やった! 兄貴、大好きだよ」
不意を打って抱き着いてきて、頬にキスをしてくる菫に対して、兄妹なんだからそういうことはやめてくれと突き放すことは出来なかった。あまりに過度であれば今後諫めてやればいいだけだ。今日くらいは大目に見てやろう。
――楽しくなるはずだった兄妹デートは、中断を余儀なくされた。
繁華街の中央に出来ていた人だかりによって。
「ん? 有名人でも来てるのか? LUCAとか」
野次馬根性も人並み以上に強いらしい菫が私もと言わんばかりに首を突っ込もうとするも、後ろから来た長身で無精ひげを生やした男に肩を叩かれてしまった。
「やめときな菫お嬢ちゃん。気分が悪くなるだけだ」
……この警察官と知り合い? と聞くまでもなく「黒澤さん……」と菫がつぶやいた。詳しく聞くことはなかったが、恐らく父親を通して顔見知りなのだろうな、と推理することが出来た。
「何かあったんですか? もしかして殺人事件とか」
「……察しがいいね、彼氏さんよ。これで七件目だぜ。勘弁しろってな」
彼氏じゃなくて兄貴です、と菫が顔を真っ赤にしていたがそれは無視されていた。
「ガイシャにやぁ、外傷らしい外傷はねえ。神サマか何かの仕業だと信じたいくらいだぜ俺ぁ」
「……それってどういう」
「おっといけねえ! 下らねえこと話ちまったな。さ、くっちゃべってねェで仕事にもどらにゃ、警部サマに怒られちまう」
自嘲めいた笑みを浮かべて、黒澤という名前らしい警察官は野次馬の群れをかき分けて消えた。それから間もなくして、何人かの警官を引き連れて整った身なりの男が事件の調査をするためだろう、苛立ちを隠そうともせずに現れた。
――俺はその男に見覚えがある。
「父さん!!」
菫が驚くのを尻目に、俺はこの現場の指揮を執っているのであろう人物目掛けて大声を張り上げ自分の存在を主張した。男は一瞬だけ足を止め、こちらを一瞥する。だが、何事もなかったように、俺達に声をかけることもなく、黒澤さんと同じように野次馬の中にいなくなった。
確信できることがあった。家庭を省みず葬式にも現れなかった薄情で冷酷な父親は、依然として心に悪魔を住まわせているのだということを。
「あ、兄貴、その……」
鏡で見なくてもわかる、今の俺は修羅や鬼という単語では言い切ることが出来ない、この世のものとは思えないような恐ろしい表情を浮かべているに違いない。菫の怯えた顔が雄弁にその事実を告げている。
ごめん、と吐き捨てるように言ったものの、父親に対して湧き上がってくる憎しみのような怒りのような荒々しい感情をかなぐり捨てることなど出来はしないのだった。
こうした事情から、この日は菫とのデートどころではなくなったのである。