第9話
俺の意識が完全にシャットアウトしてしまおうかという直前、激痛を耐え切れないような悲痛な金切り声によってギリギリ意識が留まる形となった。同時に、締め上げられるような激痛は瞬時に消え去り、身体は俺の意思とは他所に息を整えることを最優先にした。
ぼやけていた視界は、少し時間をかけてではあるが整った形へと戻る。俺は膝をついて、手をついて身体を支えながらゆっくりと立ち上がり、居間をのた打ち回る母親の姿をしているはずの悪霊へと目をやった。俺を掴むことに利用していた手らしきものは両方とも切断される形で床に落ち、砂とも錆とも言えぬ物質となって沈静化している。悪霊が声にならぬ声を上げている原因であろうことは推察するまでもなかった。
「道理のわからぬ屍鬼風情が」
感情がわかりにくい声が背後からした。再度悪霊が襲い掛かる危険性を無視して、無防備にも俺は声の主を確かめるべく後ろを振り向いた。
「――ぁ」
彼女は、いつぞやの水色だった。
出で立ちそのものはほとんど変わっていない。腰の位置まで届きそうな美しい髪を揺らめかせている。彼女の華麗なる色を引き立てているのは、神月学園の地味な黒色ブレザーであった。俺自身が立ち上がった状態で見るのは初めてだからか、あのときより身長は小さく感じた。
だが、あのときの彼女は恐怖心を煽るような青色と紫色、時折白色の電流のようなものが流れるオーラみたいなものなんて纏っていなかったし、何より吸い込まれてしまいそうな美しいデザインと真紅が特徴の、身長の倍くらいはある鎌を構えてもいなかった。
――彼女は、一体。
「神無月」
あのときと同じ声で、俺は呼ばれたはずだった。しかし状況も違う、何より彼女を彼女たらしめる雰囲気が大幅に違う。返事をする代わりに、生唾を飲み込むのが精一杯であった。
「私には屍鬼に対するこれ以上の干渉は赦されていない。お前が倒すのだ」
屍鬼? あの母親の姿をした化け物のことか。しかしなかなか面白いことを言ってくれる。腕を斬りおとしたのが誰なのかは考えるまでもないことだが、俺が倒さなければいけないだって。先ほどまでの体たらくを知ってか知らずか、無責任な。
そもそもどうやって倒せばいい。あの化け物はそろそろ狂気という名の正気を取り戻しそうだ。腕がなくとも、残った躯全体を利用して俺を押さえ込むくらいわけがないだろう。台所から包丁を取り出し、刺し殺せとでも言うつもりか。あの亡霊を。物理的な干渉を受け付けるとは少々考えにくいのだが。
「お前には既に加護を与えている」
英雄発言しかり、わけのわからないことを言う女だ。思わせぶりなことを言う暇があるのなら、もう少しわかりやすく伝えてくれたらどうなんだ。怒鳴りつけるように言葉をぶつけてみたが、眉一つ動かさない。そもそも、大袈裟な鎌を手に構えておきながら何もしてくれないとはどういうことだ。
『フ、フ……フザケル、ナァァッ!!』
母親に似たそれは本調子とまでは行かなくとも戦意を取り戻すことに成功したらしい。激怒の意を込めた咆哮に身を翻したときは、奴は目と鼻の先に居た。
もうダメか、と頭で考えるのと、身体を右に逸らして突撃を避けるタイミングはほぼ同時だった。俺への攻撃が外れたそいつの矛先は悠長に構えている水色の女に直撃する。はずだったのが、どのようなからくりが施されたのか、あっさりとすり抜けてしまった。
バケモノがこの状況で彼女へ攻撃しないよう配慮したと推理するのは無理がある。見た通り、彼女には攻撃を仁王立ちしたまま避ける術があった。魔術とでも呼ぶべきか。一切の現実的思考を排除した上で、そう考えた方が自然である。
「お前の意識の中には、既に植えつけられているはずだ。今の状況をどう打破するか」
間一髪攻撃を避けられた代償に崩れた体勢を立て直そうとしている間に、バケモノは目をひん剥いて俺に狙いを定めてくる。慌てて立ったおかげでカーペットが大きくズレてしまったがそんなことを気にしている場合ではない。
俺は目線を左に逸らした。今は思考の外に置いておこうとしていたのに、不幸にも愛する妹が先ほどと一切変わらぬ状態で伏せているのが目に入ってしまった。非現実的な状況が突然発生してしまったことへの並々ならぬ怒りは、舌打ちという形以外で発散されなかった。
逃げることは許されていない。意を決して、俺を殺すことにご執心なそいつを見据える。
――既に植えつけられている。
こんなときにも無節操に発動する俺の能力によれば、彼女はこの期に及んで冗談を言うようなタチの悪い人物ではないとのことであった。つまり、俺には本当にあるのだ。愛する母の姿をした何かに対し、終止符を打てるだけの確かな手段が。
『ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲ!!!』
先ほどよりもスピードが速い。いや、自分が深手を負ったせいで速く感じるだけか。どちらにせよ、これ以上その手段とやらを模索している時間は存在しない。
「あああああああああああああッ!!!」
吼えた。深夜帯だとか近所迷惑だとか、そんなお行儀の良いことを考えずに力の限り大声を上げた。それでなんとかしようと考えての行動ではなかった。言ってしまえば破れかぶれ。方法など思いつきもしないことと、唯一この状況を助けることが出来るのであろう少女に対する憤慨が起こした無策中の無策だ。
一瞬だけ屍鬼だかの行動が鈍ったような気がした。だがそれもほんの一瞬、奇行を取った俺に驚いただけにすぎず、人外であるそいつの足止めをするには至らなかった。
しかし。
――この奇策が奇跡的とでも言うべきか、俺にとっての正解だった。
『ガァ!?』
驚愕と焦燥が入り混じったような奴の声と同時に響いたのは、耳を押さえたくなるような甲高い金属音に似た高音だった。今の状況では無駄であろうが少しでも痛みを和らげるようにと顔の前で腕を交差させていた俺が、起こったことを理解するのに数秒かかった。
「ほう」
少女の満足げな声が耳を抉る。今は気にしないようにしたが、俺の身体を包み込むように張り巡らされていた水色と緑色の入り混じった球体のようなもののことは無視出来なかった。感情防壁。どこか得意気な態度でその少女が呟いていた。
『ナンデ……ナンデエエエエエッ!?』
記憶に引っかかる声だと先ほど考えたが、その姿を維持している今ならより深く理解出来る。化け物だとか炎だとかそいつだとか、敢えてぼかすようにアレのことを差していたが、その声は母さんのものであった。酷くノイズがかかったような、反響しているような気味の悪いオプションはついているけれど、今となっては確信がある。今になってこんなことを考えているのは、結局は認めなくなかったのだろうな。
鎌による一撃と俺のなんとかフィールドによる攻撃反射によって、目の前にいるそいつの躯は今にも崩れ落ちてしまいそうなほどボロボロである。唯一母親を模した顔だけが目元以外きれいに整ったままだというのが何とも皮肉だ。
「母さん」
二秒ほど目を閉じた後、勢い良く開眼した。俺が吼えたことで攻撃を遮断し跳ね返す壁が生み出されたというのであれば、きっとこういうことも出来るはずだ。根拠はないが彼女の言葉を借りるのであれば意識の中に既に植えつけられていた、のであろう。
「覚醒せよ」
普段の俺であればゲームのやりすぎだと笑い飛ばしそうな状況だ。だが知らぬとばかりにとても大真面目な表情で、それをやってみせた。右手を思い切り伸ばし、顔を俯かせる。伸ばした腕に己の精神を込める感覚を覚える。そして呟く。ただそれだけのことだ。
高校生にもなれば大半が毛嫌いするようなそれが、水色の少女によって植え付けられているというわけだ。まったく迷惑な話だが、目の前を化け物を討つには非常にありがたいものであることを思い知った。
――握り締めた右手に、青白く光る剣状の何かが生まれた。アニメ化された昔の漫画で似たようなものを見たことがあるな、などと悠長なことを一瞬だけ考えた後に怯えの表情を見せ始めたそいつを見下ろした。
浄化される、とでも考えたのだろうか。再度炎のようなものを纏って俺を喰らうべく襲い掛かってくる。それしか出来ないのであれば、今の俺が負けることはない。右手に生まれた剣――水色の少女いわく感情の剣――の影響か、憔悴しきっていた精神の中に自信に近い感情が生まれている。
頭を振り下ろして牙に似たモノを俺の頭蓋に突き刺してこようとする一瞬の隙を見逃さず、俺は激昂しながら振り上げた。いつか見たSFものの映画のような嘘くさい効果音が本当に流れて、バチバチバチ、と奴の躯に火花が散ったのが視覚でも見て取れた。
バランスを崩してなおも床に叩き落されるそいつに対し、俺は容赦ない猛撃を加えてやった。菫を失った悲しみからか。救えなかった自分自身の怒りからか。あるいはその両方か。俺の感情は文字通り剣となり、家具を、父親か叔母さんが育てていたのであろう観葉植物を、ついでに俺の服を、そして母さんをズタズタに引き裂いて引き裂いて引き裂きまくった。
『ア……アァ』
弱々しく呻き声を上げるそいつに、もはや抵抗の意志などなかった。気がつけば俺の感情が生み出していたという光の剣は手の中から消え、俺自身はというと掴めもしないのに母親に掴みかかったような姿勢を取って睨みつけていた。
「……なんでだよ」口の端がぴくぴくと痙攣しているのを自分自身でも感じる。菫が生きていたのならば、いつぞや以上に俺に対して恐怖心を抱いていたに違いなかった。「なんでこんなことをしたんだよ!! あんたは、母さんは!! 知人や友達のことも!! 俺達のこともッ!!」
『……アンタモ、菫モ』
音を立てて緩やかに浄化していく母親は、最期にとんでもないものを俺に残していった。
――産まなきゃ良かった。
切り刻まれた壁時計が床に落ちるまで、俺は正気を取り戻すことが出来なかった。