最終話
気がつけば俺は総合病院のベッドの上で仰向けになっていた。
やはりというべきか、昨日の数々の轟音は近所の人々を起こすのに十分すぎるものだったらしい。最初は壮大な家族喧嘩でもしているのだと思ったらしいが止まぬ騒音を異様に感じたのだろう、折りを見て警察に通報したのだという。その判断は結果として正しかったが、救急車も同時に呼んでおいた方が効率的だったと思われる。
俺が目を覚まして最初に映った人物は医者ではなく無精ひげ刑事の黒澤さんで、少し落ち着いた後に一体何が自宅が起きたのか二、三ほどの質問をぶつけられた。どうして居間がめちゃくちゃに切り刻まれているのか。菫は意識がはっきりしていないが、どうしてなのか。
前者はある意味正直に答えた。市を騒がせている連続殺人事件の犯人に襲われたのだと。しかし事の顛末を正確には伝えず、犯人には逃げられたのだとウソをついた。黒澤さんに俺のような能力がないことを心底安堵した。初めての生存者ということもあって、あとで事情聴取されることは覚悟しなければいけないだろうが。
後者は答える必要がなかった。前者の質問にウソをついたおかげで、黒澤さんが適当なことを察してくれたのだから。むしろ質問をぶつけ返したのは俺で、お陰で菫が隣のベッドで寝ていることがわかった。
「そう言えば、何で父さんは来ないんですか」
当然といえば当然の質問を、俺は最後にぶつけてみた。元はと言えばあの冷酷な男のせいなのだ。あのクズ父親がもっと家庭としっかり向き合っていれば、もしかしたら母親は屍鬼とかいうのになることもなく、こんな酷い結末を迎えることなんてなかったかも知れないのに。
俺の怒気のこもった視線を、黒澤さんは真摯に受け止めてくれた、ように見えた。
「……坊やの気持ちはよくわかるがね。あの警部サマも苦しんでいるんだよ。何せ自分が調べたくもないような事件を何年も解決に導けってお偉いさんから命じられてるんだからさァ。かわいそうだけど今の警部サマは奴隷だよ奴隷。そんなあの人の気持ち、わかってやってくれや」
「奴隷……?」
調べたくもないような事件ってなんだと訊いてみたが、無精ひげを愛おしそうに弄って口が滑っただの坊やには関係ないから忘れろだのいい加減なことを抜かしている。そのうち黒澤さんはそういえば新しい事件があるんだったとか言っていなくなってしまった。
父親には何か事情があるらしい。しかし、そんなこと知ったことではない。事情を家族と分かち合えない守秘義務があるだろうことは理解出来るが、それでも家庭を顧みない理由には絶対にならないのだから。あの男のことは考えないようにした。
俺は心の中を整理した。
――嵐のような夜はとっくに過ぎ去っていて、外はカラスが情緒たっぷりに鳴いている。
白い世界に包み込まれる前に、俺は晦に願い事を告げた。本来口にするはずだった内容とは別の、もう一つの提案の方を。短い時間ではあったけれど、考えに考え抜いて出した結論をあの女は笑顔でこう評価した。
『思ったとおり、身勝手な男だな』
自分の記憶可愛さに妹を実質死に追いやるクズ。『命』を『そのもの』の形でしか考えていない。恐らく晦はそう受け取ったのだろう。無神経に受け取られたことを俺は酷く憤慨した。やめておけばいいのに、感情の剣を呼び出し、彼女の首元に突きつけていたのである。このときの剣は、何故かドス黒く、歪んでいた。
怒りに駆られた俺の行動すら、彼女には予想通りだったらしい。恐れもせず、にこにこと笑ってみせた。神経を逆撫でするのが本当に上手いなと感心すら覚えた。そのまま首を跳ね飛ばしてやろうと考えたが、腕が動く前に俺の体力の方が限界を迎えていた。
その晦だが、病室には見当たらない。怪我していたわけではないし当然か。家の中に倒れていたのは俺と菫だけだったらしいので、警察が駆けつける前にそのまま退散したのだろう。何せ神なのだから、ワープでもしたか。異次元空間みたいなところに。
――お前は既に私のものだ。
告白まがいの台詞を不意に思い出す。あれはどういう意味なのだろう。俺のことを英雄だと言っていたことと何か関係はあるのだろうか。半ば勝手に俺に植え付けたエモーショナリーなんとかという能力も、きっと無関係ではあるまい。
そのうちわかるようなことの気がするが、あまり良い予感はしない。負の感情に支配されても苦しくなるだけだから、今は一旦考えることを放棄することにした。
「……菫」
黒澤さんの言うとおり、菫は隣のベッドで寝息を立てて寝ていた。彼女の命は間違いなく救うことが出来た。本来は死ぬはずだった運命を回避させられたのだ。晦は俺の意志に応え、約束を反故にはしなかった。きっと、それは喜ぶべきことなのだろう。
しかし。しかしだ。
菫が目を覚ましたとき、俺は思い知ることになるのだろう。愛した菫は既にこの世にいないということを。俺に依存していたあの子は、もう帰ってこないのだということを。起き上がった菫は、菫の皮を被った別人であるということを。
これでよかったんだ、俺は自分自身にそう言い聞かせる他なかった。俺は業を背負って生きていくことを選んだ。妹には生を死を同時に与えたが、苦しみを味わわせることだけは避けさせた。ただそれだけの事実なのだ。選択の余地はなかった、気に病むことはない。
それなのに、ああ、それなのに。
何故俺は泣いているのだろう。泣くことはないじゃないか。俺が選んだ選択だ、後悔することはない。もう一つの選択肢は俺が死に、菫も悲しむ。ヒロイックな思考の者が溺れる、一番最悪で悲劇のヒロイン気取りしか喜ばない結果に陥っていたのは明白だ。それを選ばなかっただけ、俺は利口だ。賢かったんだ、間違ってなどいないのだ。
しかし、それでも。俺の涙は一日中止まることはなかった。
――時折窓から入ってくる十月の風が、俺のことを自分勝手で愚かな男だとせせら笑っているような気がした。
神無月編 了