プロローグ
――神月市。今から三年ほど前に神月村を中心に五つほどの町村が合併し出来上がったばかりの市は、『世界で最も月に近い地』などと謳われ今日も観光客でにぎわう絶好の観光地となっている。
世界中から注目されている市であることは疑う余地もないが、ここまで盛況したきっかけは世界三大企業の一つである『満月コーポレーション』の濃密な宣伝が主要因であるという。レジャー事業を中心に様々な方面に手を出しているその会社が二十代前半の若き社長によって動かされているということは、現代に生きる者であればほぼ全ての人が知ることであろう。
その満月コーポレーションの社長は、今年度から神月市立神月学園の校長となったらしい。ただでさえ忙しいだろうに、学校の校長も兼ねるだなんて自殺行為も甚だしいのではないだろうか。
久しぶりに神月村……は合併して神月市になったんだったな、とにかくそこに帰るため低速で走る汽車に揺られながら、俺は複数枚のパンフレットを適当に放り投げて、浅く息をついた。
――母親が死んで、しばらく経つ。
家庭を省みずに警察官の仕事に明け暮れて今や偉い立場になった父親のことなんぞどうでもいいが、妹の菫の面倒を見てやれることは内心楽しみで仕方がなかった。叔母さんも肩の荷が降りることだろう。
問題は菫に嫌われないかどうかだけだ。一緒に住んでいた頃の俺は恐らく今より理屈っぽくなかったし、物事をストレートに伝える技術が遥かにあった。母親との二人暮らしで身に着けた面倒くささを、純粋なあの子がいつまでも笑って見ていてくれるとは考えにくい。
まあ、なるようになるか。所詮高校生でしかない俺に与えられた選択肢なんて多くはない。世界中の恵まれない子供達の余地のなさに比べれば、俺はずいぶんと恵まれている方なのは間違いないのだ。俺は腕を組み、汽車内に鳴り響く声が終点を告げるのを待った。
まばゆいほどの夕陽が、静寂な空間を照らし始めた頃だったか。ガタガタ音を除けばそうとしか表現出来ない場の空気を、流れるような水色が引き裂いた。艶やかなそれに、俺はなすすべもなく目を奪われる。
『彼女』は学生服を着ていた。俺が先ほどまで見ていたパンフレットに同じ制服が載っていたのをすぐに思い出す。後ろ姿では全容を評価できるわけではないが、地味すぎず派手すぎず、一言で片づけるなら普通。美しく輝く髪色を除けば。
ぴたり、と足を止めた。いけない、凝視していたら変人に思われる、と刹那的に思考が働いて目線を外の風景に移したが意味を成さなかった。
「神無月、翔」
凛とした声に対し条件反射で俺は頭の位置を元に戻す。水色の髪の主が、睨んでいるような微笑んでいるような、はたまた泣きそうなような非常に形容が難しい面持ちで俺の方を見つめていた。俺の名を呼んだのだから、俺の席の謎のシミに目を奪われているわけではないだろう。
整った顔立ちと嫌でも目を引きそうな巨乳に俺はさほど興味を抱かなかった。顔に一滴の冷や汗を垂らしながら考えていたのは、たった一点の無根拠で失礼な第一印象だったのだ。
――この女には、現実感がない――
「お前で十二人目。最後の一人だ」
ぴしゃりと鞭を打たれるような冷たい声で、彼女はそのように言った。その声から何の感情も感じ取れず、不気味さだけが場に残り続けている。息を飲んで、俺は返す。
「……何が」
「英雄」
……ああ、なるほど。俺は瞬時に理解する。俺がもともといた学校でも、そういったある種の病気から抜け出せずに周りの手を焼かせていた奴がいたことを思い出し、それと同類なのだと判断した。
「お前はまだ何も理解していない」
心の中を見透かされたようだった。一瞬だけ時が止まったような感覚を覚える。
「だが、私はすべて見ている。すべて――」
言い終わるや否や、彼女は踵を返して隣の両へと消えてしまった。混乱から解けた俺が彼女の後を追ったのはそれから数秒しない内だったが、隣にも、その隣の両にも彼女の姿はおろか人の影がなかった。
夢でも見ていたのだろうか。母親が死に、新たな生活を強いられているということでそれなりに精神的に来るものは感じているが、それでも白昼夢を見るような習慣だけは生まれなかったというのに。しかし、考えてみれば夢にしては現実感がありすぎる。
――現実感がない、現実感?
俺の恐らくこの時点では答えの見出せない思案は、神月市の到着を告げるアナウンスによってかき消される。慌てて自分の席へと戻り、量が多いとも少ないとも言えない手荷物と菫たちへのお土産袋を手に、俺は新天地へと足を踏み入れたのだった。
身体を穿つ十月の風は、冬の到来を告げているとは思えないほど生暖かかった。