第2話
あれは、十月の最初の日だったっけ。抜き打ちテストが行われて精神的に疲れた私は、別のクラスにいる友達と一緒に『喫茶・ジョニー』で新作のカフェラテを一緒に飲むことにした。お金に余裕があるわけではなかったけれど、お金よりも友達付き合いを大切にしたい。私はそういう主義だ。
友達の名前は、文月春花という。漢字は違うけれど同じ読みの名前だということで、入学前にたまたま出会って意気投合し、そこから暇を見つけては一緒に遊んでいる親友同然の子だ。はるちゃん、と呼んでいる。他の人ははるちゃんの透き通るような白い髪と燃えるような赤い目を怖がったり珍しがったりするけれど、私は初対面のときも特に何も違和感を感じなかったし、怖いと思うはずなんてなかった。私のその気持ちがはるちゃんにとっては嬉しいらしい、というのは最近聞いた話だ。
はるちゃんもはるちゃんで、家が武道をやっているらしくて日々疲れているのだという。こうして私と喫茶店でおしゃべりする時間が何よりの癒しだと言ってくれた。
そう、この日ははるちゃんと一緒だった。確かな記憶だ。何を話したかはあんまり覚えていないけれど、抜き打ちテスト疲れたねだとか、はるちゃんのいる二組はいつやるんだろうねだとか、そういう学校に関する取り留めのない話だけで特に珍しい話題は出てこなかったと思う。
ああそういえば、最近起きている謎の連続殺人事件怖いねという話もしたっけ。学校の話ではないけれど、普通の女子高生の話題としてはやはり希少でもない、普通の会話だ。そんなのんびりとした時間はあっという間に過ぎて、私のアパートとはるちゃんの家は方角が違うという理由から喫茶店前でそのまま別れた。それがいけなかった。
アパートまであと十分あるかないかというとき、空は雲は一つもなく、星がいくつか煌いていた。ちょっと遅くなりすぎちゃったな、と腕時計の方に視線を移したとき。後頭部に激痛が走った。抵抗も出来ないまま倒れこんだ私は、襲ってきたの誰だったかちゃんと見ることなんてもちろん不可能だった。何が起きたのかすらわからず、目の前が真っ暗になった。
気がついたときには、今と同じ状況になっていた。薄明かりの部屋から逃げ出そうとしても三箇所にくくりつけられた鎖がそれを阻む。目の前にある私の力ではびくともしなさそうな鉄の扉が目に入ったとき、今置かれた立場がなんなのかを理解して、強い絶望感を味わった。そして私の逃げ場のない感情は、痛烈な悲鳴となって部屋に二度三度響き渡るだけだった。
「助けて……」
ひとしきり暴れた後にすがりつくようにして呟いた私の声に呼応するかのように開いた扉から現れたのは、顔を半分覆い隠しているマスクの男の人。扉の位置を挟んで入ってくる光に目を焼かれながら見た彼の表情は、今と寸分も変わらない邪悪さを秘めた笑顔だった。何をされてしまうの、と身構えた私に待っていたのは「何を期待しているんですか?」という嘲笑の言葉と私の今後に関する一通りの説明だった。
彼が言うのには、私は『選ばれた』らしい。何に、と聞いても詳しくは教えてくれなかったが、少なくとも私のように監禁されている人がもう一人以上はいるということ、目の前にいるマスクが主犯らしいということはわかった。『適性』がわかるまであなたはずっとこのままです、外の世界なんて考えなくてもよい、という死刑宣告に等しいものを聞いて、私の絶望は更に加速した。
それまでは丁重に扱いますから、とマスクは続ける。だったらこの鎖を解いてよ、と当然の要望を伝えたけれど、案の定聞き入れてもらえることはなかった。催したときだけは例外で、部屋を汚されても困るので解いてやってもいい。ただし済ませるまでは守秘義務の関係で目隠しマスクをしてもらう。非常に徹底されていた。
もちろんご飯がなければ生きられない。味の保障はしかねるが、一日三食、担当のものに運んでもらう。栄養素に関して問題なく、百年は生きられる調整になっているという。ここも徹底していた。私の顔に見惚れた気持ち悪い思考による犯行ではないということも、理解出来た。
――『適性』がわかるまで。
マスクの人がいなくなった後の静寂の時間を埋め尽くすのは、思考することだけだった。『適性』ってなんなのかな。考えても答えが出てくるわけでもなかった。
カルキ君に出会うまでは、この状況をどうやって乗り切らなければいけないのかで精神が磨り減る思いだった。栄養素のあるご飯を支給してくれると言っても、その前に発狂して死んでしまうんじゃないか。決して明るい方向には向かない私の思考は、自分の身をどんどん弱らせていった。
私に申し訳なさを感じているが無理矢理、という気がする彼がいても、もちろんこの立場そのものが変わったわけではないのだから、弱った身体が元に戻ることはない。戻るのはここからの脱出を果たしてからになると思う。でもいつ帰ることが出来るのか。不安に押しつぶされそうだった。
今、外の世界はどうなっているのだろう。近々私のクラスに編入生が入ってくるというウワサがあったけれど、あれはどうなったのだろうか。編入してきたのは男の子だろうか、女の子だろうか。私が休んでいることをクラスの人はどう思っているのかな。はるちゃんは私の異変に真っ先に気付きそうだけど、どうしてるのかな。お風呂に入りたいな。お母さん、お父さん。助けて。助けて。助けて。助けて。誰か――
朝か昼か夜かもわからないような気が狂う空間で、私は時折大泣きして現実逃避するしかなかった。マスクの人にもカルキ君にもその現場を何度か見られている。マスクの人は私のことを適当にあしらったが、カルキ君は優しくて、埃がまみれている黒髪を愛おしそうに撫でてくれた。
――このやり取りは、永遠に思えるほど何度も何度も何度も繰り返されているんだ。
私はもう限界だった。証明するように何度か吐いてしまっていて、その度にカルキ君に迷惑をかけている。ご飯を食べ終わったときに吐いたこともあったし、何も食べていないときに胃液が出てきてしまったこともあった。
私を繋ぎ止めている鉄の鎖を壊す手段があれば。そして、鉄の扉に穴を開ける方法があれば。私はここから出られたかも知れないのに。無理な『もしも』を妄想して現状から目を背けることしか、精神を守る手立ては私にはなかった。