第3話
「……私、死のうかな」
ここから脱出しようという意志はまだ完全になくなってしまったわけではない。けれど、今の私の言葉も本当の気持ちだった。舌を噛み切って死ぬ勇気はないけれど、運ばれてきた食事を食べる意欲も沸いて来ない。
一瞬カルキ君の表情が強張ったような気がした。いつも申し訳なさそうな笑顔を浮かべているのと、振り返るときの一瞬の翳りしか見ていないから、こういった彼の顔には新鮮さを感じた。
どうして、だとか考え直してくれ、などといった言葉は彼の口からは出てこなかった。どこか寂しそうに「そうですか」と言ったのみで、空気が重みを増してしまう結果となった。こんな状況で出てきた私の言葉だ、冗談で言っているのではないと彼も強く感じたのは間違いない。
言わなければ良かったかな、と後悔した。顔半分マスクの人に対しては恐怖心、それか憎悪に似たものしか感じないけれど、カルキ君に対しては違う。表現するのなら、そう、これは『信頼』だ。私はカルキ君を信頼しているに違いなかった。もしかしたら、彼ならば私をここから出してくれるかもしれない。そんなわずかな光が、彼からは感じられた。
しかし残念ながら、カルキ君にはあの仮面の人に抗えるだけの立場はない様だった。私を出してあげたいけれど願いを叶えて上げられない。そんな彼の想いが感じ取れてしまう。かえって彼に対して申し訳なさが生まれる形になってしまった。
「カルキ君は、死のうと思ったことはないの?」
彼とは何度も言葉を交わしているが、この質問をぶつけたのは初めてだった。えっ、と驚いた様子を見せて、彼は私の顔を凝視してくる。真正面からしっかりと見た彼の顔は本当に女の子と見間違えるような可愛らしさだったが、喉にあった出っ張りが性別を偽ってはいなかった。
彼自身、そんなこと考えたこともなかったらしい。面白いことを言うんですね、と再び笑顔になった。肯定はしなかったけれど、強く否定もしなかった。彼の凍てついた笑顔からは、彼がどう思っているかも私にはわからなかった。
「私が死んだら、あのマスクの人怒るかな。カルキ君に」
「……神野さんは簡単に怒る人ではありませんよ」
言ってからしまった、と思ったのだろう。目を見開いて口を開いた右手を当てるという、カルキ君の普段からはレアな挙動を見ることが出来た。
――神野さん。
それがカルキ君の口から初めて出た、内部事情の情報だった。カルキ君とは違って気味の悪い笑みを浮かべた仮面の男の人は、特に珍しくもない苗字をしていることはわかった。これがわかったところで、この薄明かりの空間から抜け出す手段が思いつくわけではないけれど、守秘義務を徹底していたカルキ君も人の子なんだなって、少し安心してしまう私がいた。
自分の失敗をごまかすように、カルキ君は一切手の付けられていないおかゆと野菜を食べるよう催促してくる。なんとなく安心感が生まれたせいか、食欲も少しだけ出てきた。しかし、二、三ほど口をつけたところで強烈な吐き気を催してカルキ君に謝る羽目になった。やはり心の奥底にあるものから逃げることは出来ない。
水だけ飲み干すと、カルキ君は器用に私の鎖を元通りにして、いつも通り「また会いましょう、遥さん」と言って表情を曇らせつつここを後にしようとした。
「――ごめんなさい」
震えるような声で、それが付け足されたのは今回が初めてだった。
彼がいなくなってしまった後は、いつも通りの孤独な時間が訪れる。もはや新しく考えるようなこともない。空想を巡らせて楽しもうという策は、この状況ではあまり意味を成さない。ここに来てからはほとんど眠れていないし、睡眠が根本的な解決にはなってくれない。
私を助けてくれる救世主は現れないのだろうか。仮面の人、神野は私が最後の一人だというようなことを言っていた。私も他の人同様、死んでしまう以外に道はないということなのだろうか。誰か助けて。警察の人。クラスメイトの人。はるちゃん。
「カルキ君――」
このような目に遭っても、誰も助けてくれない。神様なんていない。どうしてこんなことにならなければいけないのか。ここから私の思考はまどろみを覚える瞬間まで常にループする。いい加減悲しみを通り越してイライラさえしてきた。
自分に力があれば。これも何度も考えたことだ。無意味な思考を張り巡らせることにもはや何の意味もない。扉の上にくくりつけられていた監視カメラの向こう側でニヤニヤしている男の人達のことを想像して、更に私の怒りは込み上げて抑えられそうにはなくなっていた。
せめて、一泡吹かせることが出来れば。私は赤の点に向かって思いっきり睨んでみた。普段の私のことを知るクラスメイトがこれを見たら、ギャップに驚くに違いない。鏡があれば自分でも自分のことを怖がってしまうだろうか。
「ああああああああああああああああッ!!!」
力の限り、私は吼えた。ここに来て初めての試みだった。これで体力を失って意識がなくなるのなら、なくなればいい。突然空腹が訪れてしまって、結果自分の首を締め上げることに繋がるのならそれでも構わない。ファインダーの向こうにいる人に笑われてしまうだけでも、この際どうでもいい。
感情の赴くままに。私は肺活量が持たなくなるまで大声を上げ続けようと思った。なんとなく空気が振動しているような気がしたが、あまり気に留めることはなかった。そんなことよりも声を出し続けることに夢中だった。
異変に気付くのに、それほどの時間を必要とはしなかった。
まず、突然赤色の点がなくなった。かと思うと、床に何かが落ちて何かが割れる音が響いた。思わず大声を上げるのをやめてそちらを見る。そこには先ほどまで私の姿をどこかに映し出すために使われていたものの残骸が転がっていた。
――私の大声で落ちた?
謎の現象に頭を混乱させていた私の下に、血相を変えてカルキ君がやって来たのはそれから数分経過したときだった。