第7話
「――え」
彼が何を言ったのか、私にはわからなかった。今の私は心身ともにボロボロだ。幻聴が聞こえてもおかしくないだろう。超能力を発現させる薬などというものもあるし、その副作用、なんてのも考えられる。きっとそうに違いない。凍りついた時間の中で、私はぐるぐると思考を巡らせた。
それから数秒もしないうちに、私の声でも彼の声でもない声で現実に引き戻され、ダメ押しで絶望の淵へと叩き込まれる。
『部長、お戯れはもういいんですか?』
意識が朦朧としているが、間違いない。仮面男だった。今にも笑い出しそうな、そんな不愉快な声だった。私の頭上から響いてくる。機械を通した声だ。もう一人、女の人の笑い声みたいなものが小さく聞こえてきた、ような、気がした。
カルキ君は表情を固定させたまま首を静かに横に振る。
「……不合格です。残念ながら」
『あれだけ暴れておいてですか? 組長が怒るんじゃないんですかね』
「月下組のみなさんには本当に申し訳ないことをしました。ここの管理費から、組長にお金を渡しておいてください神野さん」
『やれやれ。ま、仕方ありませんね』
私の混乱をよそに、私には理解出来ない会話を部屋のどこかにあるのだろうスピーカー越しにカルキ君と神野は繰り広げている。
何が起きているのか理解したくなかった。でも、身体にまとわりつく暗闇がある一つの事実をはっきりと伝えている。
――勇者様は勇者様ですらなかった。悪魔だったのだ、と。
リーダー。つまり、私が高い立場だと思っていた神野よりも、カルキ君の方がより偉かったというわけだ。偉い人物が直々に私の食事係になり、弱音や愚痴を全て受け止めてくれていた。気がつかないわけだ。私も彼に信頼をしてしまうわけだ。
お戯れ。つまり、何もかもがウソだったというわけだ。彼が話してくれたことは何もかも。記憶喪失だとかいうのも、私の同情心を引こうと考えた作り話。私のことを脱出させてくれると言ったのは、暗闇の処刑場へと送り込むための甘い罠。私を守るために屍鬼を倒してくれたのも、私がどん底に落ちる瞬間をより楽しむための調味料。
ははははは。全てを悟った私の腰は抜け落ちてしまった。膝を見えない床につけて、カルキ君を見上げる。表情は変わっていなかった。張り付いたような笑顔で、だけれど私を見下すように歪んでいるようには見えなかった。
『それで、睦月さんはどうするんですか。』
「処分します。僕が、直々に」
『……僕がやってもいいんですけど?』
「いえ、僕がやります。それと」カルキ君は、一度目をぎゅっとつむった。「ここの監視カメラとマイクは切っておいてくれますか。あまり見られたくありません。これは上司命令です」
『……なんですって。脱出はどうなるんですか』
「なんとか出来ます」
少し困惑したのか、間を置いてから神野は了解しましたとだけ言い残すと、スピーカーの向こうの音は遮断された。静寂な黒の空間で、私達だけが取り残されてしまう形となった。
私はこれからどうなるのだろう。処分、とカルキ君は言った。文字通りなのだろう。私は今からカルキ君によって殺される。彼がどんな能力を持っていたかは、はっきりと目にしている。今の私ではどうしようもない。
私以外の人は薬のせいで発狂死したなどと言っていたが、本当は私みたいに処分した人もいたかも知れない。そんなことを考えた。
「……遥さん。怒っていますよね。弁解はしません、今あなたが聞いたとおり。僕はここの管理者です。あなたや他の十四人をここに誘拐し、監禁し、実験をしていたのは僕の権限によるものです」
いつだったか見せた、申し訳なさそうな表情を彼は顔に作って、おもむろに話し始めた。冥土の土産に、という意味なのだろうと思った。
神野はカルキ君の直属の部下であること。ここに来るまでにやっていたニセの逃避行は私の能力のテストのためのものだったこと。私が薙ぎ倒した人々は月下組という、古くから神月村の裏世界を牛耳っていた自営業の下っ端であったこと。屍鬼は実験用に作り上げたレプリカだが実在するものだということ。本物のそいつらは今も徐々に世界を蝕んでいるということ。
そして、私の能力は屍鬼と戦うためには不十分なものであると判断したこと。以上をある程度噛み砕いて今の憔悴しきった私にもわかるように教えてくれたのだった。
しかし、肝心のこの実験の裏にいる大きな組織の詳細や、本物の屍鬼が世界を蝕んでいることを何故理解出来たのか、という根本的な疑問については「僕にも言えないことがある」とだけ言って教えてくれなかった。記憶喪失の真偽も、適当にぼかされてしまった。そのときの表情は、悪びれたものではなくていつも見ている悲しげなものだった。
「私は……殺されちゃうんだね」
「……抵抗、しないんですか?」
「出来るわけないじゃん。私、もうつかれちゃった」
うつむいた私の言葉は、本心だった。ただでさえ精神的に参っていて肉体的にもどうしようもない状況だというのに、信頼していた人に裏切られたことでトドメを刺されたんだ。もうどうだって良かった。どうせここから出られないのなら早く殺してよ、彼に向かって懇願した。
そんな私の言葉に、カルキ君は難しい顔をしていた。どうして何かを考える必要があるというのだろう。彼は処分するといった。その言葉通りに、彼が扱える電撃みたいなもので、私の頭を砕くなり心臓を止めようとするなり、いくらでもやりようがある。今の私はまな板の上の鯉、どう料理しようが思うがままのはずだ。
ところが。
「そういえば遥さん、話してくれましたね。小さい頃によく遊んだ兄妹がいるのだと。確か……神無月、という名前でしたか」
「……今更何なの……?」
本当に今更の話だ。五歳くらいから顔を合わせていない私の初恋の相手の名前は、翔と言う。小さい頃の思い出は漠然としていて、今は彼がどこにいるのかわからない。もう一度会いたいって何度も思ったけれど、叶わない夢として諦めた話だ。
翔の妹、確か菫ちゃんって名前だった記憶がある、あの子とも確かに仲が良かった。もう昔の話で、きっと相手は私のことなんて覚えていないだろう。だからもう過ぎ去ってしまった思い出でしかない。それをどうして、カルキ君は今更ぶり返してくるのだろうか。
「僕の仲間の一人から聞いているんです。君のクラスに編入した男子生徒の名前」
――神無月翔。
確かに、カルキ君はその名を口にした。
翔。翔が、本当に? 私のクラスにいる? 同姓同名の別の人って可能性は? ううん、それはない。神無月っていう苗字はそこまでありふれたものではない。神月市に同姓の、しかも同名の人がやって来たなんていう可能性は、数字にしたら気が遠くなるはずだ。
つまり、どういうことになる。私が、ここを生きて出ることが出来れば。カルキ君に命を握られている今の状況からどうにかして逃げ出すことが本当に可能だというのなら。私は、初恋の人に再会することが出来る。そういうことになるのでは。
「生きる希望が沸いてきましたか?」
私の心を読んだように、カルキ君がまたも微笑んでいる。先程まで私の精神を深いところまで支配していた死への欲求は、気がつけば完全に、というと語弊はあるけれど、払拭されていたように思えた。身体がボロボロなことも何のその、私は立ち上がり、カルキ君を見据える。いつもと同じ表情のはずの彼の顔の奥底に、悲哀を一瞬だけ見たような気がした。
どうすればいいの、すがるような問いにカルキ君は小さくうなずく。
「僕と今から殺しあいましょう。あなたが勝てば、ここから出られる」
彼はコートを暗闇の中に放り投げる。囚人服のような上着と、ガリガリに細い腕、首があらわになる。彼の両手には、人の心臓を抉るのには十分すぎるほどのナイフが数本、雷をまとわせて装備されていた。
殺しあう。彼が放った単語を、私は何度も頭の中で繰り返す。私が翔に再会するためには、幼さゆえに想いを伝えられなかった彼の顔を見るためには、罪を背負わなければならない。しかも、一度は全幅の信頼を寄せた、カルキ君に。
重たい罪を背負うほどの、価値はそこにあるか。私自身の手を汚すだけの覚悟は、備わっているのか。短い時間で、何度も自問自答した。何度も、何度も何度も、何度も。
――こくん。
了承の合図を、勇者様だった彼に私は送った。私の強い決意を理解しても、やはりカルキ君は表情を固くすることは無かった。