第10話
正気を取り戻して数分もしないうちに、俺は水色の胸倉を掴み上げていた。俺が彼女の身体に触れられるのは彼女が意図的に干渉しようとしているからなのか、単に屍鬼って奴が彼女に傷をつけられないからなのか、判別がつきようがない。それに、今はどうでもいい。
ご丁寧にも傷心の俺に彼女は自己紹介をしてくれた。名は晦。古くより神月の地を守る神の一柱なのだという。鎌を持っているが死を司る神のつもりはないとのことだ。神なんて胡散臭い存在を信じるつもりなど毛頭ない俺でも、今だけはどうしてもすがりつかなければならない理由が生まれた。
――もちろん、菫のことだ。
菫はやはり動かない。先ほど触れたときよりも身体はずっと冷たくなっていたし、抱きかかえようとしても重たくてどうしようもなかった。菫はもっと軽かったはずなのに。
気が狂い、悪霊となった母親の魔の手により命の失われたあの子のことを神であればもしかしたら、と考えるのはきっと通常な思考であろう。彼女が偽りなく神であることは俺の能力を持ってすれば理解出来てしまったし、そうじゃなくったって、あの非現実的な光景を目の当たりにしていたら誰だって信じるだろう。そこまでの説得力はある。
「お前の母により死んだ者は八人となった。なのに、妹の復活だけを望むのか?」
この類の嫌味は十分に想像出来た。俺は悪びれもせずに返す。俺は正義の味方ではないのだと。母親と父親の知り合いというだけで直接俺と関わりのない者の命を取り戻したいと考えるほどの博愛主義者ではないのだと。
俺のまっすぐな返答は、晦の気分を損ねるどころか良くしてしまったらしい。いや、彼女はどうも俺の人間性を詳しく知り尽くしているようなのだ。読み通りだと言いたげに口角を上げて静かにいいだろう、頷いた。
しかし案の定、この手の話に相応の代償は付き物だった。当然か。俺が求めているのは蘇生なのだ、タダで済ませろとは思っていない。俺の命を差し出せというのなら、いくらでもくれてやるつもりだった。
だが、晦は予想外にも首を横に振った。
「お前は既に私のものだ。まさか最後のお前を最初にするとは思わなかったがな、既に命は預かっている。預かっているものを願い事の代償にすることは不可能だ」
どういう意味だよ、という俺の当然の疑問には晦は何の返答も返す気はないようだった。
「妹の蘇生を願わくば、次のうちどちらかを捧げよ」
――お前の記憶か、神無月菫の記憶か。
無感情で放たれたそれを、なるほどなという短い感想と共に何度も反芻させた。母親を俺の手で倒させたときに薄々感じ取れてはいたが、非常に意地の悪い神様だ。
人間にとって『生』とは何か。それは、ご飯を食べ酸素を吸い、24時間を生きることに留まらないものである、と俺は信じている。具体的に言うのであれば経験、つまりは記憶だ。人間はこの記憶があるからこそ、余命まで生き長らえたり、自分の手で死を早めようとするのだし、天寿にもバラつきが生じるのだ。専門家の知識を取り入れたわけでは決してないが、俺はこのことを事実として疑わず、持論の一つとして抱えている。
そしてそう考えていることを晦はわかっているというわけだ。記憶をなくした人間は、それまでの『個』と決別するのだということを。つまり、命を捧げることよりもより性質の悪い取引だということを。知っていて言っているわけだ。
『お前、生きてて楽しいって思ってるか?』
最近出来た友人の、つい昨日の言葉がふと蘇ってきた。
まさかたった一日で、黒色の人生が深淵に落ちてしまうとはな。どちらにせよ菫と一緒に楽しく生きるという夢は叶わないのだ。俺が敬愛していた母親には、悪霊の姿で全否定されたのだ。父親との確執は解決どころではないのだ。
――生きてて楽しいものかよ。
「じゃあ俺の」
――そこまで言いかけて、時間が凍りついた。
待て。
もし、俺の記憶を晦に差し出したら、菫はどうなる。あの子は俺に強く依存していた。俺がここに来て嬉しいと、はっきり口に出していた。もちろん、『俺』というのはガワの話じゃない、中身のことで、今の言葉をそのまま続けていたら、『俺』は『俺』ではなくなる。つまりだ。
菫を、また一人ぼっちにしてしまう。
俺は非常に自分勝手な人間であると自覚していた。両親が別居を決めたあの日、泣きじゃくる菫をあやしたのは、俺が母親と一緒に過ごすためだった。金銭面的な事情や、今となってはよくわからない両親間の都合によって二人一緒に母親の元で暮らせないのなら、父についてまだ詳しく理解していない菫を残した方が都合がいい。五歳くらいだった俺がこの全てを考えられたわけではないだろうが、少なくとも半分ほどは意識していたことだったはずだ。
生まれついての自分勝手人間。それが俺だ。だがここに引っ越してから菫の笑顔を見て、あの子のことを幸せにしたいと願ったのは自分勝手とは程遠いはずの、本心であると信じたかった。
どうすればいいんだ。
「どうした、神無月」
痺れを切らしたのか、晦は俺を急かしてくる。しかし、その表情はどことなく楽しそうで、女の顔をしていなければぶん殴っていたかも知れない。
「俺は――」
意識が飛びかける。先ほど使用した障壁と剣の代償によるものなのか、血を思いっきり抜かれたような感覚を覚えている。完全に意識が途切れる前に、あの子を、助けなければ――
願いを伝えた後、俺は真っ白い世界に包まれた。その世界は冷たくも暖かくも、悲しくも楽しくもない、無機質な場所であったように思えた。