灰の中で
ワタシは、ある一人の少年と旅をしている。ワタシは人間ではない。
今、少年はワタシに罹っている呪いを解いて、ワタシを人間に“戻そう”としている。なぜワタシがこうなったかを彼は知らない。
ワタシは、呪いを解いてしまって人間に“戻る”ことを望んでいない。
今のままでいい。
ワタシが感情を取り戻した時、彼は恐らく消えてしまうだろう……
だから、今のままでいい。
何も、変わらなくていい。
ワタシが生まれ育った故郷は、とても大きな国だった。
しかし貧困層が非常に多く、裕福な暮らしをしている者なんてほんの一握り程度の王族や貴族しかいなかった。ワタシは孤児だったが、この国ではさほどめずらしくはなかった。
ワタシとまだ言葉もおぼろな頃から付き合っていた少年がいた。彼の名は“ソウ”。彼もまた、ワタシと同じ孤児であった。
ワタシ達は、二人で一人も同然だった。帰る場所がどこにもなかったワタシ達は、一緒に寝る場所を探し、食べ物が手に入らなかったときは一緒に耐え、真冬は風を隔てるものが何もない中、一緒に凍えた。それでも、一人でいるよりはずっとましだろう。
もし彼がいなかったらワタシは、餓死したか、自害したか、殺されたか、ともかく、もうとっくにこの世にはいなかったと思っている。そして、それは彼も同様。
ワタシがいなければ、彼が生きているなんてことありえないのだ。
ワタシが生きた町は、かつて栄えた貴族達の残したぬけがらのような場所だった。
この国では下民の反乱なんて、ほぼ毎日のように繰り返されている。しかしそのほとんどは下民の敗北に終わる。
貴族達は人を殺傷するためだけに作られた酷烈な武器を駆使して、下民との力の差を見せつけていた。この町は数少ない下民の勝利の証だろう。
ぬけがらのような町といっても、貴族や商人達がいなくなっただけであって、むしろ下民達が一斉に移り込んだため人口は大幅に増加した。
しかし、今までの活気に満ちた賑やかな雰囲気は一変し、この時の町は、不安 や、苦悶や、殺気に満ちていた。
町はずれには不自然に高い塔があり、そのほかは小さくて汚い木造の家が敷き詰められるように並んでいる。
下民の支配下になってからというもの、人口が多すぎて増築を繰り返し、嵐がくればすぐに潰れそうなくらい簡素でぼろぼろの家ばかりだった。
家々が密集しているせいで、道幅は狭く、いつもじめじめしていた。
この薄汚い貧困層の人々が集まる町で、ワタシ達は生きていくためなら盗みだって、なんだってした。
夏の夜だった。一際輝く満月の月明かりが、もう眠りに入りつつある町全体をほのかに照らしていた。
ワタシ達は、もう動く気力のない人々が横たわったり、うずくまったりしている通りを駆け抜け、町のはずれに一つだけ不自然にそびえ立つ例の塔へ向かった。
この町の、唯一この町らしいところがこの塔だった。
塔は、下民に埋め尽くされないよう普段は立ち入り禁止だが、月明かり以外明かりの便りがない夜は誰がこようが、誰も気付くことはなかった。
ワタシ達は暗がりの中、町を少し出て塔の真下にくると遠慮することなく一気に塔の内部にある真っ暗な螺旋階段を駆けのぼった。
古い木製の階段がいきなりの振動に耐えかねて、ギシギシと大きな音を鳴らしたが、そんなことは気にも留めなかった。
その塔の上端部分には大きな長方形の障子窓がある、人二人で入ると少しゆとりができるくらいの小部屋があった。
ワタシ達はその部屋に辿り着くと、二人で一気に障子を両端に引っ張って窓を開けた。
窓を開けると、まず満月の月が目に入り、次にこの時はこの世にただ一つしかないと思っていた大きなこの国の全貌を見渡すことができた。
ワタシ達がいる町の、大きな川を隔てたすぐ先に王族達が暮らす美しい装飾が施された立派なお城や、きれいに整備された城下町が見えた。
そしてその城下町の何倍もの面積で、薄汚い家々が密集するワタシ達の町だけではない下民共の暮らす町が、呆れるほど広がっていた。
この、満月の夜に塔の上に来ることは、ワタシ達二人の小さな儀式のようなものだった。
「この景色だけは、何度見てもきれいだね。ソウ」
「ああ、ほんと、憎たらしいくらいに貴族達の町はきれいだよな」
「……僕は、僕らの暮らす町も含めて、きれいだと思うんだけどな」
「何かの腐ったにおいさえなければな」
「……それは、言えてる」
それから暫く、ゆっくりと時が過ぎた。そして、ソウが言った。
「なあ、“ ”。俺らが小さい頃ばーさんが言ってたさー、満月の夜、この塔の上にいるといいことが起こるって、あれマジなのかよ……」
「―ええっ! ほっ、本当だよ! おばあさんは、ああ見えて嘘はつかないんだ……多分」
「でも、俺らもう、何年も満月の日はここに来てるけど、何にも起きたことないじゃん」
「だめだよ……ソウ……僕らにとって、たった一つの希望なんだよ、信じてなかったら、僕ら死んじゃってたかもしれないよ。大丈夫だよ。あのおばあさん、死に際まで嘘つくほど性根腐ってないよ」
「……それもそうだな……でも“ ”、俺らは、そんな簡単には死なないぜ。一緒にいる限りはな!」
「うん! ならソウ、お月さまにお願いしよう! 僕たちずーっと、一緒にいられますように、って!」
「ああ! ついでに、いつか大金持ちになって、馬鹿な王族をぶっ潰せますように、ともお願いしろよ!」
「……僕、ソウのそういう、馬鹿正直で単純明快なとこが好きだよ」
「……? ……っなんだとっ!」
「わー、冗談、冗談だってば」
その瞬間、ソウの目つきが変わった。
「…………」
「―? ソウ、いきなり黙り込んじゃって、どうかした? おーい」
「……おい、“ ”。観ろ、あれを」
ワタシはソウの視線の先に目をやった。
すると、この時はあの世の入り口だと思っていた国の外の山から、なにかが、こちらに向かってくるのが見えた。
黒い、人のようなものが、何千と何万と、こちらに、来る。
はっきり言って、この時のワタシは今起こっている現象を理解しえなかった。 ただ、膨大な数の黒い一団が、あの世からこちらに向かってくるのだ。
「……なに、あれ……」
黒い一団は国の近くまでやってきて、やがて、下民の町の一部を呑み込んだ。そして一団は勢いを止めることなく、少しずつその大きさを増しながら国を呑み込んでいく。
中には、一団に気づいて国の内側に逃げようとした人もいたし、ただその場で自分の出せる限りを尽くして叫びまくる人もいたが、一団が国をゆっくりと制圧することになんら差支えはなかった。
その間、ワタシは得体の知れないその一団を、ただ塔の上から身を震えさせつつ眺めることしかできなかった。
怖かったと、思う。まあ、今となってはその時の感情なんて何も思い出せないのだが。
もう、あれから一時間は経っただろうか。
王族達は巨大な大砲を何台も用意して、国民なんてお構いなしに国中に厖大な発砲音を響かせたが、黒い一団のほんの一部が少し欠ける程度で、圧倒的な戦力不足だった。
いつの間にか、発砲音が聞こえることはなくなっていた。同時に、優雅な眠りを妨げられた貴族や王族の、あらん限りの力で泣きわめく声が国中に響いた。
そして、最後には国全体が黒く染まり、静かな夜がこの国に再びやってきた。
残ったのは今ワタシ達がいる、国から少し飛び出た小高い塔だけになった。
とにかく、ワタシは何か自分にできることをするでもなく、ただ塔の先端にある小さな一室で、ガチガチと歯の音を鳴らし、体を縮めてうずくまっているだけだった。
―ギシッ
塔に重苦しい、古い木の軋む音が轟いた。
それは、一番上の小部屋にいるワタシ達の耳にも確と聞き取ることができた。
その音は規則正しく間隔を措いて一歩一歩、確実にこの塔の最上を目指し迫ってきた。
唐突に、心臓の音が壊れた機械のようにスピードを上げた。歯の震えも激しくなった。もう、死ぬのだと思った。
「 “ ”、安心していい。俺が、守ってやる」
ソウが、ワタシにそう言った。ワタシには、どうしてソウがこんなに落ち着いていられるのかが不思議だった。
塔に響く振動が一際大きくなり、ここまで歩いてきた人間はワタシ達の前に姿を現した。
その人間は、全身に真っ黒な衣装を身にまとい、顔には不気味なお面をつけた長身の女性だった。その女は出し抜けにこう言った。
「まあ、私のかわいい子供よ! 予言通りに、この塔で待っていてくれたのだな。この薄汚い国からそなたを助けに来たぞ」
女は、ワタシの方を向いていた。しかしワタシには何が起こったか理解することより、止まらない心音の加速をどうにか和らげようとすることに必死だった。
「―ふざけるな!」
ソウが、急に大きな声で叫んだ。
「自分の子供を捨てた奴なんかが親気取りするな! あんたは“ ”の親なんかじゃない!」
ワタシは何が何だかさっぱりわからなかった。
「……お前は誰だ。お前は私の子供の“何”のつもりだ。」
「俺は、“ ”とずっと一緒に生きてきた仲間だ! どんなことがあっても、“ ”を守る!」
「小賢しい。私の子の人生は私が決める。当たり前だろう?」
「……」
「……ソウ……?」
その時のワタシには、今起きた全てのことについて、意味が分からなかった。
いきなり、ソウは腰に吊るしていた短剣を鞘からぬき、殺気のこもった瞳で女の心臓めがけて突進した。そして、刃先は女に……刺さらなかった。
あと、女までほんの数ミリの処で、ソウは動きを止めた。
その場に、ソウはがくりと倒れ込み、木製の床には鮮やかな赤色が染み込んだ。
うつ伏せで全く動かなくなったソウの後ろに、体格のいい黒ずくめの男がいた。彼の右手には、血で赤く染まった、大きな両刃の伐採斧が握られていた。
「さあ、先ずはこの面をつけなさい」
女はそう言って、ワタシの顔に大きな丸いお面を押し付けた。目の前が真っ暗になった。
「そなたは、今から神聖な生き物じゃ。いいか? もうこれからは何もそなたは望んではならない。自由も、自分が人間であることも、決して望んではならぬのじゃ」
女はワタシに近づき、ワタシのお面に手を当てた。
「神聖な生き物には―目などいらぬ。耳などいらぬ。口などいらぬ……」
それから延々と、女はワタシの耳元で呪文のように何かを囁き続けた。
その後、ワタシは何をされたかはっきりと覚えていない。
ただ、不気味なお面をした者たちに囲まれ、気が付いたらワタシは暗い洞窟のような場所にいた。
そして、明らかに自分の思考が変わっていることに気づいた。何も、感じることがなくなったのだ。
恐怖も、痛みも、悲しみさえも。自分から、大切なものが全て消えたようだった。
ワタシは、ワタシではない“何か”になっていた。
きっとワタシは、人間ではなくなったのだ。
少しの間、硬い岩の台のようなものに仰向けに横たわったまま何も考えずにいると、先ほどソウを殺した体格のいい黒ずくめの男が、洞窟の外からワタシが目を覚ましたことに気付いた。
男は、手に血をきれいにふき取った伐採斧を持ったまま、慌ててこちらに歩み寄ってきた。
そして、ワタシに向かって跪き、深々と頭を下げた。
ワタシは、最後にソウと女が話していたことを思い出した。あの時は恐怖のあまり何も考えていなかったが、この黒ずくめの人間達は、なんらかの理由で、ワタシを神として崇めたかったということだ。
男は謎の行為を終わらせると、即座に洞窟の外へ飛び出していった。
ワタシはこれからどうすればいいのか、少し考えた。
今のワタシには、二つの選択肢があった。一つは、自ら自分の死を選ぶこと。もう一つは、これから一生、あの黒い連中に従って生きること。
その二つの選択は、この時のワタシにはあまりにも簡単すぎた。
ワタシは、迷いなく自らの死を選んだ。
ならばとワタシは岩の台から妙に軽い体を起こし、薄暗い中そこら中に置いてあったたいまつを手に取った。
そして、やけに細く感じる自分の腕にたいまつの炎を押しやった。
「……?」
それから何度も自分にたいまつをつけようとしたが、炎は燃え移るどころか、まるでワタシを避けるようになるだけで、一向にワタシが燃えてしまいそうにはならなかった。
そこで、ワタシはあることを思いついたのだ。
今までなら絶対に考えることはなかったであろうことだった。ワタシは、三つ目の選択肢を見つけた。
それは―
―今ここにいる黒ずくめの全員を殺すこと。
今のワタシに目の感覚はなかった。耳も聞こえなかった。何も、感じることはなかった。
だが、今ワタシは世界が手に取るようにわかったのだ。全てを客観的に見ることができた。そんな気がした。まるで、神にでもなったように。
すぐにワタシはたいまつを両手に取り、洞窟の外へ出た。
外に出ると、遠くの夜空に右側が少し縮んだ青白い月が見えた。冷たい風が肌を撫でていった。自分がこの世にいないような、奇妙な感覚がした。
ワタシが眠らされていた洞窟は、盆地を囲む岩壁の中腹あたりにあることがわかった。
洞窟の外には、岩肌に沿って片側が崖の狭い通路があった。そこから、盆地の全体を上から見下ろすことができた。
盆地には、円柱に円錐型の屋根をつけたような形の比較的大き目のテントが幾つも並んでいた。その中央には、何か儀式的なものを行うための幾何学模様が描かれた広くて丸い空間があった。
ワタシの国に攻め入って来たときにいた、何万人の黒い影は幻影だったのか。 盆地に黒ずくめの者は数百人程度しかいるように思えなかった。
ワタシは、岩肌に沿った狭い通路から、燃え盛るたいまつを盆地に向かって無作 為に放り込んだ。
たいまつの炎が布地のテントに燃え移り、中から黒ずくめが数十人出てきた。その後もワタシはたいまつを放り込み続け、盆地は炎に包まれ大混乱になった。
「―抗う意思はないはずじゃ! ―そうだ、薬が、薬が足りていなかったのじゃ! すぐに薬を用意するのじゃ!」
その中で、ワタシの耳に飛び込んできたのは自分のことをワタシの母親だと名乗った、あの、女の声だった。
赤い炎の海から、狭い通路を伝って這い出てきた人間がいた。あの、女だった。女は、ワタシに猛烈な勢いで走って向かってきた。
彼女からは、とてつもない敵意を感じた。
「そなたは悪魔じゃ! 神に近しい者は感情を持ってはならぬのじゃ!」
最後まで、哀れな身なりでワタシの“母親”は叫んでいたが、ワタシは、たいまつの先のとがった柄の部分を、その“母親”の心臓に、ソウがやろうとしたのと同じように、迷いなく突き刺した。
彼女と同じように這い上がってきた他のものにも、ワタシは彼女と同じようにして手を下し、黒い一団はやがて全滅した。やけに呆気なかった。
―思えば、ワタシには三つの選択肢があった。
もしワタシに感情がないとすれば、黒い一団の彼らは三分の二の確率で助かっていたのだ。運がなかったのかもしれない。
そう、きっとソウも、ワタシの生まれ育った国も、運がなかったのだ。
ただ、それだけなのだ。
夜が明けて、盆地を隔てた山々の隙間から薄白い太陽が昇った。細い雲が点々と空に散らばっていた。
ワタシは、灰になった彼らの巣窟を彷徨した。
盆地の底はもはや灰になって何も残っていなかったが、岩壁にある洞窟は火が燃え移っていないものがほとんどだった。
岩壁に沿った通路を歩いていると、さっきワタシがいた洞窟と同じようなところがいくつもあった。
ワタシは、その一つ一つの洞窟に入って回った。
その中には、何年分もの食糧を保管している部屋や、見たことのないような大きな機関銃や、大量の弾丸などの武器を備蓄している部屋、更には棚にきれいに整列され、一つずつ小瓶に入れられた液体薬品のようなものが敷き詰められている部屋まであった。
ワタシは、他よりもかなり大きい一つの洞窟へ足を踏み入れた。
そこは他の保管庫と同じように灯りが全くなく、辺りがほんのり薄明るくなったおかげで、ようやく中の様子が見えるくらいの薄暗い場所だった。
そこで先ず目に入ったのは、数十人程度の、目を閉じた人間達だった。彼らは皆ぐったりと壁にもたれかかっていて、恐らく死んでいた。
死んでからの日が浅いのか、もしくは何か特殊な薬で劣化を抑えているのかはわからないが、皆、眠っているように不自然な形をしていた。小さな子供もたくさんいた。
ワタシは、細長い通路の奥へと進んだ。
すると、足元に一つの中身が空っぽの小瓶が転がってきた。
ワタシはそれと、その近くに置いてあった、その薬品の用途などが書かれている紙切れを拾った。
紙切れを見ると、その薬品が一時的だが生命を生き返らせることができる蘇生薬だと言う事が書かれていた。
ふと目をあげると、ワタシは洞窟の一番奥の壁にもたれかかっている人間に気が付いた。
そこには人間が二人、並べられていた。
一人は、胸の中央に大きな穴が開いた少年。あの時黒ずくめの男に殺されたソウだった。
―そして、もう一人は……“ワタシ”だった。
ワタシは、目の前にある自分の体を暫く見つめていたが、その体はやがて薄く目を開けた。
その虚ろな瞳が、こちらに目を合わせた。そして、体はワタシと同じに暫くワタシを見つめた後、突然こう言った。
「―僕の名はサラ。以前の記憶が無くなってしまったのだけれど、一つ、覚えていたことがあるんだ」
その、中身がないはずの体は自身のことを“サラ”と名乗った。―即ちワタシの名を名乗ったのだ。
「僕には、君を守らなければならない使命があるんだ。これから、どんなことが起こっても君を守るよ」
微かに微笑みながら彼は、いつかのワタシの親友が最後に言ったことと、同じことを言った。
灰の中では一話だけです! 次回の更新は大分先になりそうです……(´・ω・`)