第1話
――あれから一体何日くらい経ったのかな。
豆電球の光以外真っ暗な部屋で、何時間かおきに渡される簡素なご飯を食べるときと、目隠しを付けた状態でのみ許可されているトイレ以外は両手と右足鎖に繋がれて動けない生活を私は強制されている。私をこんな目に遭わせているのは男の人みたいだけど、どんな理由があるのかまだ乱暴なことは一度もされていない。
誘拐された以上覚悟はしなければいけないって何度も自分に言い聞かせたけれど、そんなことで本当に覚悟出来るようになるんだったら苦労するわけがない。というか頭の中で意識するたびに震えが止まらなくなってしまう。考えるのをやめようとすればするほど、意識は研ぎ澄まされてゆく。
そのうち、金属が軋むような鈍くて冷たい音が聞こえてきた。今度はどっちだろう。ご飯かな。それとも――
「おはようございます、睦月さん」
ご飯の方ではなかった。顔半分を覆い隠している形状をしたマスクで引き立っているもう半分の顔の気持ちの悪い笑顔に私は恐怖心をもっともっと煽られて行く。誘拐されたときの状況を思い出せないけれど、この人に違いない。私をこうして監禁しているのは……。
馴れ馴れしく、マスクの男の人は私のあごを親指と人差し指でつまみあげて、ぐいっと顔を寄せてきたた。ついに唇を奪われてしまうと思ったけれど、予想外、いや、いつも通りって言えばいいのかな、とにかく思い切った行動としてはそこまでで、男の人は更に薄気味悪く口角を上げている。
「申し訳ありませんね、もうあなただけですから。だから僕が直々にこうやって、見に来なければいけないんです。あなたみたいな可愛い人を直接見ることが出来て幸せですけどね」
もう私だけ。その言葉の真意を問いただすことは許されていないんだろうけど、少なくとも『だから余計なことを考えないで拘束されつづけていてください』という意味だということは、この怖い状況で頭の回転が遅くなっている今の私にもわかる。
直々に見に来ている。それでいて、私を傷物にしようとは考えていない様子。もう、私だけ。
――実験台にされている。何度も行き着いて、忘れようとしていることを思い出してしまうのはこれで何度目になるのかな。
私から血の気が引き、悲鳴を上げたときにはマスクの人はいなかった。鍵のかけられた金属製の扉に跳ね返り、私の耳に反響しただけで終わった。
正面斜め四十五度、顔を上げて私は睨みつける。赤外線を意味する赤い点が、豆電球の光に混じる形で浮かび上がっていた。影になっていて見えないあの位置にあるものを通して、この建物のどこかで疲れ切っている私を見て喜んでいる人達が他にいるということか。本当に悪趣味。吐き気が止まらない。
「……お元気ですか。ご飯ですよ」
それからしばらくして、いつも通り線が細くて女の子と見間違うような男の子が、苦いおかゆと申し訳程度の野菜、そして飲みなれた水道水を運んできた。今日は黒に見えるけど本人が言うのには深緑色をしたボロボロのコートらしきものを上に羽織っていた。
「元気なわけないじゃん……」
早くここから出してよ、と懇願する私のことを申し訳なさそうな顔で見つめて、ご飯を食べ終わるのを待ってくれている彼は自分の名をカルキ、と名乗っていた。まだ余裕があったときに「水道水とかに入ってる、あの?」などと突っ込みを入れたこともあったが、名前の由来はまだ教えてくれていない。
ただそれとなく聞いたところによると、もちろんではあるけれど本名ではないらしい。彼は記憶喪失で、今の親に当たる人物につけてもらった名前なのだとか。もっといい名前をつけてあげられなかったのかな、と感想を言うと、カルキ君は苦笑いしていた。
私に決まったご飯を持ってきてくれるのは、常にこのカルキ君だった。オペラマスクの怪しげな男の人とは違って、彼には気持ち悪さというか、そういった類のものを一切感じなかった。彼と会話できる短い時間だけが、ここでの唯一の楽しみとなってしまっている。
少しずつではあるけれど、彼とは色々な会話をした。私が五歳ほどの頃、両親が突然死んで孤児院に行くため神月村を離れなければいけなくなったこと。両親はギスギスしていたから死んでも悲しいと思わなかったこと。死ぬ数日前に離婚して私の苗字が変わったこと。中学三年生のとき神月学園に行きたいと願い、孤児院の先生に無理を言って今アパートで一人暮らしをしながら頑張っていること。孤児院の場所は違うけれど、同じ境遇の亮太郎君という人が同じ学年の違うクラスにいること。そして、かつて神月村には私の小さな初恋の人とその妹さんがいて、三人でよく遊んだこと。
私の全ての話を、カルキ君は嫌な顔を一つもせず興味を持って聞いてくれていた。でも、それでもカルキ君は記憶喪失ということもあって、自分の身の上のことを現在のことも含めて一切語ってくれず、聞く側でしかなかった。
お元気ですか、の言葉から始まるいつも通りのやり取りの時間は、私がおかゆと野菜を食べ終わったらどれだけ盛り上がっていても強制的に終わってしまう。それがとても悲しかった。
「また会いましょう」
そのとき彼は優しく微笑んでくれるのだけど、振り返る一瞬、なんとなく表情が翳っていくように見えるのは気のせいなのかな。
「――遥さん」
金属の重たい音が響くと、マスクの人かカルキ君がやって来るまでとにかく苦痛な時間を過ごさなければならなくなる。このときの孤独感が本当に嫌だった。嫌だったけれど、私にはここを抜け出して元の生活に戻りたいという強い意志はかろうじてまだ残っている。だから舌を噛み切ろうとは思わなかったし、マスクの人もそれもわかっているのか、私に猿轡を噛ませることを考えていなかった。
――ああ、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
これも何度目になるかわからない、時間潰しでしかない回想の時間に私は入り浸る。